Ⅱ
海の轟きが足裏まで振動する。喘鳴が喉を掠めた。
遂に登りつめた砦の最上部。扇状に象られたそこは、見渡すほどに広い。
かつて装飾として建てられていた柱の残骸が、ひび割れた石床に散乱していた。
ぐるり。周囲を取り巻く凹凸の防御壁は、敵を迎え撃つ砦の趣を留めている。屋上よりも更に高く取り付けられた幾つもの見張り塔にも、海戦の痕跡が醸し出されていた。
反面中央の広場にあるのは、なぎ倒された銀の水盤や、苔むした石壇。やけに左右対称にこだわった配置や実用性の薄い華美な装飾に、儀礼めいた物々しい雰囲気を感ずる。拘束具らしき台と鎖に飛び散った血痕さえ視界から覗けば、宗教的な儀式を執り行う祭壇と呼べなくもない。
そんなものよりも、呼吸を乱した俺の視線はただ遠くの一点に吸い寄せられていた。
人がいた。
西の海原の向こうへと傾いた満月と向かい、男は孤高に佇んでいた。足元に転がる瓦礫。すらりと伸ばされた痩身。海上を打つ風がその髪の毛先をも弄る。
外壁の窪みに手を掛け、こちらなどへは目もくれず、風流を愛でる詩人と呼んでも差し支えない穏やかな横顔が己とそっくりなものであることに――俺はそれほど驚かない。ただ胸に満ちたのは安堵にも似たぬくもりで、まるで自分が初めから彼に会いに走ったかのようにすら思えた。
「コウキ……」
そう呼んだこの喉は掠れた。自分の声ではないようだった。僅かに呼吸が苦しくなり、息を吸いたくて口を開ける。言いたいことがあるのに言葉にならない。声に出せばこの心が引き裂かれ、何かが溢れてしまいそうだ。
コウキは振り返りもしない。ただ魅入られたように広漠たる大海原を眺めている。吹き荒れる潮風は海水を巻き上げ、細やかな飛沫となって祭壇に降り注ぐ。
逆巻く海面とは裏腹に、祭壇は澄みきった静寂に満たされていた。俺は足を踏み出す。転がった石塊を避け、硝子の上を滑るように息を殺して。
……月は美しかった。場違いなほど。
明々と透けるコウキの立ち姿は凛とし、堂々としている。そのしなやかで力強い佇まいには世界救済を唱える“救世主”らしい貫禄があり、品格があった。しかし何故だろう、俺には彼が、誰かの助けを心細く待つ子どもに見えた。俺は恐ろしいなどとは欠片も感じなかったのである。
代わりに、俺の心を占めて蝕むこの痛いほどの息苦しさは何であろう。
「……」
肩を並べても尚、コウキはこちらに一瞥もくれない。その真剣な眼差しは、俺が隣に歩み寄ったことで微かに険しさを帯びた。
俺はふっと彼から目を逸らし、眼下を覗き込んでみる。
地嘴にへばりつくようにして建てられた海砦の最上部は海に突き出、渦巻く海面は足が竦むほどに遠い。己がこれほどまでに高い場所にいたのかと肝が冷えた。海よりも、むしろ空の方が近くにあるように錯覚した。
手を伸ばせばその指先から夜に染まって――そんな思いに囚われ、腕を伸ばした俺は風に煽られて落ちそうになる。
「……昔々」
何の前触れもなく口を開いた、コウキの声はお伽噺を語るそれだった。俺の首がそちらに回る。それでも、彼の力強い双眸は天にとらわれたまま。
「化け物が」その発音は、どことなく苦しそうだ。「俺がこの手で殺し損ねた化け物がいた」
「……化け物」
「そう」初めてコウキは俺に応える。それがなければ独り言かと紛うほどに、遠い眼差しは頑としてこちらを見ようとしない。
「……てっきり死んだものと思っていたのだが……どうやらこの目を掻い潜り、今も生きているのだと」
ついこの間、知ったのだ。そう締めくくった彼は、静かに瞼を閉ざした。語尾の余韻が俺たちの体温で溶けていく。
そのまなじりから一筋の涙でも零れやしないか。俺は己とそっくりな顔立ちを凝視した。惹きつけられたと言ってもいい。自分のものとよく似ているのに、やはりどこか違う。
本人の気質そのもののようくっきりと通った鼻筋に、西大陸の強い日差しに灼かれた肌に、乾燥したまつげの一本一本に、心が震え湧き立った。
「実に厄介なことにな」
一回り大きくなった声が、沈黙を打ち砕く。俺の心臓はドキリと脈打った。あの直進しか知らぬ瞳がこちらを映す。
その透き通った色に思わずたじろいだ。魂が、激しく揺さぶられる。そして、危うく次の言葉を聞き逃すところだった。「そいつは今、この俺の姿に化けているらしい」
「……え」
コウキの動きは滑らかだった。気付けば視界の端に無機質な冷気が触れ、それが何であるか理解した頃にはもう遅い。突きつけられた言葉にはまるで血が通っていなかった。耳から心臓を貫くようだった。
「俺の真似事は楽しいか? ――この死に損ないの化け物が」
首筋に、すらりと抜かれた白刃が添えられる。ほんの僅かにでも動けばその切っ先は俺の皮を裂くに違いない。睨みつけるような眼光が、俺を射貫いていた。
そこに籠っているのは、紛れもない殺意だ。俺はすぐに、この男は刃を振り下ろすことに何の躊躇いもないのだと知る。
「――ばけもの」
鸚鵡返しにした己の声は、思ったよりもしっかり根を張っていた。刃を向けられているというのに、俺の関心はただただコウキにのみ注がれている。
彼は首を窄めるようにして首肯し、一度剣の切っ先を外して半歩下がった。その立ち居振る舞いはまるで舞台役者のように毅然とし、服の裾は海風に舞い遊んだ。
「そうだ。気付いていなかったのか? それとも気付かない振りをしていたのか?」
「……」
「少なくとも、こいつは気付いていたぞ」
言うや否や、コウキは足元の瓦礫を乱暴に蹴散らした。派手な音を立てて崩れる石塊の山。その下に生きた人間の呼吸を感じ、俺はぎょっとする。息をするというより、咳き込んでいた。
土で汚れた髪と手が見える。爪は剥がされていた。こびり付いた血痕を目線で辿れば、瓦礫の下敷きになった腕も血だらけだった。
砂埃に煤けた青い着物の切れ端。酸素を求めて咽るその声には聞き覚えがある。
如何に脳が理解を拒もうとも衝撃が口走り、俺はその名を呼んでいた。「翔……?」
返事はない。脚が動くのに時間がかかった。慌てて駆け寄り、膝をつく。崩落した壁らしき岩石を力の限りに除ければ、傷だらけの身体と頭が這い出てきた。手を伸ばす。乾いた血の跡が俺の掌にざらついた。
「だ……」大丈夫か。そんな言葉すら喉の奥に引っ込んでいく。殴られたのか、顔にも身体にも薄紫に変色した部分があった。手足の生爪が残らず裂かれ、剥がされているのが痛々しい。
引っ張りだそうとしたとき、翔が悲鳴じみた呻きを上げる。人間らしさを失った、醜く潰れた動物の断末魔だった。ぎょっとして離した翔の手が力なく落ちる。背筋が震えた。
肩を丸めて激しく咳き込んでいる。その口から飛び散る血と吐瀉物が瓦礫に染みをつくった。
「死ぬ前に友達に会えて良かったな」コウキの口ぶりは決して感情的ではなかった。面白がっているような素振りもなかった。
俺は何と言ってよいか分からなかった。言いたいことがあるとすれば、一体どうして人間は道を踏み外し、これほどまでに残酷非道なことが行えるのか、という途方に暮れた困惑だった。
傷だらけで瀕死の翔を見下ろす。暴力という生易しいものではない。拷問だ。到底人間らしい温情を持った者に出来ることとは思えない。
どうにかして生きたまま助け出そうと奮闘する俺の姿を、コウキはじっと眺めていた。
下肢を押し潰していた瓦礫を除けると、黒ずんだその足は既に足の形をしていない。獣に噛み千切られたような傷跡から白い脂肪の筋が見える。翔の目にまだ光が宿っているのが信じられないくらいだった。
「どうして……」
俺の声は蒼白だった。様々な感情が頭の中を駆け巡り、最後に残ったのがその一言だった。恐怖でも怒りでもなく、ただ震えていた。
コウキは防御壁に寄り掛かっている。つまらなそうな、それでいて何か別のことに気を取られている面もちをしていた。
「遺言くらいは聞かせてやらねば可哀想かと思ってな。……一人で死ぬのは寂しかろう」
「……」
俺は声に出して何かを言いたかった。ただ、上手く息が吸えなかった。何度か肩を上下させ、翔を抱きかかえ顔を覗き込む。生暖かい吐息が触れた。その口が微かに笑う。「こんな死に方は嫌だな……」と聞こえた気がした。泣きそうな声だった。
翔が、遠くに見える。苦痛に歪んだ翔の顔が。
断ったんだ、と翔は途切れ途切れに呟いた。その声はまだ正気を保っているようだった。何を、と訊き返そうとした俺は、一度口を閉じ、顔を上げる。思い当たることはひとつしかなかった。
「もしかして……不老不死の探求?」
「探求と称していたのは昔の話だ。今や、我々は不老不死になる方法を手に入れたのだから」
思った以上に、あっさり予想は的中した。しれっと返したコウキは勿体ぶる様子もなく、かつて永遠の命を求めた過去を懐かしむような目をした。
それは彼自身がその時代を乗り越えてきた証明にほかならない。俺はそう確信する。そんなコウキがこの寂れた遺跡の祭壇に立っている今の状況は、時代錯誤以外の何物でもないように思えた。
不老不死の探求なるものが巷で流行したのは遥か昔、大陸統一以前の戦国時代。彼は一体いくつなのだろう。
「……ただ、初めの頃は不老になることが本来の目的ではなかった。いや、確かに不死研究の一環ではあったのだが」
コウキの口ぶりはやや遠く曖昧になった。え、と沈黙する俺を一瞥し、その瞼を閉じる。それは過去の過ちを悔いているような表情だ。
「当初この方法は“切り離し”と呼ばれていた。初期の実験段階では命の保障などなく、どちらかと言えば無謀な類なもので、大勢のネクロ・エグロが死体の山となった。切り離された者が永続的に歳を取らなくなることに気付いたのは、初めて切り離しに成功したこの俺自身だ」
「切り離しって……一体何と何を……?」
怖気が走るような、嫌な響きだった。俺は無意識にそう訊ねていたが、心のどこかで答えを分かっていたような気さえする。
「スコノスだよ」答えたのはコウキではなく翔だった。苦しげながらも言葉の一つ一つを大事そうに噛み締める。「こいつら、ネクロ・エグロを捕まえて、片っ端からスコノスを引き剥がしているんだ……」
ああ。俺の口から漏れたのはそんな声だった。ああそう。まるで端から知っていたかのように驚きはこれっぽっちもなく、それなのに心臓はきりきりと窮屈に締め付けられるのだった。
コウキの真剣な眼差しが、じっとこの俺に降り注いでいる。きっと今の俺は血の気の引いた顔をしているに違いなかった。誰もが言葉を失くした頂上の祭壇で、海の音も遠く、ただ自分の胸の鼓動だけが、どっ、どっ、と鳴っている。
まるで閉じ込められた何かが、俺の胸を内側から拳で殴っているかのように。
自分の手元に目を落とす。俺の膝に頭を預けていたその弱々しい目と視線が絡み、ほんの僅かに翔は目元を緩めた。その顔は血と泥で汚れ、唇は切れ、左頬には大きな青痣が浮き上がっている。ただその苦しげな笑みに、俺は応える気になれない。
――翔は気付いていた。一体何に?
「皓輝……お前はネクロ・エグロなんかじゃない」
翔が、感情のない声でそう告げた。俺は瞬き一つしない。自分は今どんな顔をしているのだろう。
「スコノスを呼び出すことなんて出来る訳なかったんだ」
何週間も前の縁側での会話を思い出す。翔は気付いていた。でも、気付かない振りをしていた。ただそんなことが頭の片隅を過った。
「何故なら、お前自身がスコノスだから」




