Ⅰ
星も疎らな夜空に、物哀しげな獣の遠吠えが尾を引いた。
俺の肩がぶるりと震える。寒さではない。右肘の古傷が、骨が軋むように疼いた。堪えきれず「白狐さん、今の……」なんて震えを押し殺せば、前を進む彼も察しがついていたらしい。肩越しに振り向いたその面持ちは病的に白かった。
「ええ……近くに豻がいるようですね」
豻。それは俺が最も不得手とする悪霊の名である。山をうろつく無慈悲な狼のようで、銅鉄を食い散らかし、迷い込んだ旅人を襲う。実際に対峙してみればそんな形容すら生易しく、あの鉄の猛獣にひと睨みされたときの悍ましさときたら思い出しただけで震え上がる。
俺は無意識に、新しい革の鞘に納めた短角刀を握る。豻の角は魔除けになるとか何とか。不意に抄扇でこれを売りつけてきた髭面の親父の顔が思い浮かび、彼のことが無性に恨めしくなった。
物理的な武器がこれだけではどうにも心許ない。不安を訴えた俺は、格好つけに一振りの刀剣を背負わされることになる。物置の隅に転がっていたそれは、使い古しとはいえものはいいらしく、しなやかに沿った刃は羽のように軽い。まるで自分の命のように。
武器を扱える器でないことは嫌でも自覚している。抜く機会がないことを祈るばかりだ。ちぐはぐな装備で身を固めた俺は、初めて戦場へと赴く新兵卒の気分である。
「もし豻が襲ってきたら、どうしますか」
「お引き取り願うしかありませんねぇ」
白狐さんの口調は飄々としている。しかし彼の眼光は隙がなく、警戒を解かない。その真剣な眼差しは、豻以外の脅威を恐れているように見えた。
九月も終わり、一日の残光が地平線の向こうに消えた頃。旅支度を整えた俺と白狐さんは、揃って例の西海岸へ向けて出立した。
何故太陽のある内に発たなかったのかといえば全ては紫外線を厭う世捨て人の主のためであり、これまで散々日光に弱る彼を見てきた俺は夜間の旅を承諾せざるを得なかった。
俺は翔のように夜目が全く利かない訳ではない。とは言え、大抵の人がそうであるように足場を悪くする夜そのものの億劫さや、悪霊が蔓延る時間帯への本能的な畏怖がある。不透明な闇に沈む山道を歩く度、かつて豻に噛み切られた右腕の傷跡が疼くようだった。
さて、それから幾日経っただろう。霊域では時間の感覚はとうに狂い、体内時計など何の役にも立たない。空の梢の隙から垣間見える月と太陽だけが、日にちの経過を教えてくれる。
湿った苔で覆われた地面はいつしか膝丈ほどの下生えに変わり、それが過ぎればやがて草も疎らな岩場になる。深山幽谷とした野道は目が醒めるような静謐さに満たされ、天に枝を伸ばす古い杉の大木が美しい。遥か遠くに突き出た山稜は昼間に青く、夜は暗澹と霞んだ。
どこかで夜露が垂れている。風に翻る針葉が月光を煌めかせ、闇の向こうで蠢くものどもが遠巻きにこちらを窺っていた。見張られているのだろうか。
油断は禁物だ。ただでさえ俺は自然霊から敵意を買いやすいらしい。遠くで再び響いた豻の咆哮を気にしつつ、俺は白狐さんの背を追う。
「あの」堪らず口を開いた。不安げに揺れる声だ。「本当に歩いているだけで辿り着くんですか?」
幾度も繰り返されたよう、霊域とはつまり不規則な異次元空間である。でたらめな空間の繋がりを直線状に歩いて目的地を目指すなど、控えめに言って賢くないやり方に思えた。
「心配にはおよびません」返ってきた白狐さんの声音は落ち着いている。決して自棄になっている訳ではないと分かり、俺は少しばかり安堵した。
「これが持ち主のところまで僕らを導いてくれますから」
彼の指先に垂れているのは翔の耳飾りである。悪霊に届けられたそれは、白狐さんが翔の二十八の誕生日に贈った思い入れの深いものだ。俺は微かに息を切らし、首を傾げる。
「ものにそんな効果があるんですか?」
「はい。……これは招かざる客のやり方と同じです」
招かざる客、とは疫病や災厄を運ぶ悪神の暗喩らしい。
人里や都邑、そして霊域の周囲には、目に見えない“線”が形成されている。密集した人々の生気、俗気、自然霊の加護。そういったものが災いの勝手な侵入を防ぐ。いわば自然のバリアーだ。
「悪鬼がその線を超える方法は二つあります。ひとつは中に棲むものに“招かれる”こと。もうひとつは中に棲むものの何かしらの持ち物を身に帯びることです」
民間伝承によくある話である。狐狸など人を化かして悪さする妖怪は、あの手この手を尽くして人の住む里や家屋に入ろうとする。時として彼らは招かれるため、人間に手紙や贈り物をすることもあるという。
何を隠そう、苔森の周囲にも線があり、招かざる客は入ることが出来ない。それは禍災や病魔だけでなく、奴隷商人などの人も弾かれる仕組みになっているそうだ。
「それ、初めて知りましたよ」俺は呆れ半分に言う。仙人の家はセキュリティが発達しているらしい。「確かにあの一帯だけおかしな雰囲気だなと感じたことはありましたが」
「ちょっとした仙界ですからね」一瞬だけ口元を綻ばせた白狐さんは、すぐに真顔に戻った。
「……まあ何にせよ、これがある限りそれほど苦労せずあの遺跡まで行けそうです」
耳飾りの先に結わえられた木の細工が揺れる。乾いて黒ずんだ血の跡を見れば、それがいいことなのか悪いことなのかすっかり分からなくなった。
翔は無事だろうか。最悪の可能性が過る度に首を振り、ここ数日俺はただやみくもに前へ進むことだけに集中している。奴が姿を消したあの日以来音を立てて広がる日常の亀裂がこれ以上深くならないことを願い、俺の歩みは自然と早くなった。
――それは何の前触れもなく、全く唐突に目の前に開けた。
霞が晴れるような、或いは、雨雲が拭い去られたような、そんな清涼が頬を掠める。感嘆の吐息をついた俺の口腔はそのまま大きく息を吸い、磯の香りが肺までなだれ込んだ。
……海だ。
立ち止まった世捨て人の主の肩を除けば、視界を遮るものは何もない。遥か彼方まで広がる一面の海原。空と水平線が黒く溶けて混ざり合い、岩礁が点々と後を追っている。天の頂に差しかかった満月が場違いに穏やかな光をたたえ、汀を金色に染めていた。
またひとつ霊域の境を超えたのである。しばらく立ち尽くした。頭で理屈を理解していても、やはり実際に目の前で起こると理解するのに時間がかかるものだ。
先程までいた針葉樹林は最早跡形もない。俺と白狐さんは、真っ暗な深夜の海岸に並んでいる。
首を背後に回しても、荒涼としたと絶壁が沈黙の最中にそびえるのみ。そして目下に横たわる大海原。恐る恐る足元を覗けば、遥か下でうねる黒波が、幾度も岩壁にぶつかっては泡立っている。
海だ、と俺は呟いた。見たままの景色を口にしただけであったが、瞬間的に場所移動するという体験のあまりの奇妙さに脳が不整合を起こしている。霊域の境目は、夢の中で場面が切り替わったときの唐突さに似ていた。
正直なところ、目的の地に着いた幸運よりも帰り道の方が気掛かりではある。
「……」
俺はふと、白狐さんの視線の先につられる。黒く濡れた海食崖は、引き絞られた弓なりに反って続いていた。
剥き出しになった岩石はそのひとつひとつが動物の頭蓋骨のようで、ぎっしりとへばりついた深緑の藻は人間の毛根を思わせる。流れ着いた溺死体が折り重なっているようにも見える。
白狐さんは無言で俺の肩を押した。大丈夫ですよ、と励まされたようだった。何だか口をきく気になれず、彼と肩を並べ、蛇行した海岸線に沿って足を踏み出す。
幾ばくも経たぬうちに、俺は不吉な違和感を覚えた。
潮風と波に粗削られた海岸は、どこまでも無人だった。にも拘らず、目に見えない大勢の孤独感があちこちに染みついていた。
そして俺の気が狂ったのでなければ、確かにさっきから俺と白狐さんの後ろを何者かが付いて来ているのである。
ひたひた、しめやかな足音が。目に見えない裸足の裏が、湿った岩盤を踏みしめている。生きた人でないことはすぐに分かった。あまりにも存在感が薄い。生き物にあるべき匂いや呼吸の生々しさが欠けている。
困ったことに五感というものは怖いときほど鋭敏になるものらしい。澄ましたつもりのない聴覚が、俺を追う息遣いを捉える。やけに近く、あるはずのない体温まで伝わってくるように錯覚した。
気にしないように、気にしないように。そう己に言い聞かせる俺は、とんとん、不意に誰かから肩を叩かれる。
「……――」
喉を圧迫した悲鳴を飲み込んだ。咄嗟に白狐さんが手を握ってくれなければ、進めなくなっていただろう。耳の下に誰かの息遣いが触れる。背後に何者かが立ち、俺の両肩を掴んでいた。
「振り返らないで」
冷気を帯びた白狐さんの言葉に、ぎこちなく頷く。手を引かれ、覚束なくなった足を前に進める。肩にかかった重圧が少しばかり緩んだように思えた。しかし、確かに誰かがそこにいる。
振り返ってはいけない。決して、後ろを見てはいけない。
“あちら側”で生者が守らねばならない掟は山ほどある。例えば「よもつへぐい」、「見るなの禁」――ルールを破れば二度と元の場所に帰れなくなる。
だから、振り返ってはいけない。
砦へと続く海岸線は、地面の平坦さを失いながらも拙く続いていた。俺は徐々に気分が悪くなる。陰気臭い空気が肺を圧迫して、脇の下に汗をかく。
「人が大勢亡くなった地で、往々にしてよくあることです」
白狐さんは相変わらず冷静だった。いや、俺はようやく彼が冷静を装っていることに気付いた。繋いだ手が微かに震えている。仙人にも怖いものはあるのだなぁと俺は束の間感心したりもした。
感覚の鋭敏な者はかつての殺人現場にいるだけで引き摺られ、気分が悪くなるという。強烈な感情は場所が記憶してしまうのだ。まるでカメラが光を焼き付けて写真にするように。
焼き付いた感情は時を経ても尚、そこに残る。そして時折、壁から、床から、天井からずるりと抜け出し、亡霊のように徘徊して呻きを上げる。
持ち主だった人間は、既にこの世にいないのだろう。死の間際に置き去りにされた感情が、記憶が、行き場を失い彷徨うのだ。鳴蛇の荒野で過ごした一夜のように。
周囲を取り巻く亡霊どもの数は増すばかりで、俺は既に精神の平衡を失いつつあった。自分が自分でなくなるような錯覚を覚える。脳に直接流れ込む、怒り、畏れ、悲しみ……道に染みついた記憶の亡骸が俺に乗り移っているのか、それとも初めから俺は亡霊だったのか、それすら判別つかないほどに。
白狐さんの冷たい手だけが俺の朦朧とした意識を繋ぎ止めていた。彼方、鳥の嘴のように突き出た海の断崖と、その先にへばりついた要塞砦が薄ぼんやりと浮かび上がったのは、それからどれほど経ってからだろう。
海に半ば身を乗り出した地嘴の砦。遠近感が狂うほど巨大で、重厚である。生々しい血の歴史に塗られた佇まいに気圧され、自然と足が止まった。その迫力こそ、不死への渇望が醸し出す禍々しさである。
真正面には既にその役割を果たしていない大きな門跡があった。砂風に晒された奇岩群のように、建物の痕跡が一帯に林立している。背の高い尖塔は見張りのためのものなのか、ひとつだけ崩落しているのは襲撃でもされた跡なのか。初めて訪れた地にしてこの眩暈がするほどの既視感は、あの夢のせいなのか。
否、俺は確かにこの地に来たことがある。夢で見るよりもずっと昔に。突如としてそんな確信が湧き、意識が鮮明になる。水に溺れかけていた者が縄を掴んで身体を引っ張り上げるように。
数歩先の白狐さんが俺の名を呼んでいるらしい。口が動いている。しかしその心配そうな声は、既に俺の聴覚には遠い。
俺は呆然と夢で見たままの海岸の廃墟を眺めている。奇妙な引力を感じた。それは前世の因縁のように、俺の身体の奥深いところに染みついていた。
自分でも気付かないほど深い底に、自分では思い出せない誰かの記憶があった。揺り起こされた赤ん坊のようにそれが徐々に瞼を開けば、景色の輪郭がよりくっきりと濃くなる。
一方で現実感が急速に失われつつあった。本来ここにあるべき匂いや音がぼやけて捉えにくくなる。透明な意識は余計な情報を排除し、視覚はただ砦の頂上一点にのみ集中していた。
束の間、身体から意識が離れ、俺は砦の最上部から俺自身を見下ろす。俺は潮風に頬を嬲られながら俺が来るのを待っている。
はっと気が付けば俺はまた地面で立ち尽くしていた。今のはどちらだ? 俺はどちらだ?
「皓輝くん……!?」
突然、世捨て人の主の声が肩越しに引き千切れる。俺は駆け出していた。彼の制止を振り切り、再度呼ばれた名は空しく響いた。それは俺の名ではない。
遺跡の陰影が目前に迫ってきていた。心底恐ろしかったが、それを上回って身体を突き動かすだけの衝動があった。早く、早く、と。心が急かす。ああ、あのときと同じだ。あの春雷の日と同じ、五感が鋭く、怖いくらい研ぎ澄まされていく。
頂上で待つのが誰なのか俺は知っている。それは俺自身だ。
足を踏み入れた途端、長らく人間が出入りしなかった空間特有の重苦しさに包まれる。しかし、もし俺が目敏ければそこについ最近誰かが侵入した痕跡を見出せただろう。
内部の構造は思ったよりも複雑だった。幾つかの間と呼べそうな区切りの痕跡がある。床が崩落し、地下と階上が融合している。今は瓦礫となっているが、確かに何らかの目的や意図があって建設されたということが分かる、
円蓋を戴いた入口の広間を横切る。壁と思しき残骸が往く手を塞ぐので、仕方なくよじ登る。触れる壁肌は冷ややかで、生き物を拒絶する墓石じみていた。ここだけではない。大勢の死が、執念があちこちに染み込んでいる。
高い天井から藻が垂れ、どこからか入り込んだ海水が泥っぽい水溜りをつくっていた。思い切って飛び降り、足の下で水気を帯びたものを踏む。ぐちゃり、という音が不規則に響く。
一足踏み出すごとに誰かの嘆きが潰れ、一足蹴るごとに誰かの悲鳴が体内に反響した。ここで死んだ者たちの記憶が俺の心を激しく揺さぶる。
上へ、と喘いだ。自分の精神状態が普通でないことは何となく分かったが、それでも脚が止まらなかった。どうにかして上に行かなければ。
平静さを失った俺は、ただ何かに突き動かされて、崩落しかけた砦の最上部を目指して走った。




