Ⅱ
「……オハヨウゴザイマス」
「ええ、どうしたんですか」竈で火を熾している白狐さんが、肩越しにぎょっとする。「目の下に隈なんかつくって……」
翌朝。いつもより遅く起床した俺は、まだ寒い厨で大欠伸をかます。目の奥がずしりと重く、痛い。
朝餉をつくる手伝いを申し出たが、見るからに寝不足の俺を案ずる白狐さんに断られた。暇を持て余し、竈の前で膝を抱える。うとうと、心地よい微睡をぬくもりに委ねた。
「皓輝くんが夜更かしなんて珍しいですね」
「なかなか眠れなくて……十月十日、までは分かったんですけど」
「それ何の話です?」脈絡なく呟いていると、さすがに本気で心配されたらしい。顔色を変えた白狐さんに、むにゃむにゃ、手短に経緯を話す。
昨晩あの謎の文字列の解き方がようやく分かった、と意気込んでいた俺はすぐに新たな壁にぶつかり、行き詰ってしまった。
初めの一字と比べ、他の漢字はどちらかといえば画数の少ない単純な形だ。朝イコール十月十日の法則に従って全てを分解すると、それによって浮かび上がる文字は単調で、組み合わせるにはあまりに多彩過ぎる。
それでも根気よく思いつく限りの分解パターンを紙に羅列していた俺は、途中で発狂した挙句そのまま寝ていたらしい。目覚めたときには書案に突っ伏して朝陽を浴びていた。
文字占い、と意外そうな声が飛び出て初めて俺は、彼に夏至祭での占術師の話をしていなかったなと思い出す。
「白狐さんは、扶鸞をご存知ですか?」
そう問えば、彼は力強く頷く。「もちろん、最近はあまり見かけなくなりましたが」
「じゃあ、解き方も分かります?」
僅かに安堵した俺は、口頭で七つの文字を読み上げた。ついでに昨晩、睡眠時間を削ってまで費やした解き明かしの成果も伝える。その間にぱちぱちと音を立てる炎は大きくなり、鍋の茶粥が煮えるいい匂いが漂い始めた。
白狐さんが手際よく雑茸を卵で包み、皿に盛りつけている。眠気もあれば食い気もあるらしい。説明の半ばで空腹が鳴った。赤面した俺は誤魔化しついでに立ち上がり、青菜の入った鍋の汁物を覗く。
「それ、魚醤を少し入れてください」
「はいはい」
調理器具に手を伸ばした。魚醤はどこだったか。戸棚の瓶の蓋を取って匂いを嗅ぐ。不意に白狐さんが振り返らずに口火を切った。料理をしながら考えていたらしい。「文字占いというのは」
「……色々な解き方があって、これが正解というものはないのです。占術すべてに言えることですが、実際に事が起こってからでなければ当たったのかどうかも分かりませんし」
「気休めにもなりませんか」
「そんな顔しないでください。きっと役には立ちますよ」
とん、と盆に並べられる朝餉。食事の後、ゆっくり考察してみましょう。そう微笑んだ世捨て人の主の目尻にも、寝不足の陰が見え隠れする。
彼にも安眠を妨げる悩みがあるのだろう。俺はふと、漆塗りの盆に目をやって首を捻った。
「……白狐さん、何故茶碗が三人分あるんですか?」
「ああ、これはあの」気まずく天井を彷徨う紅色の視線。そうして消沈して肩を落とす。「……翔がいないのを忘れていました」
しっかりしてください、と窘める俺もやはり憔悴している。寝不足というだけでなく、快活な翔のいない世捨て人の生活は喪失感が漂っていた。
***
「朝、未だ来ず。死んだ子の口也……ですか」
食後、白狐さんと俺は居間で顔を突き合わせ、昨晩俺が書き散らした紙の束を眺めていた。明るい場所で際立つその乱雑さ。ぐちゃぐちゃと黒塗りにした修正箇所から苛立ちと眠気が伝わってくるようだ。
「不思議な詩句ですね。確かに一筋縄ではいかないかも」
白魚のような指が文字を撫ぜる。彼は目を細め、十月十日と感心した風に呟いた。朝というたった一字からこれを読み取ったのは、確かに自らの励みに繋がった。とはいえ、それも束の間。他の文字を分解する無限の可能性を前にしては、この情報は断片的すぎる。
白狐さんはしばらく紙を捲り、俺が自棄になって書き連ねた無数の分解例に目を通していた。
ちょっと書くものを、と頼まれ、俺は彼に竹筆と硯を差し出す。何か閃いたのか。さらさらと白紙を滑る流麗な文字。その手元に目を奪われた。
「つりばり……」
「え?」
「ひとつだけ分かりました。口と子と也で“吼”という字になります」
改めて、彼は丁寧に筆で書いて見せる。覗いて初めてあっと驚かされた。盲点だった。分解するのとは逆に、漢字同士を組み合わせるという発想が全くなかった訳ではない。しかし、部首の変化にまでは気付かなかった。「也」はすなわち部首の「つりばり」である。
……そう言えば翔が取りに行ったものは釣り針だったなと思い出した。まさか、あれが何かの暗示だった、なんて偶然だろうか。
「吼える……って意味でしょうか」
気持ちを塗り替えられて漏らせば、白狐さんは「恐らく」と控えめに頷いた。自信なさげではあったが、いとも容易く一歩前進したことに気力が再び湧きおこる。解けるかもしれない。頼みの綱を捕まえた気分だった。
「……しかし、これは光ちゃんに関する文字占いだったのでは?」白狐さんは慎重だった。「確かに一つの道標にはなるかもしれませんが、混同してはいけませんよ」
「そう、ですね……」
ばつ悪く相槌を打つ俺は、光の件と翔の件、どちらがよりこの状況で優先されるべきか計算していた。
二人まとめて助けてやるぜと威勢よく言い放てれば良かったのだが、手掛かりの少ないまま無鉄砲に飛び出すのは賢くない。確実性を考え、両者の命を天秤にかけている自分に嫌気が差す。
「とにかく、日付が分かっているこちらを解くことに専念しましょう。来月の十日まであと猶予がありません。……それに、翔の件に全く心当たりがない、訳ではないですし」
ぼそりと低く付け足された彼の言葉にはっとした。一瞬肌を刺した殺意はすぐに掻き消え、世捨て人の主の真剣な眼差しに冷や汗をかく。
やはり、白狐さんは翔の行方を知っている。敢えて助けに行かないのか、行けないのか、その理由を訊ねたい口はただ空気を吐き出し、解き明かしの続きを促す彼を前に言えず仕舞いとなった。
残された漢字は「未」「来」「死」の三字。ふと向かい合った白狐さんが「未来」と口に漏らす。頬がぴくりと引き攣った。その組み合わせは安直ではないか。短く放った己の言葉はどこか牽制のようだった。
「……死から月を連想したんですけれど、突飛すぎますかね」
昨晩の連想ゲームを口にしては、首を捻る。どうにも本質からずれている感が否めない。うーん、と白狐さんも難しい顔をして唸った。そのまま長考に入るかと思えば、突然彼は腰を上げる。
ちょっと待っていてください。そんな言葉を残して去った白狐さんは、一冊の分厚い書物を手に戻ってきた。梅紫の品がある表紙はその本が俗のものではないことを示している。
「それは何ですか?」
「今年の天体暦です」
天体暦……文字通り、地上から見える惑星の動きを一年の暦にした書物である。様々な暦の中でも占星術に使われることが多く、教養ある皇国民や天文学者はこれを読み込んで運気を占うのだ。
ぱらぱらと捲られたその中身を覗いた俺は、その内容の濃さに舌を巻く。毎年新しいものが売られるというのに、様々な星の見える方角や動きや意味などが一日一日隙間なく書き込まれていた。月という天体を神格化した天学。それを崇める孑宸皇国民の、天への関心と熱意がひしひしと伝わる。
白狐さんは目当ての項に人差し指を押し当てる。右端には十月十日の日付。隣のページには白い丸と黒い丸の図が並んでいた。
「月、と聞いてふと思い出したのです。天体は方角と時間を表しているのではないかと」紅の瞳はひたむきだ。月の周期を描いた天体暦の図表を指す。「十月十日は丁度満月です。……満月は夕刻東から昇り、明け方に西に沈みます」
そうだ、月というのは満ち欠けの具合によって、昇る時刻や方角が変わるのだ。無論それは地上から見える錯覚に過ぎないのだが。
「そして“死”という言葉が示す方角は“西”です」
一拍置き、俺は頷く。太陽が沈む方角は自ずと死や終焉を連想させる。落日は死に間際の輝きだ。確信に迫り、白狐さんは自然と早口になった。
「つまりこの“死”とは……“西の明け方”を暗示しているのではないでしょうか。朝未だ来ず、の詩句は夜明け前を暗示しているとも取れますし、十月十日の明け方、西で何かが吼えると」
彼の推理に戸惑いのような、感嘆のような吐息が漏れた。なるほど確かに日時と場所を示す文字占いの理に適っている。満月の沈む方角と時刻なんて思いもよらなかった。ただ……いささか歪曲しすぎている感も否めないが。
この解釈が当たっていて欲しい反面、すぐに答えに飛びつくことに抵抗のある俺は、「当日にならないと分かりませんね」ともっともらしく頷く。穴だらけであることは当人も分かっているのだろう。こちらが口にするまでもなく、疑問が呈された。
「……場所を表す言葉が“西”のみというのは心許ないですね。大雑把すぎます」
「ですよね」俺も眉を寄せる。「どこから見て西なのか、どこまで西なのか……」
もしかして西大陸、と同時に顔を見合わせた俺と白狐さんは、その予測が外れることを願うばかりだ。残された期日で海を渡るのはどう考えても不可能。光が西大陸まで売り飛ばされた可能性を数え上げては、頭痛を覚える。
あのイダニの救世主とかいう、俺のそっくりさんと連絡が取れたら心強いのだが……。
しばらく各々が考え込み、沈黙が続いた。改めて文字占いの新解釈を脳裏でなぞる。「十月十日、西で何かが吼える」……正解を知る術がないのが歯痒い。
指で紙の端を触っていると、ふと閃きが一文字に吸い寄せられた。白狐さんの流れるような筆跡は、その文字が本来持つ意味とは不釣合いだ。
「吼える……」
「何か思いつきました?」
「え、いや」俺は躊躇して後ろ髪を掻く。ただでさえ心許ない文字占い、これ以上信憑性のないものを口にして良いものか。「夢の中の話なんですが……」
ほう、夢を。存外興味深そうな彼の声に促され、結局俺は昨晩見た奇妙な夢の内容を打ち明けた。
「――その廃墟の地下室のような暗がりで、獣が吼えるような声を聞いたんです。怒りを剥き出しにしたような、威嚇の咆哮を」
双眸を閉じ、既に忘却されかけた夢の記憶を引き出そうとする。雌の猛獣のようだった。いや、もしかすると人かもしれない。少なくとも光ではなさそうだ。自分の妹があんな猛々しい声を出すとは思えない。
痛めつけられ、息を切らして怒り狂っていた女。あれは一体何だったのか。吼える、という言葉から思い出されたのはそれしかなかった。俺は少し後悔する。たかが夢の話なんてするんじゃなかった。
「なるほど。……夢をあまり軽んじてはなりませんよ。正夢という不思議なものもありますし、夢を見せるスコノスという珍しい力もこの世には存在します」
活性化―統合理論を口にしようとした俺は寸でのところで飲み下す。ここは異世界、ここは異世界と呪文のように唱えれば少し落ち着き、煎茶を啜る白狐さんに問いかけた。
「その、夢で見た景色なんですが」勧められた茶碗を受け取る。「……何だか妙にはっきり覚えていて、自分の空想上のものとは思えないんですよね」
海岸の要塞廃墟……と彼は囁いた。心当たりがあるような、ないような。頬に手を当て、さながら淑女のような仕草で考え込む世捨て人の主は、一枚の水彩画のようだ。
詳しい説明をと催促され、俺は身振り手振りをつけてあの風景を描写する。
「何だかこう――石造りの砦のような、古城のように見えました。正面に三つの立派な階段が伸びて、アーチが幾つも連なって、半円の回廊や階段が複雑に入り組んで、崩れかけていましたけど尖塔が四本建っていて……」
白狐さんの瞼がぴくりと持ち上がる。塔、と呟いた声は畏れに近いものが滲んでいた。俺は首を捻る。今にして思えばあれは孑宸皇国の建築物とは雰囲気が違うようだ。あれだけ古びているのだから、旧時代の遺跡なのかもしれない。
「尖塔とは、四つ建っていたのですか?」紅色の瞳が細まる。「その城とやらの四隅に……」
「いえ、ひとつだけ崩落していました。正面玄関から見て右手側のやつが」
俺はもう一度目を閉じた。そう、あの廃城。まるでミナレットのように四つの高い尖塔が対角にそびえていて、その一つが崩れてしまっていたのだ。よく覚えている。
思考が最後まで追いつかない内に、詳しく説明を重ねようとした言葉は白狐さんのため息によって掻き消されてしまった。
「僕は恐らくその場所を知っています。しかし……」言葉を濁らす。「また、あそこに行くのは嫌ですねぇ……」




