Ⅰ
「――雨が降ると、翔を思い出しますね」
古びた雨戸をしとどに叩く雨滴に、世捨て人の主はじっと耳を澄ましていた。昼間だというのに、陽光の恩恵のない居間は暗い。無言のまま、包帯の巻かれた手を火鉢に翳す。白狐さんは長椅子で紫煙をゆくらせていた。
彼が呼んだ火消しの慈雨は、七日間に渡って長遐の山岳を濡らした。重たく腕を広げる雨雲が太陽を遮る。どこまでも続く、鼠色の淀んだ曇天。まるで僕たちの心模様のようですね、と白狐さんは陳腐なことを言った。
翔はいない。あの日からずっと、消息は途絶えたまま。悪足掻きと知りつつ家の周囲を探しては見たが、手掛かりになるものもなかった。当然だ。人の足では到底追いつけない転移の術で攫われたのである。空間ごと歪められてしまっては、追跡することは不可能だ。
駄目もとで、世捨て人の主に同じ転移を使えないか訊ねてみた。彼がニィという霊の力を宿しているという確信的な証拠はなかったし、明言された訳でもなかったが、俺は既に彼がネクロ・エグロではないことに薄々勘付いていた。いなくなった翔がそうであったように。
白狐さんは質問に驚いた様子もなく「無理です」と短く応える。「ニィは僕に扱いきれない」
「難しいものなんですか」
「残念ながら、僕には合わないようです」
ニィによる転移は、強力な磁場を発生させ、空間を歪ませることで長距離移動を可能にする。しかし、当然リスクもある。
強すぎる磁場は脳の神経細胞の信号を乱すため、使用者は一時的な言語障害や幻覚を体験するという。繰り返してこの術を乱用すれば、脳の中枢は取り返しのつかない損傷を負うことになる。
宿主との相性、更に使用の対価があるという点では、ニィとスコノスは類似しているようだ。両者にどんな違いがあるのか、問いを重ねようとした俺は、白狐さんの横顔を見て口を閉ざす。血の気のない無表情の陰に拒絶が見えた。
ただ俺は息を殺すよう、ニィという未知の霊に思いを巡らすしか出来ない。ぴちゃぴちゃという雨音が、場違いなほど穏やかに沈黙を掻き消した。
「これからどうしましょう」
「どうしましょうね」
素っ気ない返事に眉を顰める。世捨て人の主は、ここ数日どこか投げ遣りだった。らしくない。彼にとって翔は大切な息子のはずだ。血の繋がりはなくとも、それ以上に固く結ばれた親子の絆がある。
何故、大人しく山に籠っていられるのだろう。彼らの仲を知る俺の目には、その態度は冷徹で不自然に映った。
翔が姿を消して以来、白狐さんは上の空。心ここにあらずといった様子で、朝から晩まで思考に耽ってばかり。料理も洗濯も手がつかない有様で、最近は鶏の世話から家事までそのほとんどが俺に任せられている。食事を作ったところで世捨て人の主の細い喉にはほとんど通らないのだが――。
病み上がりなのだから食生活だけでもしっかりして欲しい。なんて説得してみたところで何かが期待できる訳でもない。華奢な容貌に反して、彼は頑固な男だった。話しかければ僅かに微笑むものの、その瞳の奥には放って置いて欲しいという拒絶が見え隠れする。この無力な俺に何が出来ようか。
白狐さんは何か知っている。それだけは確かだ。四六時中解けない眉間の皺がその証拠である。頑なに沈黙を貫くその態度は、お前に話したところで力になれないと暗に言われているようで気分が悪かった。そしてそれ以上に、不安だった。
***
その晩、俺は夢を見た。
実を言えば、花神に隠されて以来毎晩のように悪夢にうなされるようになっていたので、その類かと思えば何やら様子が違う。夢にしては妙に記憶に残り、不思議な後味のある映像だった。
潮の香りがする。波音が聞こえる。突風は肌を刺すように冷たく吹き荒び、塩辛く頬を弄った。海だ、と考えずとも分かった。
切り立った海辺の断崖の先に巨岩が見える。いや、よく見ればそれは自然がつくったものではない。凸凹とした輪郭は、その大半が崩落しながらも時折人工性があった。窓か入り口か、アーチ状にくり抜かれた穴が幾つもある。横縞模様の黒岩はよく見れば幅の広い階段らしい。崩れた天井から、深緑の藻が垂れている。
徐々に拡大されるそれは、長い年月をかけて潮風に侵食された廃墟である。灰色の石造りで、海に向かって突き出し、その存在そのものが亡霊であるかのように不気味な佇まいだ。重厚感のあるよく出来た映画のセットのようにも見えた。
途方もなく巨大だ。砦の廃墟だろうか。城郭というよりも海からの外敵を迎え撃つ要塞に近い風貌である。荒れた波音が崖を打つ。黒い雨が降っていた。
ここはどこだろう、と朧げに思う。空想の景色かもしれないが、何故だか俺はこの海岸の廃墟が現実の風景と信じて疑わなかった。初めて見るのに、どこか懐かしい。夢というのは不思議なものだ。
俺の視点は宙を漂い、空から砦を見下ろしている。要塞の四隅に三つの大きな尖塔がそびえていた。元は四つあったのが、一つが折れて崩れている。
突然、目の前がぐにゃりと歪んだ。海が遠ざかり、重力に引っ張られて落下する。暗い。何も見えない。先程とは打って変わって、潮の匂いが籠って淀んでいた。廃墟の地下である。
石造りの床は血と泥で湿っていた。埃と塵が舞い散る薄闇を、唸り声がびりびり引き裂く。総毛立つような猛獣の咆哮が。
憎々しげな息遣いは徐々に人の言葉に近くなる。低いが、女の悪態のようにも聞こえた。酷く痛めつけられ、それでも尚誰かを罵倒している。殺す、と殺意に塗れた声は、どこかで聞いたような――。
「文字を読め!」不意に後頭部をがつんと殴られた衝撃。彼女の声は耳元から聞こえた。「もう間に合わないぞ」
はっと逃げるように瞼を押し上げる。息が切れ、指先が冷えて強張っていた。混乱した頭は、己が自室の布団で寝ていることに気付いて安堵する。夢か。静かな霧雨の滴りが、壁越しですすり泣いていた。
時刻はまだ深夜だろう。室内とはいえ夜気は冷たい。寝返りを打ち、頬を枕に擦り付ける。温かな吐息が布地に染み込んだ。
耳を澄ませばあの波音が響くのではないか、潮風が吹くのではないか。本気でそう錯覚するほど生々しい夢だった。文字を読め、という女の悲鳴じみた叫びが、耳穴の奥に残っている。
「文字を読め」俺は声に出して繰り返してみる。ぴたりと視界を閉じ込めた瞼は、すぐ開いた。
眠気が冴えてしまったらしい。どうにも落ち着かない。しばらくもぞもぞと芋虫の動きをやった後、ようやく俺は掛布団を肩に被って起き上がった。文字、という言葉に思い当たる節が全くない訳ではなかった。
ぬくもりの残る掛布団を肩に、俺はそのまま隅の書案に向かう。あれやこれやの書物や紙類がごちゃごちゃひしめく机上。いい加減整理しよう、と思ったのは確かひと月前だったか。
暗くて文字も読めず、一度居間まで火を取りに向かった。裸足で寒々しい廊下を往復するのも、いい目覚ましである。
蝋燭に灯した明かりで改めて書案を照らせば、目当ての紙切れは存外すぐに見つかる。汚い殴り書きは「ミミズが腸捻転でのたうち回っているよう」という詩的な評価を翔から賜った。清書しなければと思っていたのをすっかり忘れていたのは、この紙切れにそれほど由々しき意味を見出せなかったからである。
漢字が並ぶ。「朝」「未」「来」……全部で七字。あの胡散臭い女占術師の文字占いだ。「文字を読め」と叱咤されて真っ先に思いついたのがこれだった。
まさか夢如きを本気にするのかと耳元で嘲る誰かがいる。例えばフロイトの精神分析理論だとか、ホブソンとマッカレーの活性化―統合理論だとか、かつて人間界で学んだ心理学研究の数々が脳裏を過った。 たかが生理現象に予言じみた意味を見出すなど馬鹿げている、というのは理性の弁で、そのお高く留まった知識の積み木がこの半年でことごとくぶっ壊されたのもまた事実だ。
俺はそろそろ諦めていた。夜に見る夢に霊的な意味があったとしても、何ら不思議でない――この異界では。そういうことにしておこう。考えた方が負けである。
「文字……」
俺は蝋燭の灯りで筆字をなぞる。何度読んでも、ただの無作為な漢字の羅列にしか思えない。
光もおらず、翔もおらず、道標となってくれた三光鳥もめっきり姿を現さなくなった今、縋れるものなら藁でも何でも良い。このまま打つ手なしに白狐さんのように無気力に陥るより、その方が余程有意義だ。そんな思いに突き動かされ、俺は筆を取った。
真新しい紙を書案に広げ、今一度扶鸞が下した七字を清書する。丁寧に書こうと心掛けたところで、未だ慣れない柔らかな筆先に戸惑い、線が乱れてしまう。文字、文字、と譫言のように舌で転がし、あの夢の光景を考えた。
あれは一体どこだったのだろう。雨が降っていたということは、ここから遠くないのかもしれない。無論、現実の風景かどうかも疑わしいが……。
海に向かって切り立った断崖。どっしり建てられた要塞砦。そんな場所が東大陸のどこかにないか、朝になったら白狐さんに訊ねてみよう。
さて、改めて書き直した七つの漢字を前に、俺は腕組みした。“朝、未だ来ず。死んだ子の口也”……無理に繋げればそんな詩句にならないこともない。文字占いは日時と場所を表すんだよ、と裂けた口で笑ったあの若者を思い出す。
「日時と場所……」
当然すぐに目につくのは“朝、未だ来ず”の一文。朝が来ないというのはすなわち、夜明け前を指すのだろうか。いやしかし、朝はもちろん夜も毎日欠かさず訪れるものだ。日時を示す文句にしてはあまりに漠然としすぎてはいないか。
後半の文に視線を向ける。場所、それから何が起こるのか。“死んだ子の口也”というどことなく縁起の悪い文に、そんな複雑な意味が込められているとは思えない。そんな先入観は捨てなければ。
出来る限り真面目に取り組む。頬杖を付き、書案の前に座りこんで、蝋燭の炎を揺らす。小雨の音が思考をより集中させた。
死んだ子、とは何か。死は既にこの世にいないこと、子は幼子を表すとは、少々安直だろうか。まさか光のことではないだろうなと心臓が早鐘を打つ。
まるで連想ゲームだ。死から連想されるもの何だろう。冷たい、虚無、暗い、夜……惜しい、何か浮かびそうだ。
あと一歩、不意にぽんと音を立てて閃いたのは"月"という単語である。孑宸皇国で、月は死の象徴。それは死んだ魂が天に還りゆくための門で、月の満ち欠けは門の扉の開閉だという。そんな話をずっと前に翔から聞いた。だから門の閉まる月蝕の日は、縁起がいい。
……それが一体これとどう関係があるのか。自分の突飛な推理に呆れる。もし文字占いの示す場所とやらが天体の月ならばお手上げだ。どうやって宇宙まで行けというのか。まだ考える余地がありそうである。
「子」「口」「也」と残りの漢字から思いつく全ての連想や言葉を、俺はびっしり手元の紙に書き記した。関係ありそうなものも、なさそうなものも、全て。こうなれば虱潰しだ、などと意気込んでいられたのも初めだけで、徐々に書く余白がなくなっていくにつれて弱音と苛立ちが滲みだす。
本当にこんな解き方でいいのだろうか。いや、そもそもこの文字占いや夢そのものの信憑性は如何に。もしかして全てが俺の勘違いなのでは……そんな空虚な可能性を前に心が挫けそうになる。
しかし、やっていられるかと筆を投げ出すのもまずい。生憎、今はこれ以外に縋る道がないのだ。もう間に合わないぞ、と夢で聞いた声に急かされる。
文字を読め。今一度。
隙間風にぶるりと震え上がった。夏物の掛布団を肩まで引き上げ、肌寒さを凌ぐ。暗闇に包まれた自室の隅に、ぽっと灯る暖かな蝋燭の火。何だかそれが唯一の希望のように思えてならず、俺は目の前の紙に大きく書いた字を指で撫でた。
人差し指の腹に、乾燥した墨のざらついた感触が滑る。「朝」の字をなぞった。存外画数が多い。どうでもいいことを考える。最後の横線をぴしりと引いたとき、ふと気づく。朝という字にも、「月」がある。
文字を、読む。俺は口の中で何度も繰り返した。穴が空くほど筆跡を凝視しては、新たな紙を戸棚から引っ張り出す。閃きが消えてしまわない内に、早く。
筆を取る。大きく深呼吸して、俺は墨を染み込ませた筆先を紙に置いた。横、縦、縦、とゆっくり書き順に沿って動かす。朝というたった一文字を書くのに、これほど時間をかけたのは初めてだった。そしてようやく、今まで見えなかったものが鮮明に浮かび上がった。
――十月十日。
ああ。感極まったような、気の抜けたような吐息が漏れる。目の前にあるのは「朝」という漢字ではない。そのまま「あさ」と読んではいけない。これは――漢字をばらばらに分解するのである。そうすれば、「十」「日」「十」「月」、入れ替えて「十月十日」となる訳だ。
まるで子どもの言葉遊びだ。俺は頭を抱える。こんなの分かる訳ないだろうと毒づくとともに、立ちはだかっていた難問がいとも容易く氷解したことに快感すら覚える。
これが文字占いの下す「日時」だ。こんなにはっきり示しているのだから間違いあるまい。
では、この日のどこで何が起こるのか? 先を解き進めなければ。十月十日までの日数を逆算し、残された時間の少なさに焦りを覚えながらも、一文字目を解読できた喜びは大きい。
法則さえ分かってしまえばこっちのもの、と息巻いた俺はもう寒さも忘れ、意気揚々と筆を握り直した。




