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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十六話 花神
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 世捨て人の家の庭に着いた頃には、雨は随分小降りになっていた。月のない、陰鬱な山の夜だった。



「これは……」白狐さんの松明が赤々と照らした先に、俺は目を見張る。神秘で奇妙な光景がそこに広がっていた。「まるでミステリーサークルのようですね」



 鶏舎の屋根が雨粒を受けててらてらと光沢を帯びている。その金網の戸がひどく歪み、潰れているのが気になった。しかし最も注目すべきは、その足元、芝生に刻まれた不思議な跡である。

 まず中央に人が入れそうな楕円があった。そこから放射線状に幾つかの線が伸び、目玉のような不気味な紋を地面に描いている。

 更によく目を凝らしてみた。その跡がつけられた場所に生えていたはずの行儀芝は、綺麗に焼け焦げている。焦げ茶の湿った土が覗き、それが紋をはっきり浮かび上がらせていた。ミステリーサークルほどの芸術性はないが、自然に出来たものとも思えなかった。


「どこかで見た形だ」知らずの内に、俺はそんな声を出している。首の角度を変え、周囲を歩いてみた。端から端まで三メートルほど。鶏舎の小屋の目の前から山査子(さんざし)の灌木まで規則的に芝が焼けている。

 さらさら、雨粒が髪から滴った。しばらくその不可解な跡を観察していた俺は、しゃがんだまま顔を上げる。「これが、翔の手掛かりなんですか?」


「はい……」


 気まずそうな答えが返ってくる。白狐さんはこの呪紋について言及することを酷く躊躇っているようだった。手元に目を落とし、俺は指で曲線をなぞってみる。


「恐らく……翔はすぐここまで来ていたのだと思います。そこの山査子の藪に、着物の切れ端が引っ掛かっていました」


 懐から取り出された青い着物の端切れは、確かに翔が今日着ていたものと一致した。きっと釣り針を探すため、庭から裏口へ向かったのだろう。

 俺の視線は、赤色の実をつけた低い灌木へ注いだ。そこから鶏舎の方、地面に付けられた楕円図形の中心へ。……ここで一体何があった?


「白狐さん、このミステリーサークルに見覚えは?」


「……」


 口をへの字に結んだ白狐さんは再び沈黙してしまう。問い質す気力も尽きた俺は、ただ上の空で既視感に浸った。

 やはりこの紋の形状は見たことがある。どこだったか、と眉を顰め、それが科学教材のどこかのページであったことを思い出した。磁界、である。棒磁石なんかを中央に置いた楕円の図解。あれによく似ている……。



「足跡が、そこに」



 言われて初めて、俺はミステリーサークルの内側にあるそれに気が付く。二種類の足跡だ。

 簡素な履物を愛用する翔のものは掠れているが、もう一つの方は足の大きさが分かる程くっきりしていた。土踏まずの部分はほとんど跡がなく、代わりに踵にあたる半円の跡は濃い。大きさからして男のものだろう。


「変ですね。この足跡、ここから動いていない」


 松明を貸して貰い、俺は探偵のように靴跡を辿った。じっと目を凝らせば、山査子の茂みから鶏小屋まで続く飛び飛びの翔の足跡が追える。その走っている姿すら目に浮かぶようだ。しかし、謎の足跡の方は鶏舎の入り口の地面に幾つか不自然に残っているのみ。まるで、突然ふっとそこに現れたかのように……。

 白狐さんは、足先でミステリーサークルの線を突いていた。いや、蹴っているように見えた。


「この呪紋は、出入り口なのです」


「出入り口?」


「はい」ようやく動きを止めた彼は、端正な顔を真っ直ぐこちらに向ける。「既に使用済みのようですが」


 視線をミステリーサークルに戻した。既に効力のなくなったそれは、最早ただの目玉に似た痕跡に過ぎない。

 俺は考える。謎の足跡が、この紋の内側にしかないこと。翔の足跡が紋の内側で途絶えていること。何が起こったのか空想を巡らすのは容易かった。しかし、事実として飲み込むにはいささか抵抗がある。現実でそんなことがあって堪るか、と懐疑主義者はまだ懲りない。


「この呪紋は……中に入った人を、どこか別の場所へとワープさせるんですかね」

 

 俺は苦いものを食べたように「ワープ」と口にする。この表現の使い方が正しいのかまるで自信がなかった。荒唐無稽なサイエンス・フィクションに毒された頭では、それはひどく安っぽく羞恥的な響きに思えた。

 世捨て人の主は無言で肯定を示す。彼が「ワープ」という単語をどう理解したのか分からないが、このミステリーサークルは物体を転送する出入り口ということで間違いないらしい。

 俺はまだ信じられない。本当にそんなことが可能なのか? 今いる場所から別の地点へ“瞬間移動”するなど、物臭な者なら一度は夢見る魔法の力である。



「この転移の術が使えるのは、ニィという力を持った者だけです」



 子供じみた空想は、あっさりと打ち破られた。ニィ、と。俺は耳慣れない単語を舌で舐める。まるでにやけた笑いのような発音になったが、にやけている場合ではない。


「それは何なんですか?」口元を隠して問いを重ねた。「スコノスとは違う力なんですか?」



「はい、その通りです。ニィを使う術者は……ネクロ・エグロではない」



 いつも穏やかな白狐さんのものとは思えぬ、苦々しい潰れた声。ネクロ・エグロでないなら何なのか。その声音に怯んだ俺は訊くことが出来ない。黙ったこちらに構わず、彼は続ける。


「ニィで空間を転移するには、幾つかの条件があります」教師のように人差し指を立て、ゆっくり周囲を歩き回った。「まず第一に、術者がいること。第二に、目的地に同じ力を持った術者がもう一人いること」


「目的地に?」


「はい。点と点を結ぶように……ニィとニィで空間を繋げるのです。転移を成立させるのには、少なくとも二人、更に支点となるもう一人を合わせ、三人のニィの術者が必要になります」


 そう言った白狐さんは、棒切れを使い、地面に三角形を描いた。その三つの角をそれぞれ支点、力点、作用点と呼んだ彼は、力点から作用点まで繋がる直線を強調する。

「これを出発点から目的地までの道のりだと思ってください」さながら数学の教師のようだった。「それぞれの角にニィの術者がいなければ転移は成立しません」


 ははあ、と俺は出し抜けに変な声を漏らしかけた。漠然とした理解の上に憶測を乗せる。白狐さんがその、“目的地”に必要な術者だったのではなかろうか?

 彼がニィという霊を持っている証拠もなく疲労ゆえの論拠なき当てずっぽうだったが、何故だかそれはパズルのピースを当てはめたようしっくりくる解釈に思えた。ニィという耳慣れぬ音が、この世捨て人の主が纏う不可解なそれによく似合っていたからかもしれない。彼がネクロ・エグロであることに懐疑を滲ませた翔のことが、頭にあったのかもしれない。


 銀髪の間から覗く美しい顔は、不機嫌を押し殺している。感情の変動が掴み難い彼にしては珍しい。相当面白くない話題なのだろう。もし白狐さんがニィの力を持っているなら、彼は意図せず転移の“目的地”となり、誘拐犯を手助けしてしまったことになる。


「気絶などしている場合ではありませんでした。……いえ、ニィを使われたからこそあの様だったのですが」


 ぼそぼそ。ほとんど独り言に近い白狐さんの呟きは、俺の憶測を確信へ傾けさせた。家に向かって踵を返す世捨て人の主を横目で窺い、さりげなく訊ねてみる。


「転移という術は、それなりに負荷のかかるものなんですか?」


「はい。言ってしまえば空間を歪め、人口の霊場をつくり出すようなものです。自然界の掟を力で捻じ曲げた荒業ですよ。使用者にも、周囲の人にも悪影響を及ぼします」


 なるほど、と俺は少しばかり安堵を覚える。あまりに利便性が高いと、物理的法則を歪めていることへのリスクを期待してしまうのだ。どうやらニィというのは磁場を発生させる力らしく、脳の神経細胞を激しく侵すらしい。

 何故そんな荒業を使ってまでここへ……。玄関で水滴を飛ばして靴を脱ぎ、俺は呟いた。「翔は……攫われたんでしょうか」


 でしょうね、と白狐さんは手拭いを渡してくれる。彼の美髪もぐしゃぐしゃだ。


「物取りの盗人がこんな術を使うとは思えません」


「……初めから翔は狙われていたのか」偶然通りかかったところを襲われたのか。殺すのが目的なら、庭に死体が転がっていてもおかしくない。わざわざ拉致したという点に引っ掛かりを覚える。


「まさか奴隷商人……」


「翔が、下っ端の奴隷狩りごときにやられるとは思えません」


「ですよね……」


 白狐さんの発言が、親の欲目だけでないことは俺がよく知っている。そもそも賢い人攫いならばこの家にだけは近付くまい。

 難解な点はもう一つ。翔は弓矢を持っていた。怪しい者がいれば迷わず射当てることが出来ただろう。何故、それをしなかったのだろう。何故――あんなに危険な距離まで近づいたのか。


 疑問がぐるぐる渦巻く。翔は、どこへ行ってしまったのだろう。







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