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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十六話 花神
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「焼かれたくなくば、失せろ」



 白熱する炎を振り翳し、妖女を牽制する。

 偶然とはいえ、花神に対する攻撃として最も有効な手段だったに違いない。植物が最も恐れるべきは火である。


 対峙する花の女神は俺の狼藉に怒り狂っているようだった。美しかった顔に最早その面影はなく、憎々しげに目元を歪ませ、顎から頬にかけて細い枝のようなものが伸びている。肌蹴た錦の着物からは、枯れ木に似た皺だらけの皮膚が覗いた。

 艶やかさばかりでなく、怒りを買えば恐ろしい。花神の本質をようやく身を持って知った俺である。


 花神がその体躯からは想像も出来ない俊敏さで襲い掛かってきた。自然霊を傷つけるのは本意ではない。しかし、花神が本気で殺しにかかってくるなら、俺もそれ相応の態度で臨むまで。むざむざ殺されるつもりは毛頭なかった。

 剣のように片手で構えた松明を振り上げる。

 毎日の翔との鍛錬が実ったか。初めの一撃は実に上手く弾いた。確かな手応えに唇を結ぶ。そのまま追撃しなかったのは油断というよりも、人の姿をしたものを松明の火で殴打することにまだ躊躇いがあったからだ。


 炸裂する爪。防ごうと横向きにした松明が力づくでもぎ取られ、視界が反転する。気付けば仰向けになっていた俺の腹に花神が馬乗りになっていた。抵抗する間もなく樹の幹に似た両手が重なり、俺の首をきつく、きつく握り締める。

 こんな怪力どこから生まれるのか。振りほどけない。彼女の怒りは本気だった。呼吸を止められた苦しみと激痛で、脳が爆発しそうになる。頭をねじ切られる恐怖。目を剥いた俺は、必死で脚を蹴り上げ、妖女を振り落とそうともがいた。


 息が苦しい。酸素が足りない。掠れた叫びが奇妙な音となり、口から唾液が飛んだ。もう何も考えられず、死に物狂いで暴れた末に、左手の先に堅いものにぶつかる。投げ落とされた松明だ。

 掴み、女の胸に白い火炎を押し当てる。強く。


 じゅっと焦げる匂い。耳を劈く凄まじい悲鳴。僅かに絞首の力が緩む。俺は両手で握った松明にありったけの力を押し込めた。このまま串刺しにすることもやぶさかではなかった。

 美しい紅の衿元が燃え上がる。恐怖で暴れる花神に顔面を殴られ、樹の爪で引っ掻かれた。

 手加減など出来る状況ではない。火だけで足りぬなら、このまま貫いてやるまで。


 握りしめる松明の柄に、ずぶり、と熱く溶ける何かの手応えが伝わる。



 (イカ)()、と俺は絶叫した。



 声はない。締め上げられた喉元は、空気の出入りを完全に遮断されていた。ただ音のない酸欠の世界で、俺は真っ直ぐ花神を射抜く。熱い。両手からじわりと白く溶けるようだった。

 奥底から湧き上がるスコノスの猛り察したか、花神の昆虫に似た瞳がはっと見開かれる。

 次の瞬間、閃光弾の爆発の如く一帯が白い雷光に染め上がった。何も見えない。視覚が潰れる。

 俺は渾身の力を込めて花神の胸に松明を突き立てた。目の前が白く燃え上がり、それが暴れる気配がある。相手もまた死に物狂いの抵抗だ。花神が身を捩る。こちらの首を絞める手が緩んだ。俺は必死に這うように立ち上がり、転ぶ。


 真っ二つに天が裂けた。かと思えば、硝子窓が砕けたときに似た衝撃。ばりばりと大地を揺らす破壊音。疾駆する雷鳴の咆哮だ──。

 後方で白い落雷の直撃を受けた花神は世にも悍ましい悲鳴を残し、あえなく空中で霧散する。

 助けを求めていたのか、はたまた道連れにしようとしていたのか。もがいて宙を掻いた六本の指の残像が、瞼の裏に焼き付いたのを最後に、俺の意識は遠のいた。


 ──気絶したのはほんの数秒だっただろう。長いようで短い、ほんの一瞬の出来事だ。


 首絞めから解放された咳き込みと痛みに、俺はのたうち回る。げほげほと激しく咽れば、涎と鼻水に混じって酸味を帯びたものが吐き出された。

 嘔吐する。喉が爛れ、心臓が破裂するような激痛に呻いた。末梢神経から燃え尽きていくようだ。どうやら感電したらしい。

 しかし暴れる内に、少しずつ熱が蒸発していく。皮膚が体温を失っていく。どこか心地良い、昂ぶったスコノスの白熱が冷めていく感触だった。

 寒い。あまりの水の冷たさに半身の神経が麻痺していた。ようやく違和感を覚える。水?



 はっと気づくと、俺は土砂降りの雨の中、渓流の浅瀬の半ばに倒れていた。



 夢でも見ていたのだろうか──。辺りは夜闇に包まれ、止めどなく降り注ぐ水滴が蛇行する河の水面を騒がしくしている。

 耳を打つ雨音は忙しない。俺はふと、昔母さんと行ったオーケストラの演奏会を思い出した。ふわりと消えた最後の音色に、拍手喝采。夢の余韻を打ち消すような、そんな音。

 しかしここは、煌びやかで満席の音楽ホールなどではない。川の中だ。


「良かった……帰って来ましたね」


 見知った声が降ってくる。浅瀬に身を預けたまま顔を上げれば、絹糸のような髪をずぶ濡れにさせた世捨て人の主が、松明片手に足首を水に浸していた。びゃっこさん、と呟いた己の声は弱々しい。

 あの青い山道は跡形もなく消え去っていた。代わりにあったのは、見覚えのある渓流の雨に濡れた景色。まさしく俺が数時間かけて目指していた目的地である。

 あの花神を打ち破ったことで、霊場から現実へ戻ってきたのか──。


 俺はくしゃみをする。痛む身体は芯まで冷えていた。川の中で雷を呼んだので、感電したのだろう。えらく消耗した様子の白狐さんが、俺を助け起こしてくれる。


「ご無事で何よりです。しかし、火事場の馬鹿力が、火事を起こしちゃ駄目ですよ」


「火事……って……何の、はなしですか」


 たどたどしく問い掛ければ彼は無言で俺の背後を指さす。つられて首を回した途端、焦げた異臭が鼻についた。暗いが、煙らしきものが雨の矢に掻き消されているのも見える。まるで鎮火したばかりの火事場のように。


 欅林が燃えたらしい。


 呆然とした。白狐さんが優しく手を差し伸べてくれる。ようやく河から引き揚げられた俺は、凍える寒さに歯を鳴らした。


「今、花神がいましたね」そう呟く世捨て人の主は落ち着いている。松明の火影に照らされ、少し憔悴しているように思えた。


「追い払うのは結構ですが、樹ごと燃やしてはいけません。山火事になってしまいます」


 そのまま白狐さんに連れられ、川幅の狭い場所を選び、火が消えたばかりの欅林に踏み込む。ぱきりと小枝が折れた。――この付近に霊場との境目があったのだろうか。落ち着きなく火事跡を見回す。

 降雨に紛れても尚、焼けた気配は生々しい。ぶすぶすと嫌な音を立てて昇る煙。独特の焦げ臭さ。立派な欅林は半分ほど延焼し、燃えてしまったようだ。平静を装った俺の声は浮く。


「雨が、火を消したんですね」


「雨の神を呼んだのですよ……僕だけの力ではどうにもならなかったので」


 闇に塗り込められた夜空を見上げ、白狐さんは額に手を翳した。そして、出火した場所を松明で指し示す。ここが火元です、とまるで無感情な観光ガイドだ。

 はっと息を飲む。腰丈ほどの灌木――だったもの――が、照らされた。落雷の直撃を受けたそれは既に真っ黒に煤け、燃え殻と化している。小さな葉列が辛うじて先端に残っていた。



「山吹の花神だったのか……」



 春に咲く黄金の花を思い、俺は頭を垂れる。小さいからよく燃えたに違いない。首を絞められ、殴られた感触は鮮明に残っているが、それでも後悔は湧いた。


「死んで……しまったでしょうか」


「さあ、どうでしょう。焼かれたくらいで神は死にはしませんよ」安心させようとしているのか、白狐さんは軽く肩を竦める。


「……すごい、生命力ですね」


「植物というのは強いのです。そして花神は恐ろしい。……いえ、それよりも」


 付いて来て下さい。少し、見て欲しいものが。そんな風に俯く彼の目元は陰鬱で、そこから嫌な予感を嗅ぎ取るのも容易だった。

 怪我の治療をする必要もある。手も、足も、身体中が雷撃で焼けて痛む。立つこともままならない俺は、白狐さんに支えてもらい、世捨て人の家へと下山することにした。




「――皓輝くんが家を飛び出してしまった後、僕も結局心配で追ったのですが」肩を貸してくれる彼は、道中これまでの経緯を話す。「何故か釣り場に行っても誰の姿も見えなくて」



 恐らくその頃の俺は花神の霊場に引き摺り込まれていたはずだ。あの果てしなく青い山道は、時の流れすら狂う。現在時刻が一致しない。ぱらぱらと耳元を濡らす雨滴に、白狐さんの声が溶けていく。


「おかしいと思ってずっと周辺を探して、突然対岸から火の手が上がったから驚きましたよ。白い炎で、厳つ霊の気配を感じたのでもしかしてと思ったら、やはり皓輝くんのスコノスだったのですね……」


 機転を利かせた白狐さんはすぐに雨師(ウシ)を呼んだと言う。雨師とは雨天の神、雲を操る老人である。そんな格の高い神霊を即座に呼ぶのは並大抵のことではないはずだ。そうしてようやく山火事を防いだとき、渓流の半ばで放心している俺を見つけた、と。



「花に神隠しされていたなんて……道理で見つからない訳です」どこか感心した風に頷く。「あちら側で花神を打ち倒した後に霊場が消えたということは、きっと皓輝くんは初めから彼女に狙われていたのでしょうね」


「狙われていた……」



 俺は身震いする。誑かされたことよりも、うそつき、と罵られたあの寒気が鮮明に蘇る。嘘などついた覚えはなかった。聞き間違えかもしれない。怒れる花の女神を前に、あと一歩間違えたらどうなっていたことか。考えるだけでも恐ろしい。

「誑かされなくて良かったですね」なんて俺の経緯を聞いた白狐さんに励まされても、先程の燃え尽きた山吹を見た今となっては結果オーライなど言う気にはなれなかった。

 どこか意気消沈してしまった俺は、話題を変える意図もなく、はたと足を止める。



「……あ、豻の短角刀……」


「どうしました?」


「いえ……抄扇で買った短角刀を、霊域に落としてきてしまって」



 頭を掻く俺に、世捨て人の主は少し考え、自身の懐に手を入れる。「これのことですか?」


 まさに、その手の中には黒光りする豻の短角刀がある。抜き身のまま雨滴に濡れる刃を見て、「一体どうして」と困惑する俺に「川底に落ちていましたよ」と白狐さんはこともなげに言い放った。


「鞘を失くしてしまったようですね。でも、お守りでしょう。肌身離さず身に帯びていなくちゃ駄目ですよ」


 足元に気を使いながら歩く白狐さんは、ちらりと目元を緩めて俺に手渡す。俺は首を捻った。


「お守り……」


「豻の角は陰です。陽の気を鎮めてくれます」当然のことを話すよう、彼は歩きながら人差し指をぴんと上向ける。陽の気がすなわち俺のスコノスを指しているのだとすぐ分かった。

 じゃり、としばらく泥道を踏む音だけが続いた。身体は冷え、肌をなぞる雨の感覚などとうになかった。



「……やはりあなたは、スコノスの呼び方を一から覚えるべきですよ。それが嫌なら、その角を手放さないでください。こう、度々暴走されちゃ敵いませんので……」



 説教にも似た彼の言葉を甘んじる。はい、と素直に応えると俺の肩の後ろにあった彼の手に撫でられた。

 改めて俯いて考える。この短刀に俺のスコノスを鎮める効果があったなんて知りませんでした。正直に打ち明ければ、白狐さんは面食らったようだった。


「知らないまま買ったんですか?」


「翔がやたらと勧めてくるから……」


 翔はきっと“お守り”の意味を分かった上で買わせたのだろう。今更気付いた。

 獣性の暴走に関しては人一倍敏感であるはずの翔。「それがお前の身を守ってくれる」というあのときの言葉は、外界の悪霊などでなく、俺自身の内に潜むスコノスのことを想定していたに違いない。


 思い返してみれば花神と対峙した際、この豻の短角刀が手から離れた瞬間から俺はスコノスを使えるようになったのではないか。

 効果は確かだ。大切にしなければ、と。ようやく手に馴染んだ柄を今一度握る。幾度目か知れないスコノスの暴発に後悔を重ねながら。



「そうだ、翔は……」



 一縷の望みをかけた問いは、最後まで続かない。白狐さんの沈鬱な面持ちに、奴の行方を案じる気持ちも虚しくなる。死体が見つかった、などと告げられるよりはましなのかもしれない。




「見て欲しいものというのは、翔を探すための手掛かりです。……いえ、正確には手掛かりが途絶えた跡のようなものなのですが……」




 急ぎましょう、この雨で消えてしまうかも。世捨て人の主は、煙雨に顔を濡らしている。




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