Ⅳ
虫の羽音もなければ、星明りもない。ただ夜霧が青い空気を漂い、暗い空も、道の先も覆い隠していた。
歩き始めてどのくらい経ったのだろう。怪我をした足首が痛む。疲弊して走ることも出来ず、俺はもう何時間も青い森のトンネルにいた。永遠に彷徨い歩く亡霊になった気分だった。
人為的な道ならばどこかに辿り着くのでは、という期待はとうの昔に破れていた。地面に刻まれた道の跡は果てしなく、終わりがない。絶望的なまでに。
それどころか、己がずっと同じ場所をぐるぐると廻っているように錯覚する。歩けど歩けど、まるで前に進んでいる気がしない。どこを見ても鏡のように全く同じ景色が映る。
変だ。俺は血の気の引いた唇を結ぶ。恐ろしいほどに平坦な山道は、歪みもせずひたすら直線に伸びていた。明らかに不自然である。
ちらり肩越しに振り返れば、幽霊でも佇んでいるのではないか。そんな不気味な妄想すら過る。胸に亀裂が入り、恐怖でひび割れていくようだった。
永劫に続く道を一人で歩き続ける。そんな刑罰を受けているのかもしれない。
もたついていたのだろう。出し抜けに竦んだ脚が、何か堅いものに絡みついた。あわや転倒しかけるも今度ばかりはバランスを取る。捻った足首に骨が外れるような痛みが走った。
低く呻く。些細なことで容易く心が折れそうだ。
「……は」掠れた息。足元に落ちていた堅い棒を拾い上げた俺は、驚愕のあまりそれを理解するのに数秒要した。
湿り気を帯びた棒の表面は小刀で削ったような跡が見られ、先端には黒焦げになった布が巻いてある。その形にははっきりと見覚えがあった。
それは、数刻前自分が投げ捨てたはずの松明の残骸だった。
何故ここに、と戦慄する俺は、答えを知っている。実を言えばそんな嫌な疑念がずっと頭の片隅に燻っていた。ただ、それが真実であると認めるのが恐ろしかっただけで。
延々と前に歩き続けたはずの俺は、現実ではずっと同じ場所にいたのである。
つまりどういうことか。俺はようやくこの変化のない、奇妙な空間の意味を考える。
――この山道は果てしなく直線に続いているように見えるが、実はどこかで始終が繋がり、同じ空間が連続しているらしい。まっすぐ進み続けた俺がいつまで経っても抜け出せないのは至極当然。とんでもない徒労である。
もしや俺は、自然界にある小さな霊場に踏み込んでしまったのかもしれない。顕界でもなければ幽界でもない。霊が集うことで一定のエネルギーが生まれ、それがずれた空間や怪奇現象を生み出す。
以前迷い込んでしまった泰逢の神域のように、地図にない霊異の地だ。
己の説を証明するべく、俺は手にしていた松明の柄を肩の後ろまで引き、前方に向かって力一杯に投げた。くるくる回転したそれはすぐ霧中に溶けて消える。
俺の仮説が本当であれば、あの棒きれは今連続する空間を通って俺の後ろに落ちたはずだ。案の定それらしいぱきりという音が響き、確信の息を吐いた。
閉じ込められた。その事実が骨身に染みてくるにつれ、俺の頭は少しずつ恐怖心と気力を取り戻す。隅に浮かんだのは翔のことだった。もしかしてあいつも神隠しに遭ったのではなかろうか……。
立ち止まっているばかりでは埒が開かない。とりあえず背後に落ちているであろう松明を拾うため、身体の向きを変える。
後になってみれば、火の尽きた松明など拾って何になろう。先程聞こえた音が、誰かの足音だったといち早く気付くべきだった。
「っ……」
いきなり両脚の筋肉が弛緩し、立っていられなくなる。自分という中身がすとんと抜け落ちてしまったような、そんな虚脱感。腰が砕けたとでも言えばいいのか、とにかく俺はその場に崩れて動けなくなった。
力が、入らない。小刻みに震える腕を懸命に伸ばす。倒れてもまだ尚、俺は松明の残骸を拾おうとする。すぐそこにあるはずなのに見えない。何も見えない。堅いものが指先に触れた。これだ、と右手が掴む。
俺はぞくりとした。松明ではない。立っている。若い木の幹かと思ったが、随分と細い。
手を離して根元を探る。僅かに土で汚れ、堅く出っ張った部分に触れたとき、俺は変な悲鳴を出しかかった。
それは誰かの足首だったのである。
裸足だった。少女のように小さく、そして――俺はすぐそのおかしな骨格に気付く。指が多い。六本ある。霧に隠れているはずのものが、突如画像となって鮮明に浮かんだ。
絶叫しかけた口を慌てて塞ぐ。離れなくては。無様に這うも、脱力した四肢は骨も筋肉も溶け崩れ、まるで役に立たない。足首の主が迫りくる。嘲るように青い霧が震えた。
女だ。
姿は見えなかったが、その耽美で整った目鼻も、上品な立ち居振る舞いも、この手で触れたように分かった。相手の体温が俺の内部に流れ込んでくるような、奇妙な感覚。近い。熱と吐息が密着して、むず痒い……。
咄嗟に懐の短角刀を抜き払う。磨き抜かれた豻の角、魔除けの刃。力の限りに薙ぎ払えば、すぱりと青霧が裂ける。
手ごたえは一切なかったが、後退させるくらいは出来たらしい。震える青い帳。まるで窓硝子に息を吹きかけたよう、透けていたその姿がふわりと色づいた。
金粉が輝き、光の花弁が舞い遊ぶ。春風に散る桜の如く――。
それは、花神だった。
目を見張る。この世のものではない金糸を縫い込んだ花衣を引き摺り、雅な佇まいは貴族の姫君を思わせる。襟元の紅色が美しい。山吹の宝冠が薄光とともにさらさら涼しげに輝いた。柳眉は弧を描き、大きな瞳は昆虫のようだ。
そして、髪から覗く色白の肌。一度も陽の光を浴びたことがないような皮膚は透き、余りの白さに細い血管が頬に透けている。
「……」
俺の視線はそのまま、華奢な鎖骨の下をなぞった。帯が緩み、露わになった肌。優美な曲線を描く胸元と、柔らかな影を落とす下腹……。
恐怖も忘れて生唾を飲む。
こちらを誘うように伸ばされ、袖からぬるり覗く女の指は、六本ある。
さあ、と婀娜な妖女が花びらの唇を緩めた、ように見えた。
この異様な状況にも関わらず劣情が催されたのは、魔性ゆえか。まるで夜露を浴びた瑞々しい花。白い花弁がゆっくり隠し場所を開く。脳を満たす蜜の香り。脚の付け根に落ち着きのないものを感じた俺は、どうにか理性を絞って赤面を伏せた。
このまま見つめ合えば、間違いなく誑かされる。脳の警告が弱った蛍のように点滅した。
人に似るが、人にあらず。『天介地書』にそう記されるよう、花神は人に近い姿をした女の霊である。ただし指の数が人と違うらしい。男に恋をすると、本気の証に六本目の指を切るのだとか。これが慣用句にもなっている“花神の指切り”だ。
この艶やかな花霊は、昼間現れたものと同じ個体だろうか。大抵、彼女らは人の男に蕩けるほど官能な夢をもたらし、魂魄を食って己が糧とする。このまま溺れる訳にはいかない。
豻の短角刀を握り、きっと面を上げる。途端に頭がくらくらした。強い酒を呷ったときに似た酩酊感。頭痛。咽返る扇情な蜜の香りに、酔ってしまいそうだ。大きな妖の瞳は、そんな刃が届くものかと蔑んでいるようだった。
まさか翔も花神に隠されたのだろうか。花の女霊は人の男の精を欲しがる。この目の前の妖女は何か知っているかもしれない。咄嗟にそんな考えが浮かぶ。
身体はうまく動かない。どう見ても不利だったが、賭けてみる価値はあると思った。というよりも、交渉でも持ちかけなければ魔性に惑わされ、ずぶずぶと理性が沈んでいきそうだった。
「え、あの」口から出たのは思ったより情けない掠れ声。そもそも自然霊に人の言葉が通じるか。冷静に考えればつくづく愚かしい行動だったが、俺は大真面目である。
「人を……さ、探して……」いるのだが。呂律が回らない。どんどん力が抜け、話すことすら難しくなる。
視界に甘い霧がかかっていった。催眠術でもかけられたのだろうか。遠ざかる抵抗の意思を手繰り寄せ、重たい瞼を持ち上げた。
そうだ、あの、名乗らなくては。以前翔が言っていたことが蘇る。霊使いは自然霊を使役するとき、己の名を使う。名乗らなければ礼に反するのだと。今の俺は霊を使役するどころか霊に襲われ――もとい、誘惑されている真っ最中な訳だが、悩む余裕などなかった。
気を強く保つよう、再度短角刀の柄を握り締める。「刻夜皓輝だ」と先程よりはっきりした口調で名乗った。良ければ力を貸して欲しい、と。
威圧的にならないよう、対等な立場から呼びかける。一方的に操ることはまず無理としても、相手に侮られるのは嫌だった。誑かされるのは困る。
「……」
ぴたり。近付きつつあった衣擦れの音が止む。周囲の温度がすうっと下がり、同時に蠱惑的な色気と青霧の膜が途切れる。
俺は首を傾げて戸惑った。これは諾ととらえるべきか? ……しかし、間近に立つ妖艶な女の細まった瞳は友好には遠く、むしろ冴え冴えとこちらを軽蔑しているようだった。
悪寒。
冷水を吹き付けられたようだった。唐突に俺は、忘れかけていた身の危険を感じた。篭絡されるより遥かに戦慄とした、死の予感である。
対等な接し方が気に生意気だったのか、不自然な自己紹介が悪かったのか。最早知る由もない。冬のように冷たい突風が頬を撫でた。
見れば花神は体温のない唇に憎悪らしきものを滲ませ、渦巻く風に艶髪を荒ぶらせている。先程の色香はどこへやら、まるで鬼のような剣幕だ。噛みつくように剥いた口元から、ずらりと並んだ牙が覗いて……。
――うそつき。
ひしゃげた呟きが鼓膜に貼りつく。
それは俺が生まれて初めて理解した霊の言語だったが、そんなことに感心している場合ではない。
危ない、と。咄嗟に顔面を庇った魔除けの短刀は呆気なく弾き飛ばされる。右手の甲に痛みが走った。引っ掻かれたような赤い筋が幾つも残る。
落とした短角刀を拾おうと伸ばした手は容赦なく踏みつけられた。信じられないほどの怪力だ。踵の下にある甲の骨が、みしり、と嫌な音を立てて軋む。俺は痛みに呻き、必死に引き抜こうとした。
美しい顔を歪ませた花神が、老猿のようにしゃがれた唸りを漏らす。植物独特の言葉なのだろうか。怒り狂う彼女を前に、身動き取れない俺は一瞬で己の死を悟る。
咄嗟に――考えてやった訳ではないが、俺は踏まれていない方の手で花神の足首を掴み、力の限り歯で噛みついた。それ以外に武器がなかったとか、なりふり構わずやるしかなかったとか、言い訳は逃げた後で充分だ。とにかく俺は顔を横向け、彼女の細い踝のやや上に思い切り犬牙を突き立てたのだった。
口腔に泥臭さが広がる。精霊に肉体はないのだろうが、皮を破った下に骨らしき堅いものがあるのが不思議だった。夢中で抵抗をねじ伏せ、顎の筋肉を駆使して力一杯に咥える。そのまま首を捻れば、ごり、と砕けるような感触があった。
このまま離して貰えぬなら、噛み砕くまでである。
牙の餌食になった脚が暴れる。ふ、と右手を潰していた重圧が消えた。同時に蹴り飛ばされた俺は、呆気なく地面に転がる。はあはあ息を荒げ、涎を垂らした。
逃げなくては。踏まれていた右手が酷く痛んだ。庇い、立ち上がるも脚に力が入らない。這い蹲る蛞蝓のように無様だ。背後から花神の息遣いが近付く。
俺は少し先に落ちている棒切れに目を留めた。投げ捨てた松明の残骸だ。歯を食いしばる。火を、と舌が動いた。
「……燃えろ!」指さした先の松明に火花が散り、一瞬で炎が灯る。白い、俺の魂の輝きだ。
そう気付いたとき、何故だか負ける気がしなかった。己が奮い立ち、気力が戻ってくるのを感じた。松明を掴み、跳び起きる。真っ白い光が青い道を照らし出した。
俺は唾を吐き、威嚇するように短く吼える。妙にしゃがれて甲高い声だった。
「焼かれたくなくば、失せろ」




