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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十六話 花神
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 緊張と焦りのせいだろうか。息が切れる。斜面の下りで勢いがつき、俺は一人で夕風を切って走っていた。



「すぐに戻る」と言って釣り針を取りに行った翔は、二度と戻らなかった。支える人を失った釣り竿が、平石の上で寂しげに横たわっていた。


 陽も傾き始め、さすがに痺れを切らした俺は突如として猛烈な不安に襲われる。

 野生の勘か、その正体が何なのか分からない。ただ焦燥感に背中を突き飛ばされ、気付けば釣り道具もそのままに駆け出していた。数十分前の出来事である。


 ようやく樹々の間から覗いた世捨て人の家の瓦屋根。ここまでの道のりで翔とばったり鉢合わせするのではと期待していたが、外れた。ならば翔はあそこにいるのだろう。

 いるに違いない。


 首を回しながら勝手知ったる玄関へ。乱暴に靴を脱ぎ捨て、さすがに騒々しいかと上下する肩を鎮める。胸を押さえる俺は、家の中がやけに静まり返っていることを不審に思った。



「……」



 あらゆる音が消えている。古びた壁や天井や床でさえ、息を殺してこちらの様子を窺っているような、そんな錯覚。生き物の気配がない。ぴんと張り詰めた空気、場違いな俺の喘鳴だけが静寂に溶けていく。


「……翔?」喉を押し潰すようにして名を呼ぶ。大声を出すと沈黙ごと家が崩れるように思えた。「白狐さん?」


 返事はなかった。ただ背後から迫ってくる日暮れが、自分の影を廊下の先まで伸ばしている。


 俺の歩みは自然と用心深くなった。猫のように。少なくとも白狐さんはこの家のどこかにいるはずだ。小声で名を繰り返しながら、彼がいそうな場所を探し回る。

 居間や縁側には誰の姿も見当たらない。言い知れぬ不安が募った。

 そのまま忍び足で厨に入った俺は、竈の陰にごろりと落ちている白髪の頭を見つけて飛び上がる。――白狐さんが。



「うわぁああ!」



 自分の口から飛び出た叫び声に再度驚いた。慌てて駆け寄る。膝をつき、うつ伏せで倒れていた彼の腕を掴む。脈はあった。そっと白狐さんの唇に手を寄せ、暖かな息に触れる。

 調理台のまな板には、中途半端に切りかけの茄子が転がっていた。無造作に散らばる長髪。その絹糸に似た銀色は土間の埃に汚れ、傍には包丁が落ちている。料理の最中だったようだ。


 俺はぞっとする。意識を失っている彼の顔は精巧な人形のように美しく、いつも以上に生気を感じられない。大丈夫ですかと震える手で肩を揺さぶる。

 我ながら気が動転しているようだ。倒れた要因が分からない以上不用意に頭を動かすのはまずい、と気づいたのは、白狐さんの口から呻きともつかない吐息が漏れたときだった。


 うう。短い苦痛の声が、昏倒からの目覚めを告げる。薄く開いた左目がどこを見るでもなく彷徨った。

 こうきくん、とたどたどしい呂律。意識の混濁から回復するのを待つ。呼吸が辛そうだったので、彼が仰向けになるのを手伝った。


「……すみません、皓輝くん。急に、立ち眩みが……」


「肝が冷えましたよ……」


 心底、と付け加え、俺はその場にどさりと腰を下ろした。緊張の糸が切れ、いきなり力が抜けてしまった。

 長い髪を掻く世捨て人の主は、まだ朧げな面持ちで瞬きする。「何だか目の奥がちかちかして、いつの間にか……気絶などしていたようです」そう漏らす顔色は悪い。

 また脳貧血だろうか。気が晴れない。最近ようやく病から持ち直したと思ったのだが。俺は水を汲み、彼を居間まで運んで介抱する。



「ところで白狐さん。翔は、ここに帰っていませんか」


「え、翔ですか?」俺の問いに、きょとんと彼の瞬きが弾けた。意表を突かれたという表情だった。「……来ていませんが」



 何か言いかけた俺の口は止まり、押し黙ってしまう。白狐さんの言葉は矢のように胸を刺し貫いた。膨らんだ不安がぱちんと音を立てて破裂しそうだった。

 いや落ち着け、と言い聞かせた俺は、ひとつ嘆息し、怪訝そうな彼に事情を口早に説明する。黄昏がすべての輪郭をぼやけさせた。居間の影はゆっくりと、夕闇の灰色に染め上げられていく。

 翔がどこかへ行ったきり戻らないことを告げれば、白狐さんはその柳葉の眉を顰めた。顔色の優れない彼の手前、「どこかで道草食っているのかも」と強がる。


 嫌な予感というのは大抵当たる、というのはよく言われるが、嫌な予感を察知した時点で既に状況は手遅れ、というのがよくある俺のパターンだ。

 大袈裟に騒ぎ立てたところで事態が何も好転しないことも分かっている。だからせめて深呼吸をして、最善の策をとらなくては。


「俺、少し川まで探してきます。すれ違いになったということも考えられるので」


 極力落ち着いた声音でそう言えば、そうですか、と白狐さんは俯く。その表情を曇らせてしまったことに胸が痛んだ。余計な心配をかけて、体に障らなければいいのだが。

「僕も一緒に行きましょう」なんて長椅子から起きようとする彼の肩を押し留め、宥める。白狐さんは万一翔が戻って来たときのためにここにいて下さい、俺が探してきますから、と。


 説得されるまま黙りこくった白狐さんを残し、俺は早足に踵を返した。


 裏口をくぐって外に出る。顔を撫ぜる冷たい外気。すっかり夜の気配が立ち込める苔森に思わず怯む。青緑色の暗闇が、澱んだ空気が何かの生き物のように、ねじ曲がった古樹の陰で蜷局(とぐろ)を巻いていた。

 近頃は本当に日が短い。世捨て人の主の介抱をしている隙に、気の早い太陽は西の地平線に姿を消したようだ。

 まずい、と知らずのうちに声を出している。翔は夜になると目が見えないのに……。



 この時間までに自力で帰って来られないということは、やはり何かあったのだろうか。想定外のことばかり重なり、俺の心は動揺しているらしかった。胃の腑がきりきりと絞られ、これが的外れの杞憂でありますように、と願うしかない。




 ***




 ――夜の山で道に迷ったとき、俺はどうするべきか知らなかった。



 闇雲にあちこち歩いてはいけないということだけは分かった。だが残念なことに、立ち止まっているだけでは事態は何も進展しない。

 慌てて引っ張り出してきた松明の火は、点け方が下手だったのかどんどん小さくなっている。まさに風前の灯火。翔を探さねばという使命感は、いつしか心細く情けないものにすり替わっていた。



 闇に沈んだ青い夜の水底で、もがいている。そんな気分だ。



 一体どこで道を違ってしまったのだろう……。目を瞑り、記憶していたはずの道順を反芻する。

 あの渓流の釣り場は前にも訪れたことがあったし、ここ周辺の山々の地形も一人で歩ける程度に把握しているはずだった。半年間、伊達に山暮らしをしていた訳ではなかった。

 なのに何故、いつまで経ってもあの欅林の渓流に辿り着かないのか。世捨て人の家に戻ろうにも、その方角すら見失った俺は途方に暮れるほかない。


 張り巡らされた喬木の根は、好き勝手に曲線を描き、それ自体に意志があるかの如く俺を躓かせた。

 苛立ちに体力を奪われていくのも馬鹿馬鹿しく、かといって休むのも躊躇われる。この山に棲む鉄の悪霊、豻に遭遇することを思えば、動いている方がまだ気が楽だった。


 自分がどこにいるのか分からない。それは恐怖以外の何物でもない。

 野生の勘に頼ろうとしたのはやはり間違いだった。俺は今更後悔する。翔のこともあって切羽詰まっていたのだろう。頭の中に刻んでいたはずの地理や時間の感覚などはとうに失われ、ただ重たい足の疲労だけが、惨めな意識を保っている。

 自分は多少なりともこの土地に詳しいはずだという過ぎた自信が、俺の足を動かし続けてしまった。後悔しても、もう遅い――。



「っうぁ……!?」



 突然苔むした倒木を踏み損ね、ずるりと体勢が崩れた。

 疲弊した四肢は反射神経も鈍り、咄嗟に伸ばした俺の手は宙を掻く。何もない空間に投げ出されたような浮遊感。直後、振盪と痛みが降ってきて、堅い地面に伏せて呻いた。無様だ。

 転倒の衝撃が収まっても尚、足首の痛みだけはじんわりと熱を孕んで残る。挫いたのかもしれない。


 上体を起こし、怪我の程度ばかり気に掛けていた俺は、顔を上げてようやく周囲の異変を悟る。



 斜面だった地面は勾配が消え――俺はいつしか、平らな山道の中ほどに座り込んでいた。

 その道幅は二メートルほど。はっきりと窪んだ地面の“筋”は、青い夜霧の向こうまで伸び、霞んで先が見えない。ただ黒々と張り出した樹々が道沿いに続いている。



 ここは、どこだ?



 人の住まない長遐の山岳に道などあるはずなかった。獣のものにしてはあまりに広い。枯れた川にしては、やけに整然としている。寒気を覚えた。


 灯りがないことに気付いた俺は周囲の地面を探る。火の尽きた松明が、死骸のように転がっていた。

 持ち上げて左手を翳す。燃えろ、と呪文を唱えても、何の反応もない。燃えろ、燃えてくれと懇願するような俺の囁きは、やがて大きなため息に変わった。


 棒きれの残骸をその場に打ち捨て、そろそろ立ち上がる。

 前も後ろも、変わらない青の山道が続いていた。黒い並木は人の影のようだ。頭上で絡み合い、トンネルのようになっている。深い海の水底にいるような、息を吸うことも許さない閉塞感が足を竦ませた。

 胸が苦しい。この先には何があるのか。恐怖に似た好奇心に、ぶるりと大きく身を震わせる。


 後ろを振り返った俺は、はたと二度目の違和を覚えた。妙だ。自分がどこからこの山道に入ったのか分からない。

 左右どちらを向いても黒い樹木の幹や枝が格子状に絡み合い、堅牢な障壁となって立ちはだかっている。まるで俺があの広い道以外に進むことを拒んでいるかのように。近付いてみるが、到底潜り抜けられそうもない。


 この短時間で樹木の形が変わったとは信じられなかった。頑丈な木肌に触れた俺は、瞬時に手を引っ込める。掌を棘のような痛みが刺した。傷はなかったが、どす黒い殺意のようなものが皮下を貫通する。敵意にも似た何かが。

 植物に意志があるなんて、と舌打ちした俺は、ここが霊の棲む異界であることを忘れている。


 黒い檻をこじ開けようとしばらく悪戦苦闘していた俺は、やがて諦め、体温を失くした吐息をついた。力任せにやっても腕を痛めるだけだ。

 前に進めと木立や森が標すなら、それに従わねばなるまい。どうにもおかしな場所に迷い込んでしまったようだ。得体の知れない不安が募る。


 挫いた右足首を庇い、頭の隅で一抹翔のことを案じながら、俺は仕方なく霧の山道へと足を踏み出した。





 くすくす、誰かが口元を隠して嗤っている。







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