Ⅱ
廊下は方形の中庭に沿うよう、コの字になって棟を繋いでいる。片側が硝子戸になっているので明るい中庭の景色が見えた。嵌められた硝子の一枚一枚は厚く、湿った緑の風景が歪に映っている。夢にしては平坦さに欠け、匂いから何まで生々しく、それが何とも無力感を募らせる。
「これが夢じゃないって信じてもらえたか?」
「うん、多分」
「そっかぁ」
俺の前を行く若者は、光と親しげに会話をしている。若者は口を開けて笑い、悪意はなさそうだ。その白茶けた金髪や黄色く灼けた肌は、国籍を特定できない不思議な雰囲気があった。
いつの間にか他愛ないやり取りをするほどこの若者と仲良くなっている妹の姿に、俺は正直戸惑っていた。
「何にせよ、もう薬瓶を投げつけるのはよしてくれよ。安いものじゃないんだ」
「ああ、それは悪かった」
衝動的に怒りを表出したことを、俺は素直に後悔している。
よく掃除された木目の床が、途中で直角に折れ曲がっているのが見えた。道なりに曲がると、硝子戸から差し込む陽の白光が、床に幾つもの模様を映している。
頭の中で間取り図を描こうにも、馴染みにくい建築だった。ふと思い出したよう若者が立ち止まった。つられて俺も歩みを止める。
目線の近いところにある灼けた顔が、口元を疼かせている。俺は、彼が話しやすいよう仕草で促した。
「……皓輝が気を悪くしないのなら、名乗ってもいいかな?」
唐突に彼がはにかんだのは、そんなことだった。勿論、どうぞ。俺は頷く。相手は俺の返事に喜んだらしい。おやつを与えられた犬のようだ。
「じゃあ、改めて。俺の名前は翔。長遐の世捨て人だ。よろしく」
翔は両拳を胸の前で合わせ、軽く握るような仕草をする。それが彼らの挨拶なのだと、遅れて気づいた。ひとつ瞬きをした隙に「たくあん王子って呼んでよ」とよく分からないことを付け足すので、俺は面食らう。
「世捨て人というのは、何だ?」
「そう名乗っているだけだよ。身分みたいなものさ。意味はそのまま、世を捨てた人」
翔のあっけらかんとした言い方は、言葉の響きと全く似つかわしくなかった。俺は曖昧な相槌を打ち、少し間を開けた後、小声で続けた。
「たくあんは?」やはり何かの身分だったりするのだろうか。
「たくあん、たくあんはね」
心なしか、翔はぴょんとその場で足元を弾ませたようだ。明るい髪色の毛先が宙を踊る。
「俺の好物」
「あ、そう」
俺はそれ以上問いかけることなく、二人の後に続くことにした。
連れられてきたのは、二間の部屋だった。手前には、楕円の食卓や湾曲した肘置きのある椅子などが置かれている。大人の胸ほどの高さにある突き出し窓は木の棒で支えられ、そこから風が入ってきていた。
天井には赤い房飾りのついた照明が二、三吊り下がり、どれも火を入れる口が擦り切れている。隅には野の草花が飾り気のない花瓶に活けられ、壁には墨で線を引いた絵が掛かっている。使い込まれた板敷きの間は隅々まで黒ずみ、年季を帯びた独特の艶があった。
奥の間へと続く建具は開かれており、廊下一つ挟んで、欄干のついた縁側がある。その先に見える緑の風景は、庭というより森の中と言ったほうが近い。太陽の色が床に淡く反射し、竹とも木ともつかない、古ぼけた煤の匂いがする。
「兄貴、ここが居間だよ」
光が振り向く。まるで自宅を案内するかのようだ。彼らの奇妙な格好とこの居間の内装が、俺の中で整合性が取れつつあった。
夢か現実かはさておき、ここは現代日本ではない。家の造りはどこか懐かしさを感じさせる木造で、直感的な言い回しだが、伝統的である。ただしそれは、既知の伝統とは異なるものだ。
それに現代の日本で、照明器具に油や蝋燭を用いている家庭はまず有り得ない──昔テレビ番組で観た、閉鎖的な集落のことが連想される。時代の流れに取り残され、文明が発達しないまま現代まで残っている山奥の村落。この家や彼らの雰囲気には、そんな前時代的なものを感じる。
「おや、皓輝くん。こちらにいらしたんですね」
食卓の奥からその人は姿を現わした。ほっそりとしているが、こうして見ると背が高い。黒く粗末な着物は、か弱い女のような佇まいを引き立てていた。真っ白な髪は彼の顔を横切って、腰元まで垂れている。その手にあるのは刀ではなく調理道具のお玉だったが。
年は三十にも届かないくらいだろう。長い髪が似合っている。
本当にこの男性が賊を相手取ったのかと疑問が過る。呆けて棒立ちする俺に近付き、彼は着物の袖と袖を合わせて会釈をした。
「白狐と申します。あのとき助けさせていただいた世捨て人です。覚えておいででしょうか」
は、はあ。どうも。俺の挨拶はぎこちない。
「白狐さん、今日の昼餉は何ですか!」
元気のいい翔が、ぱたぱたと足音を立てている。「これから筍を焼きます」と白狐という人が答えるのを俺は眺めていた。
彼らは親子には見えなかった。差し当たり、立ち居振る舞いや年齢からして白狐さんと呼ばれる世捨て人がこの家の主人なのだろう。
彼らにとって、俺たち兄妹がどのように映っているのか分からなかった。俺たちにとって彼らが異質な存在であると同時に、彼らにとっても俺たちは不可解な存在であるに違いなかった。
「皓輝くん」
「は、はい」不意に名を呼ばれて我に返った俺は、白狐さんがこちらをじっと見つめていることに気づいた。彼は右目がなかった。残された左目さえ透明な硝子玉のようで、人の心を物憂げにする優しい何かがあった。
「改めまして、ようこそ、我が家へ」
「……」
「お腹が空きませんか。きっと訊きたいことがたくさんあるのでしょうか、まずは何か温かいものを食べませんか」
答えられない。確かに言われてみれば腹は減っているようだが、食欲がない。まるで食道の入り口がぎゅっと閉じられたかのよう、何かを口に入れたい気分ではなかった。
ただ、断る言い訳が思いつかない。何より白狐さんや翔の振る舞いに敵意のようなものは微塵もなく、もし断ったら彼らの善意を傷つけるのではないかという躊躇いがあった。
曖昧に頷くこちらを前向きに捉えたらしく、「では支度を整えますね」と白狐さんは居間の奥へと消える。どうやら調理場があるようだ。
俺は、彼が料理をしている光景を想像し、首を傾げるのだった。
「……俺は、どれくらい意識を失っていたんだ?」
翔に促されるまま食卓に腰を落ち着かせる。隣に翔が座り、向かいの席にさも当然のような顔つきの妹が腰かけた。
光が言った“変な世界”という表現が俺には疑問だったし、これが夢であるという可能性も、実はまだ捨てていない。ただここは、俺たちにとって異質な文化圏であることは間違いない。
「翔は、さっきのあの人と二人でここに暮らしているのか?」
「うん。元々白狐さんが住んでいたところに、俺が拾われてやって来た。もう何年も昔だけど」
「へえ」両者に血の繋がりはないらしい。込み入った事情を詮索するのは避け、簡単に相槌を打った。
「俺と白狐さんは、世捨て人なんだ」
翔はその言い回しを気に入っているように、微笑んだ。
「世を捨て、身分を捨て、山奥でこうして隠れて暮らしている。訳あって人里じゃ暮らして行けなくなって。でも、ここの生活は楽しいぜ」
その朗らかさに、戸惑わざるを得ない。ただ黙っていると、話を本題に戻したのは翔だった。
「この辺りは長遐と呼ばれている」
「地名か?」
「そう、長遐の山岳ってね。滅多に人が踏み入らない辺境の地だよ。だから、あの夜にお前たちがこの辺りをうろついていたって聞いて驚いた。何せ長遐の奥にまで入ってくるのは、悪霊か奴隷商人くらいのものだから」
見事その両方と遭遇したらしい俺には、彼の言葉の信憑性が増して思えた。そして長遐という聞き慣れない山岳地帯の名を念頭に、この辺りの地図を想像してみる。
あの晩、光と俺が目覚めたのは確かに山としか形容しようのない鬱蒼とした樹々があるばかり、人工物が一切見当たらない場所だったが、翔の「辺境」という言い回しはどこかに人里があるという証明のようでもあった。
つまり、違う文化圏なれど社会が形成されている。──その事実に、俺は心強いものを感じた。街や国家が存在するならば、ここがどこなのか特定することが出来ると信じた。
そして、身を乗り出すような体勢で、確信的な問いかけをする。
「長遐の山を下れば、そこに何があるんだ?」
「夕省、西の亢州」
「えーっと、それは」
「決まっている。この国の最西の省だ」翔は詩を諳んじるような滑らかさで、言葉を紡いだ。
「この国?」
「天下しろしめす皇帝陛下を戴いた、孑宸皇国だよ。何千年前、この東大陸全土を統一した、月辰族の大国さ」
「……」
俺は言葉を失った。相槌を打つことすら忘れた。なるほど、これは大変だ。遅ればせながらようやく悟る。
俺と光は、本当に全く見知らぬ土地に来てしまったらしい。孑宸皇国など、後にも先にも地球上の歴史には存在しない国名だ。つまりここは地球ではない。翔の口走った“東大陸”という名も謎である。どこから見た方角の東なのかはさておき、そんな名前の大陸聞いたこともなかった。
向かいを見ればその妹が「ほらね」と片眉を上げ、今はそれに甘んじるほかない。
変な世界──およそ自分たちの知っている場所と違いすぎてそうとしか形容しようがないのだ。自分たちの知る常識その全てが根本から瓦解させられるほどの恐ろしい事態に直面しているのだと。
俺はようやく認めた。認めざるを得なかった。実感が湧いたことが残念ですらあった。
食欲を誘う湯気とともに白狐さんが現れたのはそんなときだった。
「昼餉の支度ができました。翔、手伝ってください」
鼻歌混じりの翔が、ぱたぱたと厨へと駆けていった。天井から釣り下がった錆びついた照明が、微かに揺れている。
食卓に俯いた俺は、これが丸ごと夢であったのならと懲りずに現実逃避した。
──いや、むしろこれこそが現実で、俺と光が元々いたあの場所の方が夢だったのではないか。そんな恐ろしい考えすら芽生えるので、もう何も考えたくない。