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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十六話 花神
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 ――翌日。


 午前の鍛錬で気持ち良く汗を流した俺と翔は、揃って近隣の水場へと渓流釣りに来ていた。

 (けやき)の山林を抜け、緩い斜面を登り、軽やかな早瀬の音色を遡る。人の手が一切加えられていない荒んだ雑木林は、ここしばらくの日照りにくたびれ、水に飢えていた。

 秋の狩猟の取っ掛かりという訳でもないだろうが、翔は釣り道具の他に弓も背負ってきている。何か獲物がいれば射るよ、と竹矢を数えては少し得意げだ。



 ――この日、日常に不吉な亀裂が入る事件が起こるとも知らずに。



 秋の産卵を控え荒食いをするようになった川魚を狙い、流れの中に釣り糸を垂らす。水かさがずいぶん少ない。

 度々場所を変えながら試しても、釣果は今一つといったところか。目玉である山女魚はさすがに素人には難しく、なかなか掛からない。

 引きのぱっとしない竿を持て余し、翔が昨日の話題を持ちだしたのは、二時間ほど経ったときのことだった。


「……そういえば、白狐さんのスコノスのことだけど」


 下流でのべ竿を揺らしていた俺は、耳だけそちらに傾ける。山地を刻む渓流のせせらぎが、夏の息遣いが、陽炎のようにあちこちで踊っていた。欅の木立のさざめき、水面の煌めき、頬を撫でる風に、翔の苦笑が混じる。



「俺も見たことないんだよね」


「え?」


「あの人に宿っているスコノス」



 調子はずれの声が浮いた。顔を向ければ、翔の目尻の皺が寄る。


「信じられるか? 二十年近く一緒にいて、だ」それは長年の疑問を初めて人に打ち明けたような面持ちだった。ひらひら片手を振る。「あの仙人は謎が多い」


「謎、ね……」


 俺は妙な胸の淀みを覚えながら、その単語を繰り返す。あの得体の知れない世捨て人の主を、そんな陳腐で漠然とした表現に放り投げてしまっていいのだろうか。


「スコノスっていうのは、他のネクロ・エグロの前にも頻繁に姿を顕すものなのか?」


 興味を引かれたか、俺の口はそんな問いを翔に向けていた。しかし、返ってきたのは「人それぞれ」という気の抜けるような困り笑い。


「本当にあの人のスコノスが引っ込み思案な性格なら、或いは」


「或いは?」


「……」


 翔は応えず、代わりに竹竿を引き上げる。生き餌を付け替え、再度渓流の中に投じた。俺も流れに揉まれる釣り糸に視線を戻す。水に濡れた枯葉の上で、金色の木漏れ日が笑っていた。


「逆に、ずっと身体の外に出ているという可能性は?」


「いや、それはない」


 俺の思い付きは、すぐに否定される。


「スコノスは宿主の身体から、あまり離れることは出来ない。一心同体っていうかさ……切り離せない、から」


 そう語る翔の目は遠い。怨念に憑りつかれ、狂気と化した己のスコノスのことを考えているのか。ぞくり、と駆ける寒気。掛ける言葉を知らない俺は、幾度か迷った末、躊躇いながら訊ねていた。


「翔は、自分のスコノスが……その、いなければいいと考えたことはあるか?」


「……さあ、どうだろう」笑って誤魔化したというより、考えてみたこともなかったという表情だ。「俺は俺だから」


「……」


「お前も、いずれ分かるんじゃない」


 重要な相方であり、最上の親友であり、生涯を共にする伴侶のようなスコノスの意味を。

 まるで原子が結合するよう、双方が共にあることで生命体としてのバランスを取っている。スコノスは宿主に依存し、宿主はスコノスを拠り所とする。片方が欠ければ、もう片方も死ぬ。

 スコノスを持たないネクロ・エグロ、というのはまず有り得ない。




「ねえ、白狐さんって本当に、ネクロ・エグロなのかな?」




 何てね。それは翔の何気ない冗談だったのかもしれないが、俺の胸は錆びた鎖のように軋んだ。



 数分後。「ありゃ」という翔の拍子抜けた呟きで、途切れていた会話と風の匂いが戻ってきた。どうした、と問えば、竿を引き上げていた翔は、その先に取り付けていた釣り針を指で弄っている。


「何か変だと思ったら、針が壊れていた」


「替えの針は?」


「……あー」


 道具箱を掻き回すがちゃがちゃという音。「丁度いい大きさのがないな。……仕方ない。まだ時間あるし、ちょっと家まで戻って取ってくるよ」


「そうか」


 俺は手元の竹竿を揺らしながら、首を動かす。どこがどう故障したのか分からないが、翔の釣り竿は河岸の乾いた岩に放り投げられていた。無造作に。



「すぐ戻る」



 そう弓を背負い颯爽と去っていった翔の後ろ姿が、帰ってこないものだと知っていたら、俺はどうしていただろう。どうすれば良かったのだろう。



 ――……。



 木立の隙で、姿の見えない鳥が鳴いている。緑の透けた木漏れ日が差し込んでくる。あっという間に一人で残された俺は、目ぼしい獲物のかからない糸先に退屈し、少しだけ意識を逸らしてみた。


 周囲の森は、午後の穏やかな光に沈んでいる。飛び岩を切る水のせせらぎも、耳に馴染んでしまえば無に等しい。水際の奏でに眠気すら誘われた。黙って立っていると、指先から緑の中に溶け込んでいくような、そんな幻想に囚われる。

 花の蜜のような甘い香りに包まれて、遠く――。

 夢を、見ていたのかもしれない。


 不意に気色悪い羽音が耳の下を通過し、現実に引き戻された。びくりと跳ねる肩。視界の隅を喧しい(あぶ)が横切り、慌てて振り払う。虫の羽音というのは、何故こうも鳥肌立つものなのだろう……。


 はたと顔を上げる。握っていたはずの釣り竿が、いつの間にか地面に落ちていた。居眠りとは。腰を折って拾い上げようとした瞬間、明らかに虫ではない大きな影に覆われる。

 密やかな女の笑い声。艶やかな錦の衣擦れ。と思えばもうそこには跡形もなく、緑光、渓流の景色が広がっているだけである。


 まだ夢を見ているのだろうか? 俺は瞼を擦り、注意深く辺りを観察した。浅い清流は、絶え間なく上流から滑り、岩に裂け、また淀みなく流れていく。そこに突然、硝子珠の飛沫が弾けた。まるでそこに誰かが立っているかのように。

 向こう岸の土手から枝を伸ばす見事な欅林。枝葉が斑の日陰をつくり、その透明な輪郭を僅かに見えるものにする。陽炎にも似た人影と、不意に全身を捉える甘美な花の香りに、俺は人ならざるものの存在を確信した。


 女だ。姿は霞んでいるが、優美な佇まいからそう直感した。


 こんな辺境の山奥に人の女などいるはずのないことくらい、考えなくても分かる。森に棲む女の霊といえば。咄嗟に懐の短角刀を掴み、俺はどうにか舌を回した。



「……花神(カシン)?」



 それが答えだったのか、はたまた不正解だったのかは分からない。刹那、一陣の冷たい風が足元を吹き抜け、今度こそはっと目を見開いた。気付けば俺は川端の岩に手を付き、その場にへたり込んでいた。


「……」


 寒気を覚える。周囲に人の影がないことを確認し、息をついた。


 花神――あらゆる植物に宿る花の霊たちは、美しい気まぐれな女神である。

 蝶のように移り気で、たまに男を惑わしては精を奪う。ひと度怒りを買えば復讐に余念がない。この世界の恋愛叙事詩に彼女たちが登場すれば、ほぼ間違いなく悲劇になると言われるほどに。

 手足から力が抜けていた。もしかすると先程のあれは、誘われていたのかもしれない。この俺を誘惑しようだなんて、物好きな花神もいたものだ。

 幾ら魅力的な女神であろうと、精も根も吸い尽されるのはご勘弁願いたい。


 脳髄にこびりついた甘さを消そうと、俺は冷たい川の水に手首まで浸す。ついでに口元を拭えば、いよいよ本格的に目が覚めた。

 平たい岩の上に座り直し、なおざりにしていた釣り竿を構える。辺りにもう花の霊の気配はなかったが、俺は警戒心を緩めなかった。



「……」



 翔は遅いな、と思う。


 俺はそれほど気にしていなかった。ここから世捨て人の家まで遠くはないし、長年山暮らしをしていた翔にとってこの土地は自前の庭のようなものだ。迷う訳はない。むしろ、一人でいるにはこの森は危険だ、と自分の身ばかり案じていた。


 三十分経っても、一時間経っても、翔は戻らなかった。腕時計の針を横目で確認しては、徐々に削れる平常心。遅くなっている理由が幾つも脳裏に浮かんでは、シャボン玉のように弾けていく。

 時折獲物の食いつく竿と格闘しながら、俺はようやく不穏を認めた。おかしい。さすがに遅すぎる。金色の陽が空の向こうで傾き始めていた。

 どこかで寄り道しているだけならいいのだが……。





 ***




 時刻は、少し前に遡る。



 翔はやや駆け足で世捨て人の家へと向かっていた。通い慣れた一本の獣道。紐を巻いた爪先で小石を蹴り、ひらりと藪を飛び越える。

 釣り針が壊れたくらいで戻るのも面倒だな、なんて今更思いながらも、冴えない釣果のまま引き上げるはどうにも癪だった。

 せっかくなら子持ちの山女魚を釣って、夕餉の料理を豪華にしたい。頭にあるのはそんな暢気なことばかりである。


 我が家の古い屋根が見えてきた頃には、さすがに呼気が上がっていた。井戸で水を汲んで少し休もう。近道と称し山査子の灌木を掻き分ければ、着物の裾を無数の棘に引っ掻かれてしまった。

 白狐さんに見られたら渋い顔をされるだろうか。背負った弓矢が音を立てる。鶏舎のある庭に足を踏み入れる。正面玄関ではなく、裏口へ向かおうとした翔は、すぐにその異変に気付いた。



 歩みが止まる。



 庭に人がいた。男だ。鶏が珍しいのか、僅かに屈んで鶏舎を覗き込んでいる。黒ずくめ恰好をしているが、白狐さんではない。武骨さの中にどこか品がある、奇妙な佇まいだった。

 ゆっくりとこちらを振り向く。あ、と漏れる声。そこにいるはずのない人影に、翔は息を飲んだ。



「皓輝? ……どうしてここに」



 それは今しがた渓流の釣り場に置いてきたはずの、黒髪の同居人だった。翔は戸惑う。自分はあそこから走って来たのだ。何故この庭に、目の前にいるのか。……まさか、生き霊?

 鶏舎の金網に背を向けて立つ皓輝は、何の感情も窺えない冷ややかな金の双眸でこちらを眺めていた。まるで虫でも踏んでいるような、見下していると言っても差し支えのない冷淡さである。じり、と翔の脳を恐怖が焦がした。



「理想の世界へ」



 一歩、相手が前に足を踏み出す。途端に平衡感覚が狂った。ぐらりと目が回り、芝生が柔らかくなる。妙だ、と思ったのは男の両手が自身の首を絞めていたときで――もう遅い。




「あれ、イケメンだ……?」




 視界が、消える。






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