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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十六話 花神
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 夏至祭から、ふた月あまりが経った。長遐(チョウカ)の山岳は初秋の衣に彩られつつある。夏の終わりを惜しむような青空を仰いでいた俺は、ふと小屋の中を歩き回る羽毛の生き物へと目をやった。



 骨ばった頑丈な足が、やけに行儀よく苔の起伏を踏みしめる。右足、左足、と交互に下ろされる度、そのしなやかな首も小刻みに前後した。ネジ仕掛けの玩具のように。

 その仕草を愛らしいと思えるほど、俺は鳥類が好きではない。(たらい)を抱えるこちらに気付いたのだろう。狭い鶏舎から解放された雌鶏たちは、餌を求めて一斉に俺の靴先を突いてきた。


「いでで」情けない声が口から出る。逃げ腰になりながら盥の穀物を掴んで撒けば、どうにか彼女たちの注意を逸らすことには成功したようだ。

 地面に散った麦や青菜くずを競って食べる様子に、ほっと一息。出会い頭に特撮ヒーロー顔負けの飛び蹴りを決められていた頃よりは、ずっと懐いたと言える。 



 夏の終わりから、世捨て人の家では荒れ放題のまま放置されていた庭先の鶏舎を改築し、二羽の雌鶏を飼い始めた。

 気軽に人里へ下りていけない山暮らしでは、自給自足が暮らしの原則。男三人が食べていくのに、ほぼ毎朝手に入る新鮮な卵は貴重な食材である。“玉子焼きは甘くすべきか否か”食卓で揉めたのも、楽しい思い出だ。


 そしてつい先日、俺は人生で十六度目の誕生日を迎えた。

 だからと言って何かが変わる訳でもない。夏の間は、病床に臥せていた白狐さんの看病に追われていたし、重陽の節句で菊酒を楽しむ暇もなかった。光の件に一切の進展がないまま世捨て人としての日常を過ごしている俺に、己の生まれた日を祝う資格などあるのだろうか。

 暦の上では秋の入り口。猛暑の季節を過ぎても尚、この苔の盆地には茹だる残暑が居座る。青葉が日差しに焼ける匂いも名残惜しく、夏を忘れられない蝉が樹上で喚いている。



「皓輝、逃がすなよ」



 不意に飛んできた翔の声に、夏の追憶から覚めた。庭を見回し、笹藪に潜り込もうとしていた一羽を爪先で牽制。丸みを帯びた背が一瞬だけ膨らみ、喉を引き絞る警戒声と共に逃げていく。

 ばたばたと左右する尻を追いながら、飛び蹴りされないだけマシ、と再度心の中で繰り返した。

 食用卵のため、農家から交換してもらった二羽の雌鶏たちは、それぞれ「()」と「(ダン)」と呼ばれている。よく鳴くのが久で、澄ました顔つきのが旦だとたくあん王子は指さすが、俺には未だに区別がつかない。どちらも同じ、ただの小柄な鶏にしか見えなかった。


「……」


 世捨て人の主が気まぐれに手入れするこの庭は生垣も柵もない。ただ季節の花々が雑草と並び、苔清水が流れるに任せ、野趣溢れる景観を縁側前につくっていた。

 辛うじて人の手を加えたと分かる開けた芝生。柔らかい乳白色の羽毛の塊が並んでいる様子に、思わず口の端が緩んだ。


「庭には二羽、鶏がいる……」


「何か言ったか?」


「いや、何でも」慌てて首を振る。「そっちは終わったか?」


「まだ。もう少し……」箒を手に、翔は鶏舎の中の藁を掻き出している。

 改築された鶏舎は、素朴な金網の小屋といった出で立ちで、屈まなければ入ることが出来ないほど天井は低い。今日は翔が掃除をする当番なので、俺はのびのびと背筋を伸ばせるという訳だ。


 なんて油断している隙に不格好な羽音とけたたましい鳴き声がして、二羽の雌鶏の爪が俺の脚に突き刺さる。俺の悲鳴に驚いた翔が鶏舎の天井に頭をぶつけていた。

「鶏ってこんなに気性の荒い生き物なのか?」腿の引っ掻き傷を摩ってぼやけば、「俺の前では大人しいぞ」と哀れみの目を向けられた。一体この俺のどこが気に入らないというのか。理屈の通じない動物は、やはり苦手である。


「多分、舐められているんだろうなぁ……」


「鶏に?」額の汗を拭い、翔はくすくす笑いを漏らす。


「そう、鶏にすら舐められる」


「自虐かよぉ」


 蝉が鳴いている。秋よ、来るな、と。雲のない青空に、翔が目一杯両腕を広げた。


「きっと、怖がられているんだよ。お前が如何にも動物嫌いなどろどろを醸し出しているから」俺の陰気を的確に形容してみせては、ぱんぱんと手を打ち鳴らす。「ほら。久、旦」


 その呼びかけに反応するよう、雌鶏たちが首を傾げてコッコッと返事をするのに、俺は少し感心した。鳥頭、なんて馬鹿にする言葉もあるが、鶏というのは思ったよりも賢いものらしい。少なくとも自分の名前の響きを理解し、味方と認識した相手とそうじゃない相手を差別化するくらいには。


「皓輝も、いい加減名前覚えたらどうだ?」


「名前は覚えたよ。どっちがどっちなのか分からないだけで」


「鶏以下の識別能力じゃないか」


 翔が吹き出す。箒で二羽を鶏舎まで追い立てる様子を一瞥し、反駁も出来ない俺は腕を組んだ。区別がつかないから、愛着も湧かないのだろうなぁ、と。


「東大陸ではさ、相手に名前を付けるのは支配の証で、自分の名前を相手に教えるのは信頼の証なんだよ。」


「信頼……」


「そう」鶏舎の扉に鍵を掛けながら、翔は振り向いた。青い瞳が澄んでいる。「昔は誰かを呪うときに、その相手の名前を使ったんだ。だから、信頼できる人にしか名前を教えちゃいけなかった。今でも、霊使いが自然霊を呼ぶとき、自分の名前を使うし」


 箒や盥を片付ける。「使う?」


「自己紹介みたいなもんだよ。名乗らないで使役しようとするなんて無礼だろ?」


「俺も鶏に名乗るべきか?」




 ***




 家に戻ると、白狐さんが縁側の陰で涼んでいた。ぬるい風が葭簀(よしず)に舞い込んでは、銀の毛を遊ばせている。


 暑気あたりと夏風邪の二重苦で何週間も臥せていたこの世捨て人の主は、ようやく起きて、家事が出来るまで回復したようだ。

 看病している間、元々細かった彼の手首がどんどん痩せていく様子に俺はかなり心配したのだが、二十年生活を共にした翔は夏の風物詩だと言わんばかりに落ち着いていた。


「おや……お帰りなさい」


 そう微笑んで迎えてくれる彼の目元は、やつれている。黒々とした病魔が彼の手を執拗に引いて、連れ去ろうとしているかのようだった。


「もう起きて大丈夫なんですか」


「お陰様で」


 ぱたぱたと、翔が裸足で厨房まで駆けて行く足音が遠ざかる。俺は白狐さんの隣に腰掛け、日差しに白む庭に目を細めた。


「皓輝くん、脚が……」


「え?」不意に彼の細い指が、俺の腿を指す。久か旦のどちらかの爪痕だ。僅かにほつれた着物の糸を突いて、白狐さんが笑った。


「ふふ、またやられたんですね。さっき、ここまで声が聞こえてきましたよ」


「ああ、はは……」


 苦笑いする他ない。布越しに傷を撫でながら、俺ばかり威嚇してくるんですよねぇとやるせない息を吐く。


「むしろどうして皓輝くんがそんなに動物に嫌われるのか、興味があります」


 くすくす、白狐さんが震わせた笑い声に、からんという軽快な音が重なった。揃って顔を上げると、翔が運ぶ麦茶の中で氷が踊っている。

 縁側に、三人並んで腰かける。暑いなぁと零すと、白狐さんの口から同調するようなため息が漏れた。雨を降らす神は近頃めっきり姿を見せない。すっかり枯れて干乾びた朝顔が、死体のように宙吊りになっている。



「秋が深まったら、忙しくなるよ」



 冷たい麦茶を一口、翔が背筋を伸ばす。


「何かあるのか?」


「冬支度がね」その瞳はまだ兆しもない遠い季節を見据えているかのようだ。「長い冬に備えて用意しなきゃいけないものがたくさん。この辺りは雪が多いから、山を下りることも難しくなるし」


「じゃあ邑に出掛けることもないのか」


「ないというか、出来ないというか」


 くしゃりと苦笑する白狐さん。彼は幾度、この長遐の山々で冬を越してきたのだろう。雪に閉ざされた僻地で孤立する寒い数か月を想像しては、季節の移り変わり、時の流れをしみじみ実感する。


「だから秋は忙しい。夏みたいに、食べ物が気軽に手に入る訳じゃないから」


 俺に言わせてみれば、今までの世捨て人の食生活も人間界のそれに比べれば気軽には遠い。近隣の人里に下りるのも丸一日かかるような有様で、頻繁に食材の買い出しに行くことは難しかった。

 それでも食事に不自由しなかったのは世捨て人の自給自足原則がなせる業と言うべきか。落葉すれば、ますます山川草木の恵みに与かることになる。二羽の雌鶏も冬の食生活の要となるだろう。

 秋から春先にかけて、鳥や獣を狩るんだよと翔は弓を射る真似をする。


「鹿とか兎とか。保存のきくように調理して、冬の間はそれで賄う。あとは」


「あとは?」


「たくあんを漬ける季節だぜー!!」


 唐突に大声を出して万歳した翔に、俺は麦茶を零しそうになった。

 この男を象徴するあの黄色い漬け物が、全て自家製だというのには驚きだ。霜が降るほど寒くなったら、家中干された大根だらけになるとか何とか。世捨て人の主が冗談にしては妙に説得力のある言い方をするので、戦々恐々する他ない。



「――……」



 ふ、と。息を吸って会話が途切れたとき、秋や冬の世捨て人を夢見ていた俺は、同時に遠火で胸を焦がすような痛みを感じていた。果たして俺は、いつまでこの山の家で過ごすのだろう、と――。


 半年、と声に出さず呟いてみる。冷たい風の吹く屋上から飛び降りたあの日から、半年。まさかこんなことになるとは。幾度そんな感慨に耽ったか知れない。僅かな後悔と胸の軋みは、山暮らしの日々に紛れて、時折顔を覗かせた。


 妹が見つからなければ、俺はこのまま世捨て人として冬山を過ごすことになる。どうしたものかな。俺はやり場のない、もどかしい感情に歯噛みする。いつになったら俺は死ぬのだろう、ああ。

 ふと、かつての自分の日々を振り返る。それが良いことなのか悪いことなのかはさておき、この半年間、俺の人生はそれほど退屈なものではなかった。それだけは確かだ。



「ねえ」ぱちん、と思考の膜が弾ける。「……そういえば僕、ずっと気になっていたんですけれど」



 白狐さんの澄んだ声に、瞬いた。何ですか、と訊ねると、彼は紅の瞳をこちらに傾ける。


「皓輝くんは、ご自分のスコノスを見たことあります?」


 急に振られた話題に頭が追い付けず「え? いえ……」と身の入らない声を返した。麦茶を口に含んで、改めて首を振る。「見たことないです」


「顕れたことは、声を聞いたことも、一度も?」


「はい」


 何だか冷や水を頭から被せられたような気分になった。スコノス、という言葉は、俺の脳を覚醒させる何かがある。――嫌な意味で。


「いえね。皓輝くんがこちらに来てもう随分経ちましたが、お姿を拝見したことないなぁと思いまして」


「言われてみれば、皓輝のスコノスはなかなか顕れないなぁ」翔は、どこか気持ちの籠らない口調でその単語を発音した。


「俺のスコノス……」


「照れ屋、なのかもね」口角を上げてみせる、それが本人なりの冗談なのか俺には判断つかない。

 何にせよ、スコノスの暴走によって人生を破滅させた翔を前に、この手の話題は避けるべきでは。そんな焦りに似た感情に囚われ、俺は落ち着きなく視線を泳がす。



「安心しろ。どんなに強いスコノスでも、俺ほど酷いのは珍しいから」


「自虐かぁ……」



 額を掻く。そういうリアクションに困るのはやめろよ。非難がましい視線を向けても、翔はどこ吹く風。

 笑いに変えるのも一種の昇華方法ではあるが、周りが笑えなければただの悪趣味だ。

 白狐さんが猫を可愛がるように、翔の髪を撫でている。「何だか隠し事をされているようで、気になるんですよ」


「好奇心は猫を殺すらしいですよ」そう言い放った後、俺はふと首を捻る。「……そう言う白狐さんは? 白狐さんのスコノスはどうなんですか。俺、見たことないような気がします」



「え? ええと……あはは。僕のはあの、あれです」


「何?」


「照れ屋なんですよ。きっと」



 何故白狐さんが珍しく顔を引き攣らせ、下手な嘘までついたのか、俺には見当がつかなかった。

 この人もまた翔のように、自分のスコノスに問題を抱えているのかもしれない。深入りを許さぬ気配に、俺は自分なりの解釈を試みる。



 ――俺は、己はネクロ・エグロなのだと自認したその日から、肝試しのような心地でネクロ・エグロのことを知ろうと努力をした。自分のスコノスのことを想像してみたことも、ない訳ではなかった。


 スコノス、上帝が遣わした勝利の光――そんな風に持て囃される不可思議な精霊は、ネクロ・エグロと人間を区別する決定的な要素である。

 一人につき一匹という制約に加え、片方が死ねばもう片方も消えるという運命を背負う。その風采は宿主の魂のかたちを体現するとか。姿形はそれぞれ大きく違えど、嗜虐的な性質は同じ。

 ヒトは理性を、スコノスは獣性を司る。まさに戦うためにつくられ、人を殺すことこそに快を覚えるような。その獣性の凄まじさは、翔の人型スコノスの暴走を目の当たりにして体感済みで、あれと似たものが己の身体にも宿っていると思えば寒気も覚えよう。

 今まで人生を共にした己の影に、殺人鬼的な別の人格があった。そのことに恐怖を感じない人間がいるだろうか。


 いや、恐ろしいのはそれだけではない。きっと、自分に宿る精霊なんてものと対面すれば、遂に俺が人間じゃないことが証明されるような、そんな気がするからだ。



「……皓輝くんはきっと、身体はネクロ・エグロでも、心が人間に近いままなのでしょうね」



 白狐さんはそれとなく微笑みながら、俺の心情をぴたりと言い当てて見せた。誰に責められた訳でもないのに、走って逃げ出したい衝動に駆られる。

 かつての母さんは幼い俺を背に庇い、声を枯らして叫んだ。病院に、世間に、刻夜家に、正常を主張し続けた。息子は爬虫類なんかじゃないんだ、と。だから俺は、彼女の努力を無駄にしないためにも、人間であり続けなければならない。


 その意地が呪いとなり枷となり、俺のスコノスが顕現する妨げになっているとして――一体何の問題があるのだろう。むしろ、大勝利だ。


「とは言っても」俺はため息混じりに片肘を付き、顎を乗せる。「今まで全く使えなかった訳でもないんですけどね……」


 春雷の日、翔の獣性が暴走したあの日。俺は意図せず、自分自身のスコノスの力も目の当たりにした。それは雷雲の中の厳つ霊と共鳴し、翔の手首を焼き切ろうとした。

 スコノスの暴発。酷く苦々しく、胃の底が冷えるような記憶だ。


「あれは、俺のスコノスにも同調していたな」いつの間にか手元のたくあんをかじっていた翔が、上目加減でこちらを見る。その顔に冷淡な軽蔑が浮かびやしないか、俺は気が気でない。「(ガン)に襲われたときも、音のスコノスが突発的に触発した」



「危機的状況になったら、使えるのかもしれません」


「火事場の馬鹿力ってやつですかね……」



 我ながら的を射た表現に、白狐さんはどこか憂いを帯びた横顔を首肯させる。「……だから、僕は思うのです」



「皓輝くんを半殺しにすれば、皓輝くんのスコノスが顕現するのではないかと」


「やりませんよ?」



 好奇心に殺される猫になるのは、御免被る。






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