Ⅴ
数日後。世捨て人の家を出発してから既に十日以上が経過している。そろそろ白狐さんの美味しいご飯が恋しくなってきた頃だ。
夏至も終わり、祝融の火の山から丐見山脈の温泉宿を点々とした俺たちは、涼省の東の古都、抄扇を訪れていた。
青緑の大理石で出来た美しい街並みは、通り雨にしっとり濡れ、趣深い風情を醸している。十六都邑のひとつに数えられるこの抄扇。かの文昌の出身地として知られる、歴史ある囲郭都市だ。
通りに満ちる湿気と長い年月を吸い込み、清々しい蒼穹を見上げる。文学の都と名高い街の風格か。雑然とした大都会の安居に比べ、どこか知的で気品漂う青緑の街。雨上がりの水気にきらめく道を、角張った帽子の学士や観光客が行き交う。
こぢんまりした表通り、俺は舗道の敷石に腰掛けて相棒の帰りを待っていた。石畳の敷かれた道は清潔で気持ちがいい。雑踏の中から慣れた足音が近付いてきたのはそれから間もなくだった。
「終わったか」
「うん。待たせたな」投げ売りされていた古本や、表紙に綺麗な絵のある新書の数々を抱えた翔が戻ってくる。「つい、たくさん買ってしまった」
せっかく遠路はるばる涼省にまで来たのだから、抄扇にも寄りたいと言い出したのはこいつだった。
何をするのかと訊けば、本を買いたいのだと言う。識字率の低い孑宸皇国は、書物そのものの需要が低い。夕省の田舎の辺邑では流行の本もなかなか手に入らないらしい。
娯楽の少ない山奥の生活が続く以上、無論俺も異界の書物には興味津々ではあったが、未だに孑宸語に不慣れなためその場での中身の物色が難しい。結局、今度翔の買った本を貸して貰う約束をして店の外で待っていた次第だ。
快く承諾してくれた翔が成人向けの猥本を未だかつてないほど真剣に選んでいた光景は見なかったことにする。
「それで、他に何か用事はあるか」
「ないよ。これ以上土産を買ったら背負いきれなくなる」
「それもそうだな」俺は苦笑を隠せない。安居の夏至祭の後はあちこち買い物と観光に付き合わされた。乗り合いの馬車でのんびり夕省まで帰る予定といえ、あまり物珍しいものにはしゃいで散財すると後で苦労しそうだ。
ちなみに長遐の山岳から出てこない世捨て人の主のため翔が買った土産と言えば、宝石のように色とりどりの飴玉を詰めた瓶をはじめ、涼省の名産である赤味噌や死ぬほど甘い豆菓子、杏の砂糖漬けなど、食べ物ばかりである。
本来の旅の目的を考えれば翔が俺に付き合っていた側なのに、いつの間にか立場が逆転していた。もちろん今回の旅は幾度となく翔に助けられたし、一緒になって物見遊山を楽しんでいる俺に文句を言うつもりは露ほどもないが。
繁華街の坂道を下り、名所旧跡を横目に天院のある華やかな広場まで古都を散策する。雨に洗われた空は青い。絶好の観光日和だ。
“天院”とはすなわち、孑宸で信仰される天学の寺院とも呼ぶべき宗教施設である。天と学問の神を祀る抄扇の天院は、独特な青緑の大理石と優雅なアーチという洗練された建築様式で有名らしい。この都市に辿り着いてすぐに参拝に訪れたため、一度訪れた場所でもあった。
打てば御利益があるとか何とか言う、鐘つき堂の鐘の音が天高く染みる。
そこでちょっとした事件があった。
天院の裏道に差し掛かったとき、万引きで追われていた子どもが正面から走ってきたのである。「捕まえてくれ!」と叫ぶ露天商の店主。俺を含め、油断しきっている通行人や観光客にそんな判断力があるはずもない。
咄嗟の反射神経を呈したのは翔だ。鬼のような形相の露天商に気をとられたか。よそ見をした万引き犯は翔の蹴り出した脚に引っ掛かって躓く。そして、勢いのまま俺の胴体に激突した。
容赦なく後方に突き飛ばされた俺は、どこかで硝子の割れる耳障りでくぐもった音を聞く。一拍遅れ、どす黒い液体が目の前に飛び散った。う、と息を呑む。まき散らされたそれが視界を赤く濁らせる。
「皓輝!?」
ぎょっと声を引き攣らせる翔。鼻腔と通路を満たす饐えた生臭さ。その赤黒いものが何であるのか嫌でも理解した。血だ。
スローモーションになった路地の景色が、瞬く間もなく加速する。憎々しげに顔を歪める子どもが、二の足を踏んで走り去った。それに続くのは正義心に駆られた通行人たち。呆然と尻餅をつく俺を残し、ばたばたと石畳に反響する足音が遠ざかっていく。
「お、おい、大丈夫か!?」動転した翔に助け起こされ、俺も眉を顰める。顔や首に粘着質な液体で濡れた感触があった。指先をべっとり染める血糊。気色悪い。
血が、と呟く翔を制止し、身体を起こした。短く息を切らし、一言。「これ、俺の血じゃないぞ……」
「え?」
「あのクソ餓鬼、よりによって血売り男の血を盗みやがって……!」
野太い悪態で空気をびりびりさせたのは、先程の露天商の店主と思しき男だ。おっさん、と呼びたくなるような髭面で恰幅のいい親父である。怒りに顔を紅潮させる彼を一瞥し、俺は己の周囲を確認した。
砕けた硝子の破片と黒っぽい血痕が美しい石畳を汚している。恐らくぶつかった拍子に子どもが盗んだ小瓶が割れ、中身が飛び散ったのだろう。
考えたくないが、それは何かの動物の血液だったようだ。しかもかなり古く、腐ったような悪臭が辺りに蔓延している。
喉元まで込み上げる不快感。どうにか腰を上げ、顔にかかった血糊を袖で拭う。何故腐乱した血液を露天商で売っていたのか、何故危険を冒してまでそれを盗んだのか甚だ疑問だ。悪趣味としか言いようがない。
店主の親父はしばらくの間、どこかへ逃亡した万引き犯を口汚く罵り、それからようやく俺たちの存在に気付いたようだった。いっそ盗賊に近い風貌の彼に刃向かう気概もなく、翔は素直に謝罪をする。小瓶が割れたのは自分のせいだ、と。
「何、あんたらに怒ってもしょうがねぇ。どっちも被害者みてぇなもんだろが。それよかあの餓鬼、捕まえたらタダじゃおかねぇ」
予想に反し、血走った目の親父が俺たちを罵倒して殴りかかるような展開にはならなかった。怒りの矛先が一点集中したあの子どもが捕縛されるのも、時間の問題だろう。追いかけていった都市民の数を考えれば、逃げ切るのはまず不可能だ。
露天商の親父は被害者としての仲間意識でも芽生えたのか、血まみれになった俺に売り物だった服一式を実に気前よく譲ってくれた。さすがにスプラッターな格好で街を歩く訳にもいかず、有り難く頂戴する。
まっさらな麻の旅装束に着替えて戻ってくる。表で待たせていた翔は、雑談をしながら髭親父の露天商を冷やかしているところだった。それは路上の移動屋台の体裁で、車輪のついた台に細々とした品が雑然と並べられている。
衣類があるからてっきり生活雑貨の店なのかと思えばそうでもないらしく、何だかよく分からない人物画や神像、古本、果ては獣皮や巨大な鳥の羽なども陳列していた。あの女巫の穹廬で見かけたがらくたコレクションに近い胡散臭さが満載だ。
「あの、さっきの血……みたいなのは何だったんですか」勇気を出して店主に訊ねてみる。彼は太い眉を持ち上げ、「血売り男の血だよ」と忌々しく答えた。まだ万引き犯に立腹していると見えた。
「何に使うんですか」
「薬だよ。世にも珍しい万能の秘薬だ。あの小瓶一本で貧乏商人なら一生食っていけるな」
どうやらとんでもなく貴重で高額なものを損失してしまったらしい。あんな腐乱血液にそんな価値があったのか。事故だったとはいえ罪悪感がちくりと刺した。親父は気にせず続ける。
「あの血を飲めば……浴びれば、だったか? どんな怪我もたちまちの内に治っちまう。跡も残らねぇ。寿命も少し延びるって話だ」
「それ、本物?」声を高くしたのは、隣で品物を物色していた翔だ。「血売り男なんて初めて聞いた」
「知らねぇのか。血売り男ってのは自分の血を流して売る男だ。あらゆる傷を癒やす摩訶不思議な血液を持っているんだと」
「摩訶不思議、ねえ……」
親父の口ぶりは都市伝説を語る者のそれだった。何だか如何わしい話である。翔は彼に白い目を向けていた。
もしその話が本当だとすれば、先程のあの血液は人間の生き血だったということになる。いくら万能薬と名高くとも、そんなものを求める者の気が知れない。不潔な献血だ。
俺、浴びたけど、怪我治っていないぞ。そんな風に俺が翔に耳打ちをしたのは、店主が別の客に気を取られたその隙だ。袖を丸めて捲り上げ、右肘に生々しく残る傷跡を覗かせる。いつぞや豻に食われた醜い咬傷だ。
黒い斑紋のような呪いの跡と後遺症は一生消えないという。血売り男の秘薬を浴びても特に変化はなかった。例の摩訶不思議な話と一致しない。
あの血は偽物なのでは、という疑惑は俺たちの胸に燻っていた罪悪感を多少なりとも和らげる。万引き犯に怒り心頭な親父にも真実を言うべきか。
躊躇っている内に、彼が俺の不自由な右腕に目を留めた。「おう坊主、その傷は?」と。
「ええと……山奥で悪霊に襲われて」
「豻か」
「そう、西山の独角獣に」
「ほう」急に彼が口元を綻ばせたのは気のせいではないだろう。ほくそ笑む、とでも言うべきか、そのあからさまな表情の変化に俺たちは顔を見合わせる。
熊の毛のように生い茂った顎髭を指でしごいていた親父は、少し目線を巡らせた後、陳列棚から何かを取った。「そんなあんたにゃこれがお勧めだよ」
差し出されるまま受け取った俺は、首を捻った。精巧な彫刻細工が施された黒檀の短い棒だ。細やかな草花の透かし彫りが網のように絡み合っている。
上下に力を込めれば、細工部分だった鞘がするりと抜けた。漆黒の鋭い刃が陽のもとに晒される。短刀だ。
ただの剣じゃない。何で出来ているか分かるな? 確信的に訊ねられ、注意深くそれを観察した。左手で黒檀の柄を握り、片刃の切っ先を上向ける。赤い房飾りが垂れた。
刃渡りは二十センチほどだろうか。血抜きの溝が穿たれた刃が角度を変える度煌く。磨き抜かれたどんな宝石よりも透き通るそれは、黒々と濡れた黒曜石を思わせた。
俺は、この短刀の禍々しさに似たものを見たことがある。脳裏に蘇った独角獣のおぞましい姿。そう、豻の額から生えていた黒い角だ。薄ら寒いものを覚えながら口を開く。
「これは……角を削った短刀?」
「正解だ」親父は満足げに首肯した。さては商売モードに切り替わったか。熱心な商人魂は感心に値する。
しかし、豻に殺されかけた客に、その角刀を勧めるとは如何なものだろう。皮肉か、それとも商人流のジョークか。訝って眉を顰めていると、翔が店主の肩を持つように説明してくれた。お守りだよ、と。
「自然霊の落とし物は、身につけると災いを避ける」ほら見ろ。そうやって指さされたのは、屋台の内壁に釘で留めつけられていた巨大な鳥の羽だ。
俺の脚の長さほどもあるその風切り羽は純白で、太陽の照り返しに金を帯びて輝いている。あまりに定形外の大きさなので、人工の飾り物かと思った。
あれは豊隆――宇宙の中心の雰王山に棲む偉大な霊鳥の羽だ、と翔は小声で言う。豊隆は雷を司る神で、その羽は身に帯びれば落雷から身を守ってくれると信じられる。滅多に手に入らぬ神鳥の羽であるから、偽物も多く出回るらしい。
「それと同じだ。雷師の羽毛が落雷を避けるよう、悪霊の角や毛皮は災いを避けるんだ」
俺は手元の短角刀に視線を落とす。つまりこれは、実用的な武器ではなくお守りとしての役割が大きいのだろう。凝った装飾が施されているのも、俺に勧められたのも納得だ。
親父は固太りの腹をさすり、「お安くしとくよ」と貪欲さを覗かせる。と言われても、それほど購買意欲はそそられない。曖昧な相槌を打って短刀を細工鞘に収める。店主に返そうと伸ばした手を遮ったのは、翔だった。
「買わないのか?」
「え?」
「いい品だぞ。本物の豻の角だ」俺の手から短角刀を受け取った翔は、鞘を抜き払って陽に翳す。「鉄を砕く、悪霊の角」
「お、よく分かるな坊主」
嬉しそうな露天商の親父。刃の裏表の光沢を確認しては「ちゃんと鉄の霊を感じる」と翔が通信販売のサクラのように感心してみせるので、俺は彼らが共謀しているのではと勘繰りたくなった。
お守りとはいえ刃物を持ち歩くのは抵抗があったし、それが豻の角だというのも気味悪い。そもそも俺には自由に使える金がない。いらない、とはっきり口に出すのはさすがに憚られ、ただ黙って首を横に振る。
その表情を一瞥した翔が、突然くたびれた布袋を投げて寄越した。両手で受け止めれば、がしゃりと重たい金属音。間違いなく、白狐さんが餞別と称して渡してくれた孑宸の硬貨が入っている。
「その金、使い切っていいぞ。小遣いとして気前よく俺たちにくれたものだからな」
いやいやと遠慮しかけた俺の逡巡を「さもなくば俺がこの金、全部たくあんに変えるぞ」という翔の台詞が容赦なく打ち破る。ここから一週間以上かかるであろう帰路、大量のぬか臭さを背負い続けるのは苦行に近い。血の気が引いた。
掌にずっしりとのし掛かる金の重量。「あの人は一体どこからこんな金を用意したんだ」と首を捻らざるを得ない。稼ぎのない世捨て人の日常の中、無限に生まれる生計資金の出所に疑問が湧いたのはこれが初めてではなかった。
しかし翔ですら知らないことを俺がこんなところで言ってもしょうがないので、渋々ながらもこの布袋の中身の有効な使い道を考える。人間界時代、金銭面だけは不自由しなかった俺は、限られた額の中で買い物をすることが苦手だった。
「これは、いくら?」
何となしに短角刀を指させば、親父は視線を巡らせて胸算用すると、「十佰で手を打とう」と足下を見てくる。そんな大金払えるはずがない。
「幾ら本物でも暴利だな。四佰でどうだ」
負けじと吹っ掛けたのは翔である。嘴を挟む隙を見つけられない俺は、成り行きを見守るほかない。
「相場ってもんがあるだろうがよ。八だ」
「五佰」剛毅な親父を前に翔は怯まない。
「七佰と銀銭五枚」
「六と銀銭十枚だ。それ以上は出せないよ」
路地で火花を散らした二人。先に目元を緩めたのは親父の方で、「いいだろう。六佰十銀で豻の角刀」と価格札を読み上げるようにして手を打った。
気付けば始まっていた値切り合戦。呆気にとられていた俺は内心慌てる。別段この短角刀にそれほど魅力を感じていた訳ではないのだ。ただ、軽率に値段を訊ねしまっただけで……。
今更買わないと言える空気でもなく、戸惑う俺に翔が笑いかけた。「丁度良かったんじゃないか。護身にもなる」
「護身……うーん」腑に落ちない俺だが、最終的には勝ち誇ったような店主に布袋を渡すに至った。
逆さまに振られ、金属音を立てながら山となる銀銭と銅銭。太い指で金を数えるその律儀さはさすがというべきか。取り決めた価格の分だけ取って、俺の手に戻された布袋には銀銭数枚と銅銭が入っているだけだった。
購入した短刀を親指で撫でる。よく磨かれた黒檀の鞘はすべすべとした石のようだ。
「いい買い物をしたな。それがお前の身を守ってくれるぞ」と翔がしきりに肩を叩いてくるのが、後悔に沈む俺の唯一の救いだった。
衝動買いはするべきではない。本日の戒めはこれで決まりだ。
天院の鐘の音が凛と響く空、例の万引き犯がいつの間にか捕らえられたらしい。哀れな子どもを引っ立てる野次と、それに続く親父の怒鳴り声を背中に、俺たちは足早に露天商の路地を後にした。
こうして、考えなしの俺のたった一言により購入することになった、豻の短角刀。二つの意味で護身になるというこの武器が俺にとってどんな意味を持つものだったのか、何故翔がやたらと嬉しそうにしていたのか、理解するのは少し先の話である。




