Ⅰ
たっぷり間が空く。俺は酸素を求めて繰り返し口を開け閉めした。言葉が、上手い切り返しが出てこない。
舞い散る埃が視界を霞ませる中、口の端に不敵を忍ばせた若者を凝視し、眉を顰め、精一杯の怪訝な表情をつくる。状況が掴めない、と全身で表現する。
息を吸うほどに穹廬の仄暗い空気、香の香りが骨まで染み込むようだった。
「あんた、さっき奴隷市にいた奴……だよな?」まず訊くべきはそこじゃないだろうと思いつつ、当たり障りなく問うてみる。
前置きなくおかしな疑問をぶつけないだけの礼儀は弁えているつもりだった。
「この店の、持ち主か何か?」
彼はひらひら手を振る。無邪気な仕草だが、どこか相手を馬鹿にしているようでもあった。
「違うよ。ここは占術師の穹廬」
「占術師?」
「そう、落ちぶれた女巫でね、今はいないみたいだけど」
日暮れの祭祀に出掛けたみたいだよ、中央広場のさ。若者が爪先を弄りながら付け加えた。すっかり寛いだような態度で、ちらりと俺に一瞥を寄越す。
「不用心だよね。誰が入るか分からないのに」
頷くほかない。口ぶりからすると、彼はこの店の占師と知り合いなのかもしれないと考えた。しかし、留守を任されているというよりは、彼自身も侵入者であるように見える。
話題の糸口を探して口籠る俺に、相手は柔らかく目を細めた。
「お連れさんは?」
「……今は、いない」
「へえ、そう」彼はほとんど興味がなさそうに愛想笑いだけする。最初から知っていた風でもあった。
お前も一人なんだな、と周囲を確認するように問えば、そうだよ、と簡素な応えが返ってくる。
さり気なくコウキがどこへ行ったのか訊こうとした矢先、物柔らかに若者が訊ねてきた。わざとらしいほどに。
「君は、どうしてここへ来たんだい。吉凶を占って欲しいようには見えないけど」
何も知らず占い屋に入ってしまったのは事故に近い。ただ、猫を……と言いかけて唾を飲み込む。真面目に答えていいものか二の足を踏み、どうにか「白い猫を追いかけてきたんだ」と続ける。
それよりも前の陽人の件は話す気になれなかったし、彼には全てお見通しな気がした。
「猫、ね」
そう繰り返した若者は奥歯でにやけを噛み殺している。悪戯を仕掛けた子どものようだ。
俺は、閃きが徐々に確信へ変わっていくのを感じる。隠しきれない含み笑いを顔中に浮かべ、彼は天体のような瞳をきらりとさせた。
「それって、本当に猫だったと思う?」
「分からない」少し息を吸い、仕方なく吐き出す。「猫じゃなかったような気がしてきた」
「だよねぇ」
彼はどこか嬉しそうに己の髪を指で梳き、弄ぶ。何かの小動物を思わせる、柔らかそうな和毛。俺は棒のように立ち尽くし、いっそ直接その口から答えを聞こうか迷い、やめる。
いくら神隠しされた先での生活が三か月経ったとはいえ、この目の前の若者と先程の仔猫をイコールで結びつけるのには抵抗があった。わざわざ自分から常識を壊しに行くほどの体力や勇気がなかったというのもある。
「目に見えている姿が全て真実だと思っているなら、それは間違いだよ」誰かの名言語録の一文を読み上げるような調子で、若者は一人悦に入っていた。俺はその姿に惹きつけられる。
よく見れば彼は目が大きく、輪郭が細く、ネコ科の肉食獣のよう美しい体躯をしている。しなやかな手足は自然に伸び、如何にも若々しい。
あのときは気にしなかったが、どこにでもある商人の杜撰な服装が不釣り合いで、似合わない。
「お前は、一体何者なんだ」
彼が奴隷商人であることを知りながら思わずそう問いかけてしまったのは、そんな違和感に駆られたためかもしれない。
若者はちらりと俺を見やり、「正確に言えば、僕は奴隷商人じゃないよ」とあたかも心を読んだかのように小さく笑う。
「一応、人身売買の組織に属してはいるけれどね、そっちは副業みたいなものなんだ。僕の本業は、情報を集めて売る仕事」
「情報屋?」俺は反射的に瞬く。
「まあ、そうやって呼ばれることもあるね」
僅かに口を開いていた俺は、しばらく経ってそこから息を逃がした。情報屋など、占術師に並ぶ怪しげな職業ワーストで何だか現実味がないが、よく考えてみれば理にかなっている。
人身売買組織はどこの国家にも属さない独立した勢力で、金さえ払えば誰が相手でも取引をすると聞く。敵味方がその都度代わる商業集団の中にいれば、身分の垣根も国境も超えた綿密な情報ネットワークが構築されているに違いない。
そうして手に入れた情報や胡散臭い噂を売って生業にしようというのも自然な発想である。果たしてそれが真っ当な仕事とも思えないが。
「コウキたちはお得意様でね、仕入れた情報を高値で買い取ってくれるんだ」
「あの男はどんな情報を買っているんだ?」
「それは教えられないよ」その質問にやたら嬉しそうな顔をする彼が癪だったが、それもそうだなと俺は大人しく引き下がった。
それにしても、情報を売り買いする職業の若者がこの俺と談笑している意図は何だろう。彼にとって俺は有益な存在とも到底思えないし、怪しい商談でも吹っかけられるのではないだろうか。
そう身構えた俺に向けられた言葉は、予想の斜め上に投げつけられた。
「君にはね、忠告をしてあげようと思ったんだよ」
「ちゅ、忠告……?」
「そう。君は、あんまりあちこち出歩かない方が身のためだってね」彼は指の爪を弄りながら微笑む。「見ていて冷や冷やするよ。危なっかしいんだから」
言葉の意図が飲み込めない。思わず訝る。「……その情報はタダなのか?」
「これはただのお節介さ」
見ず知らずの情報屋が、俺の何を知っているというのか。彼が俺に親切心を働かせる義理などないはずだ。
否、それは親切と言うよりむしろ、今までの俺の行動すべてを把握した上でどこか見下しているようだった。そういった意味では、彼は予言者を名乗るあの三光鳥に似ている。
「君はまず、敵意を煽りやすい体質だってことを自覚した方がいい」
「え?」
「例えば、自分がコウキにそっくりってことだけで周りにどれだけの誤解を生むか……理解しているかい?」
滑らかに紡がれた言葉を、初めは上手く飲み込めなかった。誤解って、何の話だ、と返せば彼は呆れる。そこには冷ややかな軽蔑が隠れていた。「あのさぁ……」と。
「どうして陽人に追い掛けられたのか、まだ分からないの?」
「……ええと」分からない。文脈が読めない俺に、答えが投げつけられる。
「君は間違えられたんだよ。あんまりにもコウキと似ているから」
沈黙。数秒経て、ああ……気の抜けた声が喉を掠った。安南港の船着き場からずっと引き摺っていた疑問が一気に氷解する。
スラギダ王国の褐色肌の船乗りたち。身に覚えのない怒りを彼らから向けられて殺されかけたのは――そういうことだったのか。
確かに遠目から見れば、俺とコウキの区別は難しいはずだ。その答えは驚くほどすとんと収まると共に、あっさり明かされた真相に拍子抜けする。
「人違いだったのか……道理で」
納得である。それが分かっていたから、彼は俺を助けてくれたのだろうか。
同時に、率直な疑問が芽生えた。あれほどの殺意を向けられるなんて、コウキという男は陽人たちから一体どんな恨みを買ったのだろう? と。
光を探す手助けを申し出てくれた礼儀正しい好青年が、誰かから命を狙われているというのは意外だった。
「ま、愉快な人違いで済めばいいさ」若者は続ける。「でも、一歩間違えれば死ぬところだ。余計な誤解を生んだのは今回が初めてじゃないだろう?」
説教じみたその口調は煩わしいが、言っていることは決して間違いではない。
俺の記憶が正しければこの手の冤罪事件は二度目。どちらも誤解を解けず、命からがら逃げ出した。
「……そういった俺に関する情報も、どこかで仕入れたのか?」
見ず知らずの若者に自分のことを言い当てられるというのはどうにも薄気味悪い。まあね、と彼は肩を竦め、それ以上は企業秘密のシャッターを閉めるばかり。俺は肩を落とし、情報屋への詮索は無駄だと悟る。
「出歩くな、という注文は受け付けられないが、気を付けるよ」俺は釈然としない気持ちのまま、彼の忠告の正当さを認めた。
釈然としないのは、この世のあらゆることに通じているかのように振る舞うこの若者そのものの不可解さでもあった。どうして彼が俺にお節介など働かせようと思ったのか俺には分からない。
「なあ、お前は、どうして俺を助けてくれたんだ」それは忠告をくれたという意味でもあり、ここまで連れてきてくれたという意味でもある。
そう、彼は俺に用があってこんな場所にまで導いたのではないか? 脳裏にあの意味ありげな目をした仔猫の顔が過る。丁度それが重なるところで、目の前の若者がくしゃりと笑った。
「……君は、コウキにとって大事な人だからね」
「……」
「お得意様の要人を丁寧にもてなせば、いいことがあるかもしれないだろ?」
俺は相槌も打てない。はっきりとは分からなかったが、彼の言葉は胸にしっくり馴染まなかった。互いに距離を開けすぎて、会話のボールが届いていない。そんな感覚がある。
眉を顰め、気まずい沈黙をやり過ごす。初めからこの忠告をするため俺をここまで導いたのか、それとも成行きでこの話題になったのか、掴みどころのない彼を前に判断しかねた。
「……じゃあ、ひとつ訊いてもいいか?」意を決した俺は、情報屋に挑むことにする。
「どうぞ」
「コウキは……あの男は、何故陽人たちに追われるんだ? あの連中は、どう見ても命を狙っているようだったが」
そう疑問を口にすれば、椅子に腰かけたままの彼は、それほど驚いた様子もなくゆっくり瞬きして口角を上げた。
ああ、そんなことか、と呟いたらしかった。まるで手品師が種明かしをするときのように諸手を広げ、意味ありげな笑みを深める。その余裕綽々な態度は彼の見かけの年齢と全くそぐわないように思われた。
「コウキが陽人から嫌われているのはねぇ……彼が“救世主”だからだよ」




