Ⅵ
一難去ってまた一難、というべきか。心の平穏はなかなか訪れそうにない。
胸骨を圧迫する激しい鼓動。俺はどうにか勇気を振り絞る。口を覆ったまま恐る恐る、眼球を下向きに動かした。
俺の踝にじゃれつく、真っ白くて暖かい毛玉の正体を見るために。
「……ね……ねこ?」
直後、乾いた喉から、己のものとは思えぬほど弱々しい声が漏れる。その単語がもたらす平和さに、全身の筋肉が一気に脱力した。あんなに焦っていた自分が阿呆らしい。猫一匹に何という過剰反応だ。
それは、動物のあどけなさを体現化したような雄の仔猫だった。純白の毛並みは逆立てた様子もなく、柔らかい。飼い猫だろうか。
俺の視線に気付いた白い毛玉は、愛くるしくこちらを見上げる。警戒心や敵意は微塵も窺えない。作り物のような瞳にどきりとした。
何だ猫か、と溜飲を下げると同時に、俺は別の意味で喉の奥を引き攣らせる。動物に関する嫌な思い出が蘇ったのだ。
どんなに大人しい愛玩動物も、この俺を前にすると野生の本能を剥き出しにして攻撃してくる。筋肉より幾分ましとはいえ、猫だって怖い。
しかし、当の足元の仔猫は心地よさそうに喉を鳴らしていた。やけに人懐っこい。幼さゆえの無邪気さか。何度も何度もしなやかな身体を脚の間に滑りこませてくるので、その度に俺は不格好な足踏みをしなければならなかった。
「や、やめろ」
足首に擦り付けられる猫の横腹。生き物の暖かな体温に戸惑う。靴に押し付けられる小さな頭蓋も、ぬいぐるみのような足も、短い尻尾も、俺にとっては恐怖でしかない。
次の瞬間、仔猫は素早く身を翻し、あっという間に中庭へと姿を消す。
別段、それを追うつもりなどない。逃げられたなら放って置けばいいし、冷静に考えれば今は仔猫に構っている場合ではなかった。
また、いつあの凶暴な陽人たちが戻ってくるか知れない。もっと安全な場所を探そうと路地の気配を窺った俺は、ぎょっとして肝を冷やす。
門の外で誰かが声を荒げたのだ。それも、孑宸語ではない遠い国の言葉が。
咄嗟に俺は、中庭の隅の樹陰に駆け込んだ。我ながら相当怪しい。陽人とこの屋敷の者に見つからないことを神に祈るしかない。
腰と膝を折って身を隠していると、いつの間にか傍には、あの仔猫が前脚を揃えて座っていた。
まるで大丈夫だと言い聞かせるように俺の手を舐める。俺の見間違いでなければ、その顔は確かに笑み、今にも人の言葉を喋りだしそうな理性が潜んでいた。
「――……」
運が俺の味方をした。船乗りたちの話し声が徐々に聞こえなくなる。通り過ぎてくれたようだ。
途端に真っ白い毛玉はにゃあ、とか、にぃ、とか、とにかく猫らしい鳴き声を漏らし、いきなり垂直に跳び上がる。肩を跳ねさせるも、仔猫が飛びついたのは俺ではなく樹の幹だ。
あれよあれよという間に、白いふわふわの塊は器用にも庭木の上まで登り、外壁である塀にひらりと飛び移った。そして俺に向かって甘やかに鳴く。
まるで付いて来い、と言っているかのようだった。
まさか、考えすぎだろうと首を振るが、毛玉は一向に俺を呼ぶのをやめない。それどころかだんだんその顔や声に不機嫌な色を覗かせ始め、今にも飛びかからんと毛をぱっと逆立ててはこちらを覗き込むのだ。
俺はかなり頭を悩ませ、結局、庭木の太い枝に手を掛けることに決める。
ぐずぐずしているとこの屋敷の主人に見つかってしまうだろう。面倒ごとは避けたいし、あの陽人たちのしつこさを思えば一か所に留まるのは賢い逃げ方ではない。
俺は両腕に力を込め、煉瓦を積んだ塀を苦労してよじ登った。仔猫は崩れた場所を選んで路地道に飛び降り、こちらを振り返った。じっと有無を言わさぬ表情で。
ああ、このまま猫の国にでも連れて行かれたら困るな、としょうもないことを考える。
仕方がない。ため息混じりに塀から飛び降りた俺は、陽人の気配を気にしつつ、さっと走り出した仔猫を追い掛けたのだった。
***
その白い猫の姿を見失ったのは、西門の外で開催されていた自由市の手前である。
はっきり言って、好きでわざわざこんな場所まで来た訳ではない。市内を走る最中、俺は何度もこんな幼稚なことはやめようと足を止めかけた。猫に付いて行く者など、幼い子どもか平凡な女子高生くらいのものだ。
しかし、その度に先導する毛玉が身を翻しては爪を剥き、それを許してくれなかったのである。お陰で俺の履物や着物の裾には引っ掻き傷が無数に出来ていた。歩くと沁みるように痛むので、皮膚までやられたのかもしれない。
俺は乱れた呼吸を整え、見上げるほど背の高い半円状の石門を通る。そしてやや躊躇いながら緩やかな階段を下りていった。
そこは、安居の都市をぐるりと囲う市郭の外側である。さすがの陽人ももう追って来るまい。
「……」
街道沿いの比較的平坦な野原。テントにも似た移動式の粗末な穹廬が点々と建ち、寂しい商売をしている。自由市と呼ばれるものだ。
“自由”と言えば聞こえはいいかもしれない。が、要するにここは、都邑の市壁内での営業許可を取れなかった者どもが寄せ集められた市場である。
蚤の市のように古物を扱う者、貧しい行商人。中には得体の知れない怪しい店や春をひさぐ娼家も並んでいる。いかがわしい看板を持つ女が澱んだ目でこちらを追っていた。長居するのは得策ではないだろう。
日没が近いためか、市場内はがらがらに空いて人気がない。客はもちろん、ほとんどの商人でさえ夕刻の祭祀に出掛けているらしい。地面に布を敷いただけの簡素な店は、売り物が並べられたままほったらかしにされている。
夕闇が足を忍ばせて近付いて来ていた。金色に薄まった空や雲は、ゆっくりと燃えるような橙に染まっていく。絵画の世界に迷い込んだような気分になる。
街に戻ろうか、どうしようか……逡巡しながらも探しているのは、あの不思議な仔猫の姿である。あれが、俺をこんなところまで連れてきた理由が知りたかったのだ。
馬鹿にされても構わない。しかし俺は、どうにもあの猫が逃げるのを手助けしてくれたような気がしてならなかった。少なくともあれを追い続けていた間、一度も陽人と遭遇しなかったのは紛れもない事実。ただの勘のいい野良猫とは思えなかった。
じゃあ一体何なのだと訊かれると上手く答えられない俺は、ほとんど何も考えず、あの仔猫の尾が見えたような気がしたというだけの理由で市場の奥の方にあった小さな穹廬の中を覗き込む。
途端に香木を焚く甘い匂いが、鼻腔を強烈に刺激した。思わずげほげほ咽る。
それは、浅紫色の帆布が掛けられた一軒の幕屋だった。天井は丸く、思いの外広い。何かを売る店だろうか。鼻を押さえながらそっと入り口をくぐると、煙に霞む幕内はひどく雑然と散らかっている。
中央には凝った装飾の台の上に白い砂が敷かれ、奥には誰も座っていない椅子がひとつ。隣には老朽化した木の祭壇があり、観音開きの箱の中、面妖な獣神像が鎮座していた。
更に隅の方に目を向ける。そこにはがらくたとしか形容できない――いや、控えめに言って不可解な置物や骨董品に見えなくもない雑貨雑具が山と積み上げられていた。
下らないがらくた屋と斬り捨てるにはやけに内装が美しく、胡乱な雰囲気が漂う。上質な香木がふんだんに焚かれているのも気になった。
足音を忍ばせて穹廬の中を見回す俺。どこを探しても、店の人どころか猫の影すら見えない。誰もいないのだ。見間違いだっただろうか。
とにかく香球から漂う煙の匂いに耐え兼ね、早々に踵を返した俺は、入口の傍に釣り下がっている鳥籠を目にしてはっと息を飲み込んだ。足が止まる。
竹で組まれた球形の鳥籠――その中に、一羽の尾の長い小鳥が閉じ込められていたのだ。最早俺にとっては見慣れた、凛とした佇まいで。
「さ、三光鳥……」
思わず、張り詰めた糸が緩む。緊張に緊張が重なった末、知り合いと会えたという安堵がじわりと胸に込み上げた。
小さな檻の中、その鳥は黒々と濡れた瞳で俺を見やる。黒い背に白い腹、目輪と嘴は鮮やかな碧瑠璃色。紛れもない、あの占師を名乗る馴染みの三光鳥だ。
「……お前は、本当に神出鬼没だな」
そう漏らす己の声に歓喜のようなものが滲んでいるのも気のせいではないだろう。見失っていた道標を見つけた気分である。俺は頭を上げて鳥籠を覗いた。
中に取り付けられた止まり木を足で掴み、三光鳥は小刻みに首を動かす。何も言わずに。
「それにしても、どうしてこんなところに? まさか人に捕まったのか?」
俺は周囲に気を配り、少しばかり声音を低くした。この誇り高い鳥に、自ら籠に入る趣味があるとは到底思えない。かといってそう簡単に捕まって飼われる間抜けだとも信じられなかった。
とにかく会話をしようと顔を近づけるのに、三光鳥は神経質に身体を右へ左へ揺らすだけ。何だか落ち着きがない。ふっと胸騒ぎを覚える。それがまるで、外敵を警戒する野生動物の仕草そのものだったからだ。
見れば見るほどに違和感は膨らんでいく。まるで“ただの動物”に成り下がったかのような――あの、もの言う理性的で尊大な面差しはどこにいってしまったのだろう?
おい、と短く呼びかけても、三光鳥が応える気配はない。胸の奥がすっと冷えていく不安感。嫌な予感。
微かな焦りを交えてもう一度口を開きかけた俺の背後から、いきなり笑い声が響いた。薄暗い穹廬の中で、しゃぼん玉が音を立てて弾けたようだった。
「君って、鳥に話しかける趣味があるの?」
あまりに唐突で、背中から殴られたような衝撃を錯覚する。瞬時に振り返る。ぶれる視界に、一人の粗末な格好をした若者の姿が映った。誰もいなかったはずの奥の椅子、ぞんざいに脚を組んで座っている。
一体、いつの間に――その顔が記憶に新しいことに気付き、俺は再度驚いて頭を混乱させた。
「やあ、また会ったね」と愛らしく片目を瞑る。背もたれに身体を投げ出している彼が、何者であるか思い出すのにそれほど時間はかからなかった。
奴隷市で、コウキと一緒にいたあの白髪の若者である。
「な……」
いつからここに。どうしてここに。一気に溢れ出た疑問が、喉元でせめぎ合って声にならない。反射的に入り口側の三光鳥を確認し、奥の椅子に視線を戻し、状況が掴めない俺は面白いくらい挙動不審になった。
彼はこの空間のどこから現われたのだ。まるで初めからそこに座っていたかのように自然な態度。
俺がうっかり気付かなかっただけで、最初からいたのだろうか? この胡乱な穹廬の中に。
首を振る。いや、そんなはずはない、と。確かに俺が覗いたとき、誰かがいる気配は感じられなかった。いたとすれば籠に閉じ込められた三光鳥と、あの白い仔猫くらいのもので――。
まさか、と閃いた可能性に喉を引き攣らせる。俺の視線を奪ったのは、彼の頭部だった。
今の彼は頭の布を外しており、白い髪があちこちに飛び跳ねている。その柔らかな癖毛が、突然――そう、認めてしまえば、毛並みに見えた。奔放さをそのまま表したかのような軽やかな毛先。言うまでもなく既視感がある。
こちらが答えに辿り着くよりも一歩早く、彼は小動物を思わせる仕草で首を窄め、悪戯っぽく笑った。
「……うふ、今度は間違えなかったよ?」と。




