Ⅴ
遅い昼餉である。
俺たちは市内の南通りにある、いわゆる大衆食堂とも呼ぶべき安い飯店で済ませた。
敢えてその店に入った理由などない。通り沿いには庶民が食事をする飲食店など無数にあり、空腹と疲労でふらふらの俺たちに選り好みする気力などなかった。
とはいえ、本日は年に一度の火陽。俺たちは取って付けたようにこの国の夏至の風習に則った食事を注文する。つまり、収穫されたばかりの新麦を使った麺料理だ。
南方の郷土料理だという、様々な薬味と肉味噌を混ぜ込んだ汁そばを啜る。香辛料を使った刺激的な味つけがこの地域の伝統らしい。熱々の汁そばは丼の底が真っ赤になるほど唐辛子がきいており、翔は盛大に咳き込んでは完食するのに苦労していた。
「皓輝が、辛いものに強いとは、知らなかった」
店を出ながら、赤く染まった舌をはたはたと手で扇いで冷ます翔。「白狐さんの作る料理は甘口だものなぁ」と俺は涼しく大通りの喧騒を眺めた。
どこもかしこも青紫の吹き流しが風に靡き、祭に浮き立つ海港都市を鮮やかに飾っている。
「辛い料理、好きなのか?」
「まあな。……これからどうする?」
空を仰げば、薄水色に広がる晴天は、西の裾から黄昏の金に透けつつあった。都市の外郭よりもずっと遠く、青く霞んだ山の稜線が鈍く光っている。夏と南方を保護する季節神、祝融が鎮座すると信じられる、岩の活火山だ。
しかしさすが最も昼が長い日というべきか、太陽がその先に落ちるまではもうしばらくかかりそうである。
火陽の催し物もまだ続くのだろう。賑やかな人通りの土煙も未だに途切れない。どこからか流れる楽器の音色に、からから、からから、風に踊る鹿角細工が拍子を取った。
俺は疲れ切っている。失意と緊張による精神的疲労だ。歩き回るのも億劫で、今は頭を空にしてどこかで休みたい。どこか、一人になれる場所で。
一方の翔は元気が有り余っているらしい。空気の匂いを嗅ぐように鼻先を上に向けていた。
「これから、夕刻の祭祀が始まるんだ」人の流れを追う碧眼が大路の先へ向かう。「火陽は日の出、正午、日の入りにそれぞれ祝融神を奉ずる儀式をやる……火の神だから、でっかく篝火を焚いてね。まあ厳かと言うより派手な祭典だよ」
その光景を目に浮かべているのか、口元を綻ばせる翔は幸せそうだ。
人生のほとんどを辺鄙な山岳に引き籠っていた世捨て人にとって、活気ある都会や華やかな祝祭の風景は珍しいものばかりに違いない。別世界からやって来た俺以上にそわそわ胸を高鳴らせている。
滅多に外出しない保護者のことを思えば、今回の旅の同行を進んで申し出た翔が悪気のない期待を抱いていたことは容易に想像出来た。そして、俺に気を利かせてそれを表に出さないよう振る舞っていたことも。
「夕暮れの祭祀の前には、余興として中央の広場で芝居をやるんだと。古代の英雄譚に歌や踊りを付けた演劇で、火陽のときにだけ上演される怪物退治とか、有名な役者が……」
「行きたいのか?」
すかさず問いかけると、翔ははっとしてばつが悪そうに顔を伏せる。俺が気分を害したと思ったらしい。眉を下げ、小声で「あの、ごめん」と言う。
「どうして謝るんだ」
「いや……夏至祭を楽しんでる場合じゃなかったよな。光が見つからなかったのに」
「気遣いは無用だよ」俺は街路灯に寄り掛かった。でも、と続けようとする翔を手で遮る。はっきり言って、その憂慮は全くの見当違いなのだ。
確かに光が奴隷市にいなかったことは残念ではあったが、予想出来たことでもあったし、何より俺は妹が奴隷になろうがどんな目に遭おうが、それに砕く殊勝な心など端から持ち合わせていないのである。
だから、翔が思いのまま火陽を楽しんだところで、不謹慎だ無分別だと罵るつもりもなかった。
言葉を変えて伝えれば、「それはそれで問題がある」と渋い顔をされた。こんな場所で説教されたい気分でもない俺はひらひら手を振り、「祭祀に行きたいなら行っていいぞ」とあしらう。
「皓輝は、行かないのか?」
「うーん……あまり気が乗らない、かな」
一人になりたいんだ、と零せば、翔は複雑な表情を浮かべた。ううんと唸り、腕を組んで葛藤している。
どうやらこの俺を一人で街中に放り出すのに躊躇いがあるらしい。もしくは、まだ光の件で気を病んでいるのか。全く、そんな心配は必要ないと言うのに。
いつまでもおんぶにだっこ、という状況では俺も不甲斐がない。俺のことは気にせず楽しんで来いよ、大丈夫だよと説得して背中を押し、ようやく翔は頷いてくれた。
「一緒に行きたかったのに」と漏らした声は聞かなかったことにする。可愛い女の子であれば喜んで付いて行ったかもしれないが。
「単身で祭に乗り込むとか俺すごく寂しい奴みたいじゃん……」
「お前なら出来るさ。で、どこで落ち合おうか?」
「じゃあ日没後、西門の手前で待ち合わせしよう。……くれぐれも門の外に出るなよ。日が暮れると市門が全部閉じられて締め出されるからな」
分かった、と俺は東西の方角を確認しながら返す。ゆったりと下る太陽が、安居の街並みを淡い黄金に照らしていた。道端で焚かれる香木が甘い煙を撒き散らす。
夕方の散光が差し込む幾筋もの大通り、人々の軽い足取りはこの街で最も大きな広場に集まっていった。俺たちがこうして話している内にも、着飾った子供たちが競うようにぱたぱたと横切っていく。賑やかな笑い声が遠ざかる。
俺は周囲を見回し、その反対方向の石橋に向かうことにした。流れゆく雑踏の合間から、七星には用心しろよー、という間延びした声が聞こえる。
俺は後ろ手を振り、翔と別れて歩き出した。
***
穏やかな海風の吹く海港地区。弓なりに沿った大きな入り江、そこから張り出した石造りの船着き場はさすがに閑散としている。停泊している船のほとんどは貿易船だろうか。木造の風帆船は帆も張られず、穏やかな波音を船底から反響させている。
都市安居の南側一帯は安南湾と呼ばれる湾岸とそれに連なる商館が立ち並び、夕省の諸都邑では見られない独特な景色が広がっていた。
潮の匂いをたっぷり含んだ大気。暗くて深い群青の海原。そして、船乗りと思われる屈強な男たち。
別段ここに来て何かしようという訳ではない。ただ、一人になりたかった。いや、もしかすると海が見たかったのかもしれない。
遥か先まで望める波止場に立てば、この世界で初めて見る水平線に心が安らいだ。雄大な海浪のうねる音が、心にこびり付いたしこりを溶かしていく。鴎の鳴き声。目を閉じて潮風を胸いっぱいに吸い込む。青緑の海の匂いが肺の隅々まで広がった。
先程から俺の心を捉えて離さないのは――あの男、コウキの存在だった。思い出す度に心が掻き乱される。頭を空にしようと追い払っても、脳裏に焼き付いたその姿は再び浮き上がってくるのだ。まるで砂浜に打ち寄せる波のように。
彼に対してどういった感情を抱くべきか、俺にはまだ分からない。ただ彼の折り目正しい佇まいは理知的で、人助けに手を惜しまない優しさの中にはこの世の正義を背負っているような重みが潜んでいた。
そしてそう、それはとても凡庸だ。例えば白狐さんが持つような人ならざる特別な魅力ではなく──どこにでもありふれた義憤を体現したような、正道を貫く平凡な強さを芯に持った男だった。
何故そう思ったのか、答えは簡単に出せない。今はただ何もかも忘れ、この茫漠とした海の音色に身を委ねて居たかった。
周囲にはほとんど人がおらず、広場で執り行われているであろう祭祀の喧騒や音楽が嘘のように静かだ。時折水夫と思しき人影が通りかかっても、間抜けな顔で海を眺める観光客のことなど気にも留めないのだろう。
そんなことを考えていると、港の穏やかな静寂がにわかに妨害された。やや離れた桟橋から、賑やかしい大柄な集団がどたどたとやって来たからだ。
それは今日の仕事を終えた船乗りたちと思われる男たちだった。これから酒でも飲みに行こうといった足取りの、体格の良い荒くれ者たち。冗談を飛ばし笑い合う様は別段他と変わりない。
が、その皮膚の色が孑宸のものではなかった。つまり、南の太陽に焼かれた小麦の褐色肌である。
「……」
陽人だ、と俺は心の中で呟く。僅かな興奮と好奇心が心を浮かせた。
安居で見られるかもしれないと翔が語っていた外国人、本当に目にすることが出来るとは。無意識に爪先立ちしては、つい野次馬のような真似をしてしまう。
彼らの顔立ちは揃いも揃って鼻が大きく無骨で、皇国民より一回りも二回りも背が高いように思われた。がっしりと頑丈そうな四肢は船に乗る者だからなのか、遠目から見ても威圧感で空気が震える褐色の一団だ。
陽人たちはそのまま、商館や高級な宿泊施設が並ぶ陽人街の方へ歩き去るはずだった。間違いなく、本人たちもそのつもりだった。――この俺という存在に気付くまでは。
ぼんやり見つめている間に、大広場へと向かうかと思われた彼らの足並みは、予想に反してばらばらに速度を落とし始める。
一人が止まればまた後ろの歩みが遅くなる、と言った具合で、やがて彼らは全員その場に立ち止まった。ゆったりとした波音と潮風が頬を撫でる。
「……え?」
俺はぞわりと不穏を感じて委縮した。その七人か、八人ほどの外国人の視線が一直線にこちらを貫いてきたのだ。一人一人の顔は遠くて識別できないが、やけに無表情で、少なくとも親しげな目付きでないことは分かる。
恐る恐る背後を確認した俺は、己が今波止場に立っていることを思い出した。後方にはただ、陽光を反射させる穏やかな海面しかない。さっと前へ向き直る。彼らの目に映っているのが誰なのか考えるまでもなかった。
俺は必死に首を捻る。何か陽人の気に障ることでもしていただろうか? まずいことでもあったか? と。
しかしそれ以上困惑する暇など許されなかった。突然その厳つい男たちが、一斉に何事かを喚きながら走り出したからだ。こちらへ向かって。
具体的に何を吐き出したのかは聞き取れない。恐らく西大陸の、スラギダ王国の言葉なのだろう。意味は分からなくてもそこに込められた感情は読み取れた。敵意だ。
俺は仰天し、文字通り飛び上がる。慌てて周囲を見回すも、近くに他の人影はない。
勢い任せに迫りくる陽人の船乗り、瞬時に浮かんだ選択肢は二つほど。俺の頭に迷いが生じる。突如、屈強な男の内の一人が、傍に積んであった木材の束を担いで投げつけてきた。死ねだとか殺すだとか、そういった口汚い罵り文句を添えて。
逃げ足を踏む靴先で派手に砕けた木材を見て、俺は改めて命の危険を感じた。他の選択肢は消滅した。逃げなくては。速く!
三十六計逃げるに如かず。俺は身を屈めるように地面を踏み切り、全速力で蹴った。体を捩っては男たちの腕を掻い潜り、素早くすり抜ければ後はもう走るだけである。
心臓がばくばくと跳ね上がった。網から逃れる魚の気分だった。
男たちの叫びを背中に聞きながら、広々とした住宅街の一角を突っ切る。金持ちが住まう市街なのだろう。豪華な屋敷が道の両端に続くが、無論観光などしている余裕はない。
途中、転びそうになりながら汚い路地道に入ったことで、俺と陽人の船乗りたちの追いかけっこが始まった。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた狭い通りを抜け、幾つかの広場を横切り、再び迷路のような横道に飛び込んでは闇雲に走る。多対一とはいかんせん卑怯ではないだろうか。
すぐに撒けるだろうという俺の考えは甘かったらしい。彼らの執念は予想よりも遥かに深く、幾手にも別れた陽人たちはあちらからもこちらからも俺を追い続けた。一体どんな理由があって、どんな感情が彼らをそうさせるのか分からない。
ただ、口々に罵詈雑言を喚きながら執拗に俺を探し回るその集団は冷静さに欠け、もし捕まれば即刻皮を剥がされて殺されるだろうなという確信だけはあった。十中八九冤罪の予感がする。
が、頭に血が上った上、言語的コミュニケーションの取れない筋肉集団を相手に渡り合う度胸など俺にはない。ただ今は、形振り構わず逃げるしかないのだ。
息が切れる。辻の真ん中に飛び出したところで、通行人に怪訝な顔を向けられた。どうやら祭祀をしている中央広場の近くまで来てしまったらしい。
迷惑は承知の上だ。「どいて、どいて」と、密集した老若男女の人混みをよろめきながら進み、喧々たる祭り騒ぎに紛れて別の小路を目指した。非難の目に小声で謝る。
横目に映った大広場には巨大な木組みの舞台が設置され、晴れ晴れしい衣装に身を包んだ大勢の役者が立ち回りを演じている真っ最中。耳慣れない弦楽器や銅鑼の音色が鼓膜を打つ。わあ、と舞台の前列から歓声が上がった。
「かける……っ」
咄嗟に首を伸ばすも、広場や通りを端から端まで埋め尽くす見物客の数はあまりに多く、相方の姿を見つけることなど不可能だ。混雑を掻き分ける陽人の姿が目に入り、俺は泡を食う。慌てて今度は石段を駆け上って商店街へと逃げていった。
いよいよ悲鳴を上げる筋肉や呼吸器が限界を訴え始める。人数的にも体力的にも不利を悟った俺は、背後に迫る陽人にちらりと視線を送り、海産物の並ぶ店を曲がり、左手側の路地へ素早く身を滑り込ませたのだった。
石造りの商店と商店の隙間の細道。挟み撃ちにでもされたら一貫の終わりである。一か八かの賭けだ。飛び跳ねる心臓を抱え、複雑に入り組んだ小路を幾つも曲がり、あるところで意を決して段差を飛び越える。そこはどこかの民家の門の中のようだった。
心の中で門の神やこの屋敷の住民に詫びながら、狭い通路を通り、突き当たりの影壁を曲がって前庭に転がり込む。そして灰色の円柱にぴたりと背中をつけ、息を殺した。
「……」
ばたばた、と荒々しい足音が大きくなり、すぐに遠ざかっていく。しばらく呼吸を止めれば、その怒鳴り声すら聞こえなくなった。……ひとまず、無事にやり過ごしたらしい。
俺は、ほ、というよりぜえぜえというみっともない喘鳴を吐き出す。舌根に鉄の苦味が広がった。喉が痛い。急に立ち止まったために激しい動悸と震えに襲われる。喘ぐように肩を上下させ、俺はしばらく壁際で胸を掴んでいた。
一体何だというのだ。あの男たちは何が目的なんだ。考えれば考えるほどに混乱し、まともに頭が働かない。足から崩れそうになり、落ち着かねばと石畳を踏み締める。
しかし、他人の住居に不法侵入したのが悪かったのだろう。門神の怒りを買ったか、俺には一息つく暇も与えられなかった。
男たちの行方を探ろうと首を回していると、ふと足元から違和感が駆け上がる。一瞬間を置き、俺は情けない声を出しかけた。咄嗟に口を押えて声を飲み込み、硬直。
――痙攣する右足首に柔らかくて暖かいものが当たり、それがもぞりもぞりと蠢いていたのである。




