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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第二話 世捨て人
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 俺の意識は長い間、暗闇の中にあった。光の届かない、暗澹と泥で濁った水底に沈んでいるかのように。

 あまりの暗さに呼吸すら詰まって苦しい。闇から抜け出そうとすればするほど苦しくなる。俺は、重たい瞼を押し上げるよう無理矢理開いた。


 途端に明るい光が飛び込んでくる。眩しくも感じるそれは、久し振りに見る太陽の光だった。俺は小さく息を吐く。涙が滲んでしばらく焦点が合わない。

 剥き出しの梁がある天井が映る。格子に薄紙の張られた窓があった。そして、反対側には長椅子と奇妙に低い机、円座がある。どれも飾り気がなく、骨董品や古物のようだった。斜めに区切られた陰の中、それらは物静かに鎮座している。

 広くもないが、狭くもない。見たこともない部屋に俺はいた。


「……」


 音が聞こえない。静寂が耳に張り付いたかのように。己が布団の上で身じろぐ衣擦れも、関節が痛んだ拍子の呻き声も、埃っぽい壁や床に吸収されていく。

 俺は瞬きをした。意識がはっきりしてくるにつれ、徐々に自分の身体の形も思い出す。

 仰向けに寝かされているらしい。両手を交互に見て、そこに綿の包帯が巻かれていることに遅れて気づいた。手作りなのか、鋏か何かで裁断した跡がそこかしこにある。

 一体誰がこんなものを。丁寧に留め付けられた腕の包帯を撫でつけていた俺は、枕元に散らばる盥や手拭いといった看病の痕跡に呆気にとられ、そうしてようやく誰かが俺の傍らに座っていることに気が付いた。

 強張った首をのろのろと回し、ゆっくりとそちらを見上げる。


「──……」


 そこに胡坐をかいていたのは、俺と同い年かそれ位の、若い少年だった。若者と呼んだ方が、より正確かもしれない。何にせよ、見知らぬ人間だ。

 子どもと大人の中間にあるあどけない幼さが頬の辺りに残る。肌は健康的に焼けている。無造作に襟首の辺りで切られた髪は如何にも若々しく、そして快活そうに、太陽の光できらきら透き通った。

 彼が俺を手当てしてくれたのかもしれない。若者は俺が目覚めたことに気付かず、真剣に、というよりぼんやりと窓から差し込む淡い陽光を眺めている。

 彼には、何が視えているのだろう。

 その大人びたような憂い漂う表情から何故か目を離せなくなっていると、若者はようやく俺の視線に気が付いたらしかった。


「あれ、何だ。起きていたのか」


 にこりと緩んだ顔は、こちらの油断を誘うほど親しげだ。正面から見据えれば、彼の瞳の色は薄い。白目の端が陽に灼けて濁り、近付いた彼からは外の匂いがする。

 俺は咄嗟に何と言っていいか分からず、口を開けたまま瞬きだけを繰り返す。彼が何者なのか、彼の目に自分がどう映っているのか見当もつかない。

 若者は俺の困惑など意に介さず、こちらの顔を無遠慮に覗き込む。


「具合はどうだい」


「……」上手く答えられない。いいとも悪いとも思えなかった。


 ただ全身に残った青痣や、包帯で覆われた箇所は動かさずとも疼痛が走り、何か言わなければならない焦燥感に急かされた俺は、「痛い」とだけどうにか声に出す。言葉さえも怪我をしたようぎこちなかった。

 怪我を負った理由は上手く思い出せない。よく考えてみれば思い出せるような気もしたが、考えないことにした。

 部屋の中は暖かな光に満ちている。直射日光こそなくとも、障子越しの淡い陽光が幼い頃の夢のような穏やかなぬくもりを生んでいた。明るみに溶け、輪郭がぼやけて見える。


(ヨク)と奴隷狩りに襲われたんだってね」不明な単語を並べる彼は、どこか楽しそうだ。目尻に笑い皺が寄る。「災難だったなぁ」


「はあ」


「でも、生きていて良かった」


 ぼんやりと放心状態だった頭が不意に覚醒し始める。生きている。俺は懸命に上体を起こす。掛け布団が胸に押し出され、分厚い皺が寄った。


「夜の河辺には近付くのは危ない。悪霊がいるから」


 彼は、俺の内心で呈した疑問には気付かなかったのか、何やら忠告じみたことを口走りながら傍に転がっていた木の箱をがさがさ漁っている。

 僅かに頭を擡げれば、そこには包帯や薬瓶などが詰められているらしい。


「俺を、助けてくれたのか?」


 状況が分からないまま、言葉を紡ぐ。初対面の彼に助けられた記憶はないのだが、この身体に巻かれた包帯から鑑みるに、そう言うしかなかった。

 若者は気軽な様子で頷く。


「うん」


「どうして」


「だってさ、怪我をして気を失っている人がいたら、普通助けるだろ?」


 分からない、と思わず口をついたが、心中では確かにと答えていた。考えていることと実際に出る言葉がちぐはぐで、俺は思考のバランスを司る脊髄か何かが失われてしまったように錯覚した。

 救急車は呼ぶかも、と咄嗟に小声で付け足せば、「キュウキュウシャ? キュウキュウシャって何だ」と恐ろしいことを彼が言いだすので、もう俺は口を噤むほかない。


 何が何だかさっぱりだ。

 若者は時代や文化が特定しにくい見た目をしていた。緩い衣服の布地は粗末で擦り切れ、もう何年も繕いながら大事に着てきたものだと分かる。腰回りを帯で留め、耳には木のビーズで出来た耳輪を付けている。

 訊ねたいことはたくさんあったが、言葉が浮かばない。そも、救急車を知らない人間相手に何かを問い、意義のある答えが返ってくるのかも疑問だった。

 彼は構わず、手に包帯の切れ端を取る。


「お前はさ、蜮の毒気に中ったんだよ」


「ヨク?」


 おっかなびっくり眉を顰めれば、若者はやや嬉しそうに目を大きくした。


「狐みたいな、川べりの悪霊。水底の泥を吐いて、毒気に中った人は病気になる。皓輝は運悪く毒を被ったんだって。覚えていない? ずっと寝込んでいたんだよ」


 そう言われてみれば、思い出せないこともない。堰き止められていた川の流れが堤防を押すように、あのときの記憶が溢れた。よく出来た悪夢のようで、現実に起こったこととは思えない。

 幾度か言葉に迷った後、やっと漏れたのは途方に暮れたため息だけだった。彼が嘘を言っているとも思いたくなかったが、真面目に受け止めるのはもっと難しかった。

 これは夢かも、と俺は考え始める。今目の前にいる若者も、あの夜に出会った悪霊のことも、全ては俺の頭で作りだした幻影で、本当の肉体はどこかで目覚めるのを待っているのだ、と。

 頭の片隅でそれが現実逃避に過ぎないことを薄々感じながら、俺は差し当たりそうやって心の安定を図ろうとした。


「昨夜、お前の妹が泣きながら玄関先に転がり込んできたときは、本当に何事かと思ったよ。よくあの暗い夜道を走って、この家見つけたよな」


 俺ははっとする。そうだ、光はどこに? 同時に恐れた。光と顔を合わせれば、これが現実だと否応なしに認めなければならないような気がした。


「呼んでこようか?」若者の提案は純粋な好意だった。


 いや、と俺は首を横に振り掛ける。しかし、こんなときいつも俺の意に反してくるのが光なのだ。部屋の引き戸が突然開かれた。俺と目が合う。


「兄貴──」


 喉の奥がすっと冷えていく。音もなく、身体が凍り付いていくようだった。何か言おうと思ったのに、俺は息を吸った後が続かず、ただ確かにそこに立っている妹の顔を凝視した。

 夢じゃなかった。

 戸に手を掛けたままの光が唇を動かす。声を最後まで聞き取る必要はなかった。俺は手近に転がっていた薬瓶を即座に投げつける。重く分厚い緑の硝子瓶は、壁に勢いよくぶつかって砕けた。中身が飛び散るのを横目に、呆然としている光を睨みつける。硝子の破片が、床に散らばって鈍く光を反射した。

 驚いた若者が、俺たち兄妹の間に身体を割り込ませる。


「おいおい、落ち着けよ。人に物を投げたら危ないじゃないか」


 分かっている。危ないから投げたのだ。俺は若者を無視して、光と火花を散らす。

 光の服装もまた、若者と同じく見慣れないものだった。誰かの着物を解いて、光の背丈に合わせて誂え直したように見えた。肌がざわつく。こうなれば俺が何かの劇中に迷い込んでしまったかのようだ。

 光は突然投げつけられた薬瓶が木っ端微塵になっている最中、棒立ちになっていた。その目の奥には狼狽があったが、同時に負けん気の強さでよく光っていた。無言で睨み合う。


「兄妹喧嘩?」


 若者の笑い方はむしろ俺の神経を逆撫でした。二人に渡された台本を俺だけが受け取っていないような、疎外感すらあった。馬鹿にされているのかと思った。


「まあ落ち着けよ」若者は手拭のようなものを持って、光の足元に転がる破片を除け、床や壁に落ちた軟膏を拭く。そして顔を上げる。


「光は、何か言いたいことがあったんじゃないか?」


「そうだよ、兄貴。大変なんだよ」


 俺たち兄妹がこうして顔を合わせている以上に大変な事態があるというのか。こうして相手の心の内など関係なく話の本筋を自分のものにしてしまうのは、昔からの光の癖と言って良かった。


「あたしたち、変な世界に迷い込んじゃったんだよ」


 勿体ぶった様子で両手を広げて見せた妹は、何だか場違いなほど得意げだった。


「……あ、そう」

 対して、俺の口から出た言葉はとてもあっさりしていた。光が目を見開く。


「驚かないの……?」


「驚いて欲しかったのか?」


 驚きはない。目の前にこれだけ判断材料が揃っていれば、そういった結論が出ても不思議ではないだろう。

 いや、威張ることではない。一応、びっくりはした。だが、全く予想出来ない話でもなかった。

 見ず知らずの人間や、風変わりな服装。そして、思い出すのも悍ましいあの夜の記憶。「変な世界」という表現がどこまで妥当かはともかく、何やらおかしな事態に巻き込まれたと推測することは出来る。

 そこまで考えた後、俺は頭から布団に潜り込む。「何してんの兄貴?」と光の声がくぐもって聴こえる。俺は目を瞑る。


「まだギリギリ夢の可能性がある」


「粘る気?」


 答えたくない。全部投げ出してしまいたかった。馬鹿げたことをしている自覚はあったが、「変な世界に迷い込んじゃった」などという説明もまた同じくらい馬鹿げていた。寝直して、目覚めたとき現実に戻っていることを期待する方がましだった。

 光と若者が、顔を見合わせるような気配がある。俺の困惑だけが宙に浮いて、誰も受け取ろうとしない。そのことが殊更に嫌だった。


「今はそっとしておいてやろう」若者の気遣わしげな声が聞こえる。「落ち着いたら前向きな気持ちになるかも」


 それから、俺が破壊した薬瓶を片付ける音がした。一通り終えると、若者は何か言い残して出て行ったようだった。部屋の中にしんとしたものが満ちる。

 弱々しい眠気が目や脳にずっと付き纏っているのに、目を閉じていても一向に眠れる気がしない。布団の中で蹲っている内に、無性に腹が立ってきた。

 このときの漠然とした敗北感を、誰かに伝えるのは難しいだろう。自分が死ぬことも出来なかったこと、計画が根本から覆ったことに対する憤りではない。

 己の理解を越えた事態に直面し、途方に暮れている。十五年分の常識をあっさりと蹴散らされ、俺は目に見えない誰かから嘲笑われている。許容できないほどの出来事に晒されたとき、人は神とか運命とか、そういうものを信じるかはともかく世界を動かすに値する存在を責める他なくなるのだと、俺は初めて知った。その無力感が如何にも惨めだった。

 しばらくして、耐え切れなくなった俺は布団を捲る。床に正座する光が視界に入る。ずっとそこにいたらしい。

 俺は訊ねる。


「さっきのあいつは誰だ?」


「命の恩人」


 部屋の空気が心持ち重い。漢方薬じみた酸味のある匂いが仄かに残っている。窓から太陽の光が差し込んでいるのに、部屋の中はその温もりが感じられない。ああ、やはりいつもの光だ、と安堵とも絶望ともつかない奇妙な気持ちになる。


「ここは、一体何なんだ」


 俺は、そう訊ねざるを得なかった。先程の“変な世界”という大雑把すぎる光の説明の先を聞かねば、埒が明かない。

 光は表情を曇らせ、反応も示さなかった。痺れを切らした俺は、聞こえるように舌打ちをして話を促す。途端に、睨み付けられた。


「あたしに訊かれても、分かる訳ないでしょ」


「そんな、無責任な……」開き直るなよ、と他人事のように思う。文句を連ねようとした俺は、半ば口を開けたまま留まった。妹の鋭い眼差しに、潤んだものが見えたからだ。


「おい……泣くなよ」


 僅かに目尻に涙をためたその表情を見て、先程までの強気は虚勢だったことを悟る。

 薄い肩を震わせ、溢れる感情を必死に喉元に押し込めている光。いつもは鼻に付くほど堂々としている妹の姿が、急に弱々しく頼りなさげに映った。


「兄貴寝込んでるし、意味分かんないことばっかり起こるし、あたしにどうしろって言うの」


「……うん」やるせない光の言い方から漂う無力感と混乱は、それなりの同情に値した。


 身体を起こして後頭部を掻き、仕方なく声音を緩める。


「ここは、どういった建物なんだ?」


白狐(ビャッコ)さんの家だよ」


「白狐さん?」問い返せば光は、「あのとき、あたしたちを助けてくれた人だよ」と眉を顰める。また俺の記憶がなくなったのかと思ったのかもしれない。


「覚えていない? 昨夜、助けてくれた男の人がいたでしょ。あの人が気絶した兄貴を背負って、ここまで運んできてくれたの」


 俺の脳裏に、白い髪をした人の姿を浮かんだ。なるほど、ここは彼の家なのか。


「あたしが呼んだの。山道を闇雲に走っていたら、明かりがついているのが見えたから、近づいたら家だった。急いで助けを呼んで戻ったら、兄貴があの奴隷狩りとかいう輩にタコ殴りにされてて……」


「……」特に反論のしようがないので、頷く。


「白狐さんが兄貴を助け出した後、あたしも家に入れてもらって、お世話になってた。兄貴の熱が下がるまでしばらくかかるだろうからって」


「そうだったのか」


 俺は気絶している間に見知らぬ人間に世話になっていたらしい。反射的に己の額に手を当てた俺は、考えあぐねる。

 彼らは何故、俺たちを助けたのだろう。光の言葉を信じ、本当にただの善意なのだとすれば、俺たちはどう振る舞うべきなのだろう。

 ただ経緯はさておき、あの晩助けてもらったことに関しては最低限礼節を尽くすべきという気持ちが湧いた。それは自分自身もそうだし、妹が世話になったことへの責任のようなものである。大体、あのとき助けを求められそうな人を探せと光に言ったのは俺なのだ。

 丁度そのとき、襖越しに誰かが近付いてくる気配があって、「そろそろ昼餉ができるよ」と呼ぶ若者の声がした。


「もし体調が大丈夫なら、二人の分も用意したそうだけど」


 光と顔を見合わせる。煩わしい逡巡を一度胸に仕舞い、俺は立ち上がった。毒のせいなのか殴られたせいなのか、動くと痛みがあった。ふらつくが、歩けないほどではない。光は黙ってついてくる。


 暗澹たる気持ちになった。自殺したはずの俺が、命の恩人に何を言えるのだろう、と。




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