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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十四話 夏至祭
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「大丈夫か?」


「……どうにか……」



 正直に打ち明けるのなら、大丈夫には程遠かった。奴隷市から少し離れた水汲み場は日陰になり、薄暗く、湿った空気はひやりと冷えている。

 辺りは簡易的な倉庫になっており、雑然と積み上げられた木箱や麻袋に布が被せられていた。恐らく、奴隷商人の持ち荷だ。雨除けの帆布の屋根が、風に吹かれてはたはたと靡いた。


 人の気配はない。時折、建物を挟んだ向こうの通りを足早に過ぎていく商人の気配が近付いたり遠ざかったりする。

 俺は胸のわだかまりを追い出そうと大きく息をついた。水場の手前で立ち止まった翔が、心配そうにこちらを振り返る。


「ほら、飲めよ」


「ん」


 金物の器に汲まれた水を受け取った俺は、喉を鳴らして一息に飲み干した。こめかみが痛くなるほどの冷たい水だ。体内を巡る清々しさが、胸につかえた塊を僅かに和らげる。

 絶え間なく透明な水が流れ落ちる竹筒の傍に器を置き、ようやくひと心地ついた。ただ、この平常心を保ったままもう一度あそこに戻れるか自信はなかったが。

 辺りをうろついていた翔が、こちらを横目で窺い、おもむろに口を開く。狭い隙間に何かを差し込むような声音だった。



「……光、見つからないなぁ」


「ああ……」


「……ここにはいないのかなぁ」


「どうだろうな」



 気の抜けた生返事をしていると、くしゃり苦笑いされる。「上の空だな」と。


 いや、と否定しかけた言葉は続かず沈黙に消えてしまった。苦労してここまで辿り着いたのに、目的である肝心の妹がいない失望感。じゃあ次はどうすればという途方に暮れた苛立ちは確かにある。

 しかしそれ以上に、この体を絶不調に陥れたのはあの空間そのものだった。人身売買業者の開いた悪趣味な市場。熱気。思い出すだけで嫌な汗がじっとり額に滲む。


 欠片のようなこの同情心と陳腐な罪悪感が何の役にも立たないことはよく分かっている。それでも、俺の心身はあの悪趣味な大市場に留まることを拒否した。

 にこにこと笑う商人たちの顔。行く先々で縋りついてくる奴隷たち。これ以上助けてくれ、解放してくれと哀れっぽく懇願されるのは御免だ。


「皓輝は奴隷に人気だものな」他人事のように翔が目を細める。「あんなに引っ張られちゃって。まるで誰かに人違いされてるみたいだった」


「勘弁して欲しいよ」


 俺たちは光一人を買うつもりで来たので、そこまで金に余裕がある訳でもなし。いちいち彼らの要求を真に受けるのは現実的ではなかった。例えその選択が俺にとって苦痛を伴うものであったとしても、である。


 先のことを思った俺と翔は示し合わせたように嘆息し、踏み固められた土の地面でぶらぶらと足を持て余す。もう一度市場に戻って辛抱強く探すか、別の方法を考えるか。

 本来であれば光を見つけて買って、その後どうやって帰るかの予定まで立てていたのだが、見直す必要がありそうだ。気を抜けばすぐため息が出てしまう。



 そのときだった。俺たちはふと人の気配を感じ、同時に顔を上げる。通路を曲がった土道の向こうから、一人の痩せた若者がぱたぱたと駆けて来ているのだ。

 ただこちらに向かっているのではなく、彼は手を振っている。その目は明確に俺のことを捉え、どこか嬉しそうでもあった。

 探していた友人を見つけた。まさにそんな喜びと安堵を発散させて――「コウキ!」と、その口が叫ぶ。


 そう、俺の名前を。


 身構える間もなく、その意味を考える間もなく水場に踏み込んでくる。無遠慮な距離感で足を止める。痩身で、粗末な格好をした若者だった。



「や、やあ」軽く息を弾ませ、胸を押さえた彼は笑う。「こんなところにいたのかい?」


「……?」



 いきなり現れた見知らぬ男。その懐っこい口調は俺たちを当惑させた。

 思わず顔を見合わせる。下っ端の奴隷商人だろうか。彼の頭に巻いた布からは白っぽい髪の毛先が飛び出ていた。にこにこと屈託のない笑顔を浮かべる姿に、生憎見覚えはない。


「あ、あの」


「あまりふらふらと出歩かないで。君は、目立つんだか……ら」


 親しげだった声が途切れる。その瞬間、若者は初めて真っ向から俺の目を見たらしい。視線がぶつかり、ばち、と何かが弾ける。

 彼は大きな瞳が零れてしまいそうなほど瞠目し、俺に顔を近づけた。作り物のように綺麗な眼。ぽかんと開けていた口を不自由そうに動かす。あれ、という間抜けな呟きが聞こえた。


「……きみ、あの……っ」


 もごもごと口の中でもつれる言葉。間違い電話を取ってしまったときのような、おかしな気まずさが流れる。

 若者は俺の顔を見、それから後ろの翔へ顔を向けた。恐る恐る。そうしてようやく己のささやかな過ちに気づいたらしい。

 狼狽えたように視線を泳がせ、痩せた手と首を同時に振る。



「あ……ええと、その。……ごめんなさい、人違いを」


「いや」



 俺も首を振った。息苦しさと開放感を同時に噛み殺しつつ、どうにか言葉を紡ぐ。「気にするな」

 それでこの若い商人との会話は終わるかと思われた。些細な間違いを訂正し、許す。俺は寛容な方だ。本来関わるはずのなかった彼の時間をこれ以上割かせるつもりはない。


 反面、気掛かりなこともあった。彼は俺の名前を呼んだ。俺の思い違いでなければ、一度確かに「コウキ」と。


 その事実がどんな意味を持つのか俺には分からないが、この胸を騒がせるには充分すぎる何かがあった。心の底から震え湧き立つような、衝動が。

 若者が迷うように足踏みしている。その場から立ち去るかと思われた彼は、まだ微かに戸惑いの色を滲ませ、俺の顔にちらちら視線を寄越していた。不躾な好奇心が見え隠れする。

 俺は隣で首を傾げる翔と目を合わせた。何かまだ用があるのか、と眉を顰めて問えば、先程よりも幾分落ち着いた様子で「ごめん」と言う。


「……あのさ……君って、もしかして」


 若者はとても慎重に、やけに勿体ぶった調子で口を開く。微かな笑みを浮かべながらも、その皮を剥がせば別の本性が暴かれそうな表情だった。しかしせっかくの彼の言葉は最後まで続かない。

 別の男の声が、鳥の羽音のように後方から被さってきたからだ。



 ――「何をしているんだ?」と。



 落ち着き払った低い声音。喉から張り上げた声ではないのに、やけに鮮やかな輪郭を伴って聞こえた。

 え、と困惑を漏らしたのは翔。その次に若者が息を飲む。二人の視線を辿れば、水場の左手側から悠々と闊歩してくる男の影があった。


 “それ”を視界が捉えた瞬間、俺の脈動は異様な速さを刻む。


 突如として地面が消え去り、透明な空間に自分と男だけが取り残されたように錯覚した。全ての動作が緩慢に見え、鈍く反響する音は深海の底と似ていた。

 苦しい。忙しない鼓動が呼吸を早くする。しかし、不快感はない。

 やがてそいつの顔にはっきりと焦点が定まったとき、ああ……と、驚嘆でも恐れでもない声が俺の口から漏れる。



 初めに思ったのは、どこかで見た顔だ、ということだ。次に――それは、()()()()()()()()()()




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