表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十三話 涼省へ
66/98



 閑散とした早朝の目抜き通りが映る。


 時折荷車を引いたり、水瓶を担いだ男が石畳の上を不愛想にすれ違う。瓦葺きの家屋が軒を連ねる大通りは、一様に赤い提灯をぶら下げ、人の往来がなくとも華やかだ。

 朝餉の支度をする細い煙があちこちの家から立ち昇る。早起きの少女が表を箒で掃いていた。

 明るくなるにつれ人通りは増え、町はにわかに活気づく。宿の二階からその光景を眺める俺に気付く者などほとんどいない。



 跳ね上げの窓辺に寄り掛かった俺は、鼻先を冷やす朝の空気やさざめくような賑やかさを楽しんだ。体調はすっかり良くなっている。

 昨夜神気に中って死んだように眠り続けた俺だが、意外なことに、今朝はまるで憑き物が落ちたかのように爽快な目覚めだった。

 あの気怠さや熱っぽさはどこへやら。身体が軽くて気分が良い。今すぐ表へ駆け出したいくらいだ。


 隣の布団の翔はまだぐっすり熟睡している。泰逢の神気に中てられたのは俺だけではない。疲れているのだろう。目の下に隈などつけ、翔はたまに寝言ともいびきともつかない吐息を漏らした。

 もぞもぞと枕に顔を埋め、くぐもった声で、たくあん王国……と呟く。どんな夢を見ているのやら。


 二階の客室は民宿よろしく、どこか懐かしさを感じる素朴な造りだ。床と座敷は衝立で区切られ、畳は黄色く痛んでいる。梁が剥き出しになった天井や煤けて黒くなった壁。どこもかしこも古びてはいるが、埃ひとつない落ち着いた客間である。

 俺は宿の薄い布団に半身を入れたまま、しばらく窓の外を見つめていた。風が頬を撫でる。


 そろそろ翔を起こしたほうがいいだろうか。随分経った後、俺は気付いた。凉省に入ったとはいえまだゴールではない。ここから更に南へ下って、省都の安居まで行かねばならないのだ。そう、明日までに。

 突いたり揺さぶったり、最後は白狐さんの声真似でようやく目を覚ました相棒は、昨晩虫の息だった俺がすっかり元気になっていることに当惑し、拍子抜けしたようだった。



「一時はどうなるかと思ったよ……。〈火陽〉に行けないだけならまだしも、あのまま死なれたら俺、白狐さんに顔向けできないし」


 おかしな癖のついた頭を掻き、寝起きの締まらない顔で笑っている。大袈裟な、と笑うと同時に、申し訳なく思う。

 宿の夫婦も、俺の回復を自分のことのように喜んでくれた。そして朝餉の支度が整うまでの間、俺は離れにある客人用の風呂場を借りることにする。


 今日の午前はゆっくり過ごしていいと言われたので、俺は数日分の泥の汚れをきれいさっぱり洗い流し、思う存分湯船に浸かった。

 髪を拭き拭き部屋に戻る。ぽかぽかと暖かい湯上り。少し長湯しすぎたかもしれない。

 襖を開ければ既に朝餉の支度が整えられている最中だった。かちゃかちゃと食器の鳴る音が心地良い。自ずと空腹を自覚させられる。


 座敷には脚のついた膳が二人分置かれ、手作りの暖かい料理が作法に適った順に並んでいた。椀には茶粥におにはすの蒸し汁、山菜と生麩の炊き合わせ、玉子焼き、そして小鉢に旬の果物を切った甘味が続く。

 この国の伝統的な食膳の配置である。どれも一口か二口ほどで食べられるささやかな量だ。旅先の食事とはいえ、その丁寧さには俺たちの帰りを待つ世捨て人の主を思い出さずにはいられない。


「湯加減は如何でしたか?」


 (のぼ)せてやや放心していると、茶を淹れていた宿の主人の親しげな声で我に返る。まごつきながら素直に感想を述べれば、その顔の笑みを深めた。

 彼はその優しく気苦労の絶えない性分のためなのか、太い眉に白いものが混じり、四十半ばとやや老けて見える。いつまでも若さを保つネクロ・エグロの世界で中年というのも珍しい。


「それはようございました。お客様は夏至祭に行かれるのでしたな。凉省は初めてですか」


「え、ええ、そうなんです」


「今日も明日も陽気が続くようで、何よりでございましたね。きっと陽国(ヨウこく)からの船も入るでしょう」


 俺はほとんど無意識に訊き返す。「陽国?」と。直後不思議そうな顔をした主人と目が合い、しまったと思った。不用意に知識不足を晒すものではなかった。

 白狐さんや翔ならまだしも、この世界で見当違いの発言をして奇怪な目を向けられることは避けたい。いつか七星(チーシィン)に訝られた時のことが頭を過る。


 しかし、主人は世間話のつもりだったようで「祝融神(シュクユウシン)の加護ぞありますように」と口元を緩めて立ち上がった。俺は肩の力を抜く。


 窓辺に腰掛けていた翔は、俺と主人の会話に興味も示さず、「腹減って死にそう」と漂ってくる料理の旨そうな匂いに釣られるよう、脚付き膳の前に腰掛けた。俺もそれに倣う他ない。

 冷めないうちにと食事を始めた俺たちを見届け、主人は笑顔のまま慇懃に退室する。

 とんとんとん、と足音が階段の下まで降りたのを見計らって、俺は訊ねてみた。



「なあ……陽国って何だ?」



 蓮華で粥を掬っている翔。食事に集中しているのか、さほど関心がなさそうな声で応える。


「……陽国っていうのはあれだな、西大陸の南にあるスラギダ王国の通称だ。孑宸皇国と細々交易している、濃い色の肌の人々の国だよ」


「西大陸って敵国なんじゃないのか」俺は手を止めて顔を上げた。


「敵だよ。でも陽国は例外」碧眼の先で地図を思い描くような顔をする。「孑宸と敵対しているのは、西大陸でも北方のイダニ連合国。南のスラギダは中立って訳。俺もあまり詳しくは知らないんだけど」


 へえ、と俺は分かったような分からないような気分だ。

 皇帝の権威がほぼ全土にまで行き渡っている東大陸と違い、海の向こうの西大陸は複数の国家が乱立しているらしい。

 しかし、孑宸と物品や情報のやり取りを行っているのはその内のスラギダ王国のみ。それも友好国と呼ぶには今一つ微妙な関係で、政治的な交流も少ない。

 俺は口に入れた玉子焼きを懸命に噛む。黄身と白身の混じった柔らかい表面を噛めば、中の干した小エビが風味豊かに広がった。


日天子(ヒノアマノキミ)が西大陸に創った国はひとつじゃなかったのか」


「それは飽くまで伝説の話だよ。『天介地書』が必ずしも全て史実通りとは限らんさ」


「そんなに適当でいいのか?」


「皓輝は案外、学者気質だよなぁ」


 もぐもぐ、口を動かしながら翔が笑った。それは学者に失礼なんじゃないか。

 陽国というスラギダの異名は『天介地書』第一巻に由来する。天帝が捏ねた泥から人間が生まれた際、〈天火〉すなわち太陽の光で固まったものは色濃くなり、〈天石〉すなわち月の光で固まったものは色薄くなった、と。

 褐色の肌をしたスラギダ王国民は、皇国民にとって陽人(ヨウじん)、すなわち太陽の人なのだ。


 聞けば、スラギダ王国というのは随分閉鎖された国だという。彼らはあらゆる国への不干渉を掲げた孤立主義者で、南国と聞いて浮かぶ陽気で開放的なイメージには程遠い。外交も消極的で、東大陸でもただひとつの安居の港にしか貿易船を入れない、とか何とか。


「もしかすると、安居で陽人を見られるかもしれないぞ」


 まるで見世物のような言い方だ、と言えば翔はだって珍しいんだもんと子どものような顔になった。

 山奥に暮らしている分尚のこと外国人は未知の存在なのだろう。俺はそれよりも、スラギダという国にも奴隷が流通しているのかということの方が気掛かりだった。



 美味しい食事の後、俺たちは宿を引き払い、荷物をまとめて厩に行く。中庭に引き出された貸馬たちは毛艶も整い落ち着いていた。

 荒野から背負ってきた荷の大半は泰逢に襲われた際に捨ててきてしまったため、馬も人も身が軽い。安居まで背に乗ってゆけるだろう。彼らとの旅もあともう僅かだ。

 衣類など荷を失ってしまったのは惜しかったが、命を落とすよりはましである。幸い翔の懐にしまわれていた財布は無事で、世話になった夫婦に宿代と食事代を払うことは出来た。

 弁当まで拵えてもらった俺たちは二人に見送られ、安居へと続く街道を出発する。


 ――さて、明日は夏至だ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ