Ⅲ
気付けば、朝が来ていた。
屋根のない小屋の頭上から白い光が差し込む。天使が舞い降りたかのようだ。
俺は半開きの眼で、浮かび上がる昨晩の焚火の跡や煤けた石壁を見つめていた。自分は眠っていたのだ、と気付いたのは随分時間が経ってからだった。
いや、気絶したと言った方が正しいだろう。何せいつ意識が途切れたのか記憶にない。全身に刻まれた恐怖だけがまだ尚、鮮明に残っている。
首を持ち上げ辺りを警戒してみるも、まるで街中が死んだような静けさだ。息を吸うのも躊躇われる静寂は、奇妙な空間の広がりを錯覚させる。
身体が震えるが、朝陽の明るさに勇気づけられた。俺は翔を起こさないよう立ち上がって、蔵の外に出てみる。
「……」
廃墟が軒を連ねる広小路。猫の子一匹いない。昨晩あれほど煩かった風も嘘のように鳴き止み、ひっそり閑散としていた。澄んだ水色の朝空。清爽とした薄日が何とも寒々しい。
手早く無人の廃屋を見回った後、俺は馬のいる場所に向かう。一番気掛かりだった馬たちは昨日繋ぎ止めたのと同じ木造廃屋の傍らに立っていた。特に激しく暴れ回った様子もない。俺はほっとする。
横から近付けば二頭とも耳を伏せ、多少怯える仕草をしていたが、根気よく宥めれば落ち着いてくれた。少し湿って暖かいその背を撫でる。
彼らが神経質なのは元からの気質なのか他に要因があったのか……俺には判別できない。もしかすると、昨夜の“あれ”は性質の悪い夢だったのかもしれないという気さえしてきた。
もやもやと晴れない気持ちを抱え、相棒を起こしに戻る。のんびりしている暇などない。真相を突き止めるよりも、夏至祭に間に合わせることが最優先だ。
それより何より、一刻も早くこの荒れ果てた街から立ち去りたいのは俺も、そして肩を揺さぶられただけで悲鳴を上げた翔も同じだった。
「ゴーストタウンとは言ったけど」まとめた荷を積みながら俺は呟く。「ああいう展開は予想外だった」
「全くだぜ……」
翔はげんなりと疲労感を隠さない。精神がすり減ってしまったのだろう。俺も翔も、夜の出来事を直接話題にする元気はなかった。
昨晩何があったのか、蔵の周りを徘徊していたのが何者だったのか。俺たちが知ることは永遠にないのだろう。それでいい。世の中にはきっと、知らない方が良いこともあるのだ。
身支度もそこそこに、俺たちは逃げるように荒野の宿場町を後にする。
後ろは振り返らない。あの廃墟の市街地から出ることの叶わない亡霊が、こちらをじっと見ているような、大勢の陰湿な視線が俺たちの背を追っているような気がしたからだ。
***
その日も丸一日荒野を歩いた。人というのは極限まで刺激がない空間にいると発狂するらしい。その意味がよく分かるくらい、俺たちは味気のない風景にうんざりしていた。
そして翌日の午後、とうとう俺たちは鳴蛇の荒野を抜け、凉省の輝かしい平地に辿り着いたのだった。
道中、鳴蛇の影が俺たちの前に現れることは一度もなかった。枯草と青葉の混じった草原を踏んだときも実感が湧かずに戸惑う。自分たちの無事に安堵するより、拍子抜けした気持ちの方が大きかったのである。
あれほどまでに気を揉んでいた数日間の俺たちは何だったのか……。
「土霊の護りがあったかな」
翔は首を傾げている。もしそうなら土の霊に感謝しなければなるまい。俺はこれが最後とばかりに肩越しに視線を投じた。
この旅ですっかり嫌いになった広大な荒れ野。岩だらけの退屈な枯草原も、激しく照り付ける太陽ももうお終いだ。ともかく、もう蛇の恐怖に怯えながら過ごさなくても良いということが何よりも嬉しかった。
前を向き、目前の草叢を掻き分けて馬を引く。荒野が終わったとはいえ、今度は伸び放題の野原に足を取られる。
休息を取ろうにも足場が悪すぎた。人のいる場所に着くまではもう少しかかりそうだ。ひとまず、目先にある小高い丘を目指すことにする。
そこはかやつり草の茂る草地に盛り上がった丘陵だった。緩い坂を馬と共に登れば、この辺り一帯を一望出来た。
遥か遠くまで広がる夏野。俺は立ち止まって瞬く。視界を遮るものは何もない。見晴らしの良い野原はくすんだ浅緑に波打っている。
「――……」
悪くない眺めだった。少なくとも、あの味気ない荒野に比べればずっといい。
疎らに群生する灌木は、緑の海に浮かぶ孤島のようだ。豊潤な水気を含んだ風が耳を掠める。遥か遠くに見える銀の小川が南へ向かって緩やかに蛇行していた。
「ここからが凉省か」
「……う、ん」
隣の翔が妙に歯切れ悪く頷いた。髪が風に弄られ踊っている。
三日間も荒野を強行で進んでいたためだろうか。俺は青々とした風景に、何か不思議な感慨が込み上げるのを感じた。
例えるならそれはたった一人で森閑とした深い森の中にいるような、生物のいない暗黒の海を孤独に沈んでいくような、そんな息苦しくなるほど雄大で広壮で、心安らぐものだった。
風が歌っている。出し抜けに俺はそんなことを思った。草原を吹き渡る風は、樹々の隙を抜けながら俺たちには聞き取れない言語で歌っている。伸びやかで、楽しげな声だった。自然霊がいるのだ。
「なあ皓輝。早く行こう」放心気味に立ち尽くしていると、翔に袖を引かれた。「早く……」
俺は気が進まない。くたびれていたし、この景色をもう少し楽しみたかった。霊の息衝く風を浴びて、疲労した身体を癒したかったのである。「ここで休まないか?」
「……いや」翔は頑なに首を振る。「行こう」
いつになく強引な翔に違和感を覚えた。見れば、あの太陽のように明るい表情はすっかり塞ぎ込んでいる。
こいつが顔を曇らすときは決まって悪いことが起こるのだ。俺は思い直し、大人しく従うことにした。
俺を先頭になだらかな傾斜を下り、広大な平原へと足を踏み出す。夏の日差しを浴び、雑草と呼ぶべき芝草が一面無節操に生い茂っていた。低い金雀枝の黄色い花が目に鮮やかだ。
目指すはこの先にある雁江の関所。この国で二番目に大きな河だという雁江はまだまだ見えない。
かっと照る日射は容赦なく俺たちの体力を奪った。暑い。軽く弾む息継ぎの間に、不意に後ろの翔が何かぶつぶつ呟く。
「何か、言ったか?」
その語調に不穏を感じた。聞き返せば、翔は神妙に唇を結んだ。怒らないで聞いて欲しいんだけど、と。
「……予定では、鳴蛇の荒野を抜けてすぐ、関所まで続く碧梧街道にぶつかるはずだった」
旅人や商業人のみならず、あらゆる身分の人々が行き交う大きな新街道。しかしそれが見当たらない。それどころか、この果てない夏野はまるで“人気”がないのだ。
「……ということは?」
「正直、ここがどこなのか分からない」
は、と俺は呆気に取られて足を止める。何か言おうにも上手い言葉が出てこない。開いた口がただ、犬のように疲弊した呼吸を繰り返す。
よく──よくそれで進もうなどと言い出せたものだ。混乱しつつ、何の計画もなく歩き出した翔はこの状況で非難されるべきであるように思えた。
翔はそんな俺には目もくれず、落ち着かなさげに身体を動かす。
「多分、街道よりも若干南に来てしまったんだ。荒野を進んでいた時点で方角がずれていたらしい。向うに行けば雁江に着くと思う……」
頼りない声音に不安が伝染するが、俺には何となく、翔は道に迷ったこと以外のことに気を取られているように見て取れた。ひとまず正確な方角を割り出そうという俺の提案も、頑として聞き入れようとはしなかった。
「立ち止まっていたくない」聞き取れないほど低い声で翔は呟く。「嫌な予感がする」
馬たちの様子がおかしくなったのはそれからしばらく経ってからだった。
太陽のみを指針とし、どうにか人通りのある場所まで抜けようと草地に奮闘していた俺たちは、突然手綱が重くなるのを感じた。ぐい、と後方に引っ張られ、よろめく。
振り仰げば、彼らはこれ以上の進行を拒否するよう首を振っていた。尻ごみをして辺りを警戒している。耳を伏せているのは怖がっている証だ。
「何だ……?」
遅ればせながら、俺もようやく“嫌な予感”の片鱗を肌に感じ始めた。手綱を強く掴み、素早く周囲を見回す。
不思議な風が吹いていることを除けば、特に変わったところのない緑の夏野……。しかし馬にとってはそうではないらしい。四つの蹄で落ち着きなく足踏みをし、しきりに首を伸ばしている。翔の引いていた馬もひどく怯えたように体を揺すり、鼻息を荒くしていた。
何かがいる。
不意にどくん、と心臓が大きく脈打つ。苦しい。まるで、誰かに内臓を鷲掴みにされたような痛み。
視線を感じる。俺たちを貫くような、鋭い視線だ。急速な心拍数に付いていけず、耳や口の中がきりきりと痛くなる。俺は強烈な眩暈を覚えた。
異変を感じた体が苦痛を訴えているのは俺だけではないのだろう。肩を強張らせた翔が、息も絶え絶えといった様子でこちらを向く。その顔に血の気はなかった。
「まずいよ、皓輝! ここはまずい。霊が多すぎるんだ! 荒野まで引き返そう! そこから北に向かえば碧梧街道に行けるはず……」
ここにいちゃいけない。その言葉は最後まで発せられることなく宙に浮いた。空気が音を立てて凍り付く。比喩ではなく、本当に氷結したように感じたのだ。気圧される、というのはまさにこういうことを言うのだろう。
身体が動かない。指一本、己の意志では動かせない。凍てついた一帯に呑み込まれた俺たちは、金縛りに遭ったも同然だった。
や、ば、い。顔を歪めた翔が唇の動きだけでそう伝える。この状況が好ましくないことくらい俺でも分かった。不気味な沈黙に肺が圧迫される。
あれほど楽しそうに歌っていたそよ風も、ざわめいていた草木でさえ息を凝らしていた。まるで、それが来るのを待っているかのように。
「まさ、か」俺は喉から声を絞り出す。「鳴蛇……?」
人ならざるものが近辺にいることは明白だ。しかし、今まで感じてきた自然霊の気配とは明らかに格が違う。力強く、雄大で、まさにこの草原そのもののような……。
言葉では言い表せない強大な存在感を纏ったものが、迫って来ていた。
いや、と翔が掠れ声を出した。青ざめた顔で、「多分、鳴蛇よりもっとまずいのが来た」と。
「たい、ほ……」
「え……?」
「た、泰遙……皓輝、にげ、ろ!!」




