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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十三話 涼省へ
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 稲畑の広がる肥沃な西の夕省(セキショウ)、平坦で温暖な気候の南の凉省(リョウショウ)。二つの省の領境には場違いなほど乾き、広大な荒野が横たわっている。


 草木は朽ち果て、枯草ばかりの荒んだ乾燥地帯。人々はそこを“鳴蛇の荒野”と呼び畏れていた。そこには(ひでり)を司る鳴蛇(メイダ)という霊が巣食い、緑あるものをことごとく枯らしているのだという……。


 俺は寝ぼけ眼を擦り、かねてより噂に聞く目前の荒野をじっと眺めていた。

 一体どれくらいの広さがあるのだろう。見渡す限りの冴えない砂色。剥き出しになった岩盤。なるほど荒野を名乗るだけあって、さすがに荒涼としている。

 風に靡く枯草はからからに乾き、時折目に入る枯木はこの過酷な環境に力尽きていた。命あるものの気配はない。陽が昇らない薄暗さも手伝い、見事なまでに殺風景な枯れ野原である。

 これから数日かけてここを越えていかねばならないことを考えると、気が遠くなった。半端な睡眠を繰り返したことによる睡魔が億劫さに拍車をかける。

 革の合羽の胸元を合わせ、俺は寝起きの肌寒さに耐えた。草地で寝ていた身体が痛かった。


 ――夏至祭まであと四日。


 世捨て人の家を出発してから既に丸二日が経過している。

 本来ならばもっと早くにこの難関を迎えるはずだったのが、夕省の都邑で輸送を専らにする商人組合と取り合い、馬を貸して貰うのに時間を食った。

 身元不定な俺たちを怪しむ彼らに身分と旅の経路を捏造し、結局最後は法外の金を積んで渋々承諾されたに至る。嘘をついたことに罪悪感はあれ、あれほどまでに待たされなければもっと早く進めたのにと苦々しい気持ちが込み上げる。


 さすがに大金を払った甲斐があり、二頭の栗毛の貸馬はよく調教され、長旅に慣れていた。素人でもさほど苦労せず乗りこなせるのは有難い。

 動物に関してはいっそ素人以下の俺は、未だに近付くことすら恐怖を覚えるが、躾けられた馬たちが俺に敵意を剥くことはなかった。今のところは。



「皓輝、そろそろ起きろよ」



 こくこく舟を漕ぐ俺の横で、翔は一足先に身支度を整えたようだ。手際よく貸馬の背に旅の荷を括りつけている。

 羽織っているのは俺と揃いの合羽である。雨を避けるために油を塗り、白狐さんが貸してくれたものだ。袖はなく、野宿の寝具としても欠かせない旅具だが、裾の長さに動きが鈍るのが難点だった。

 世捨て人の主は今回の旅に不参加である。案の定、といったところか、「太陽の光が嫌いなのです」と、言い訳なのか本心なのか読めない笑顔で送り出された。

 彼は仙人だから俗世には近寄らないのかもしれない。そう信じておくことにする。真っ先に伝えるべきは金銭援助についての感謝だろう。


 徐々に辺りは明るくなってきていた。朝が来たらしい。

 地平線から広がる陽光が手を差し伸べるよう大きくなり、乾いた大地が白く浮かび上がる。何とも物々しく奇妙な光景だ。希望を象徴する旭光が、死んだ地上を照らしている。


「ほら、早く食え」と突然何かを投げつけられた。


 膝の上に落ちたそれは雑穀の握り飯だ。玄米やら何やら、安い穀物の雑多な味は美味いとは言い難かったが、贅沢は言っていられない。腹を満たすためだと割り切るしかない。

 味気なく朝餉を済ませて水を飲む俺は、ふと翔が地面に膝をつき、何かをしていることに気が付いた。夕省の豊かな緑の平原と鳴蛇の荒野の境目である。地面の色が決定的に変わる境界線。

 俺は立ち上がって近付いてみる。


「それは何だ?」


「昨日買った(アユ)だよ。土霊(ドレイ)への供物にする」


 翔が竹筒から取り出したのは、塩漬けにした一尾の鮎だ。乾燥して多少縮んでいても、元は立派だったと分かる大きさである。

 本当は生魚のが喜ばれるんだけどね、と翔が小声で呟いている。


「土霊って?」


「土の中に棲む霊。この荒野を無事渡れるよう頼んでおくんだ。鳴蛇に見つかりませんようにって」


 近くで採取した(ニレ)の葉と実とともに鮎を添え、竹筒の水を振りかけ、翔は地面に向かって何事か呼びかけた。呪文のようだったが、よく聞き取れない。

 霊を呼ぶための文句があるのかと訊けば、心が籠っていれば何でもいいんじゃないかと大雑把な答えが返ってくる。そんなに適当なやり方で、本当に自然霊の加護が受けられるのだろうか。

 不安が残る中俺も荷を整え出発の準備をする。樹に繋いでいた馬は大人しく、俺が近付けば軽く鼻息を吐き出した。びくびくしながら、彼らの水と飼料を鞍に括る。

 馬の餌は重要だ。青草があれば道端で食ませれば良いが、枯草ばかりの荒野となれば話は変わる。荒地の中心で飢え死ぬなど冗談でも笑えない。負わせる荷が重いため、可能な限り背には乗らずに引いて歩くことにする。


「緊急事態になったら荷物は捨てて走るからな」と翔は俺に言い聞かせた。緊急事態とはすなわち鳴蛇と遭遇したときだろうか。その光景を想像しては身震いをする。


「行くぞ」


「ああ……」


 どうか旱の霊に襲われませんように。祈るような気持ちで先程捧げた供物を何となしに振り返った。その瞬間、驚くべきことが起こる。

 ぼこ、とおもむろに地面の一部が盛り上がったかと思えば、そこから何か長く崩れたものが飛び出てきたのだ。まるで樹木が勢いよく伸びるように。

 それは土塊に塗れ、薄汚れて浅黒い。植物のような生え方だが、まるで意志があるかのように機敏な動きをしている。

 ……まさか、鳴蛇ではないだろう。土竜(モグラ)か何かだろうか?


 よく見ようと首を伸ばした俺は、その正体が何であるか分かった途端「ひっ」と悲鳴を上げた。思わず仰け反る。

 それは()()()()だ。土に塗れて腐った、誰かの右腕。体勢が崩れて足がもつれる。そんな俺の挙動に馬が歯茎を剥いた。

 不気味な一本の腕はぬっと肘までが地上に突き出ている。ほとんど腐敗して形になっていない。異臭がする。俺は呆然とその場に尻餅をついて、目の前で揺れるその手を見つめていた。

 そいつは骨が剥き出しになった指を開いたり閉じたり繰り返す。かと思えば、いきなり捧げ物の鮎を鷲掴みにして、地中に引き摺りこんだ。

 ……消えた。あっという間に。後に残ったのは覗き込むのも恐ろしいような地面の空洞と、呆気ない程の静寂だ。


「ああ」硬直する俺の背後で暢気すぎる欠伸が聞こえた。「土霊が来たんだな」


「ど、土霊?」


 俺はどもって訊き返す。全身に鳥肌が立っていた。

 今のは、どう見ても、人だったぞ。途切れ途切れに訴えれば、翔はそうだよ、と歩み寄り、地面に空いた穴を指さした。鳥の生態でも説明するかのように。


「土霊っていうのは元々実体のない地下霊だからな。形を取るために、土葬された人の死体に宿るんだよ」


「じゃあ、今のも……」埋葬された誰かの亡骸だったという訳か。目線だけで問えば翔は肯定した。


 罰当たりも何もあったもんじゃない。俺は心の中で合掌する。地面から湧くゾンビは陰鬱なホラー映画で充分だ。

 ああ怖かった、と未だに震えて立ち上がれない俺がおかしいのか、翔はあからさまな笑いを噛み殺していた。


「驚いたか?」


「既に今日一番のハイライトだったよ」


 腕をさすりながら、ため息をつく。お陰で目が冴えた。初めからこんな調子では先が思いやられる。

 興奮した馬を宥め、落ち着かせた後、改めて俺たちは野営した草地を後にした。向かう先には乾いた荒野が無限に広がっていた。


 ちらり、未練がましく供物を置いていた場所を振り返る。例えあそこから土霊の腕が俺たちに手を振っていたとしても、もう驚くまい。驚くものか。



 ほぼ真正面に昇った朝陽が、俺と翔と、二頭の馬の列になった長い影を背後に作っていた。

 歩きにくい荒原でも、馬は行儀がいい。引き手を左手に絡めて右手で握る。そうすればこちらに速度を合わせて隣を歩いてくれるのだ。

 彼らが俺たちより前に出しゃ張ることはないし、好き勝手な方向に縄を引っ張ることもない。教えられた通りにやれば、初心者でも操るのは容易かった。

 至近距離で感じる馬の息遣い、糞尿の混じったような匂い、蹄の音、その身体の大きさ。動物との旅は初めて体感することばかりだが、間近で見る綺麗な目は気に入っていた。

 黙々と人に従う鳶色の瞳は澄み切り、伏せたまつ毛にはどこか哀愁すら感じる。毛色は栗色で、二頭とも額から鼻にかけて雪のように白い毛が生えていた。時折首を撫ぜれば、轡掛(くつわが)かりから気持ち良さそうな息を漏らす。


「少しは慣れたみたいだな」


 後ろで同じく馬を引く翔が声を掛けてくる。まあな、と首肯した。人が緊張すれば馬にもそれが過敏に伝わる。不用意に刺激しないよう気を付けねば。

 鳴蛇の荒野に道らしいものもなく、空の太陽の方角を頼りに進む他なかった。右も左も前も後ろも茫々たる枯れ野原。低い丘陵があることを除けば、見渡す限りの荒漠だ。

 大気はひどく乾燥し、鼻の粘膜も口内も砂に涸れて不快である。岩だらけで足場も悪い。陽が高くなればなるほど体感温度が上がるため、数時間置きに休憩を取る必要があった。


 変化の乏しい景色に退屈する俺たちの唯一の関心事は、ここに棲む蛇霊のことである。歩き始めて随分経ったが、鳴蛇の姿は一向に見えなかった。

 薄気味悪い。そこの岩陰に、干乾びた枯れ木の根元に、虎視眈々と潜んでいるのではないか。閑散とした景観に不吉な妄想が過る。



「鳴蛇たちは大昔、北方に棲んでいたんだよ」


 休憩しよう、と言いだした翔が、砂岩に馬を繋ぎながら話し始めた。

 俺は足を止めて肩越しに振り返る。眩しい。青空と地平線が遥か彼方で交わっていた。風に舞い上がる灰がかった黄砂に、視界が煙る。


「……そうなのか? 初めからここにいた訳じゃないのか」


「鳴蛇は元々冴省(コショウ)にいた」


 冴省。孑宸皇国最北の省である。険しい山岳ばかりで平地が少なく、枯れた土地だと聞いた。


「そう、東大陸の最北端」馬の首に水の袋を括りつけ、翔は軽快に頷く。「一年中、雪が解けない高山があるんだって」


 気候にも恵まれず、貧相な高地は人が住むのに不向きだ。その代わりでもないだろうが、人の立ち入りを禁じた霊峰や霊地があちこちに広がり、その伝説や逸話の多さは他の省とは一線を画す。何でも、神農(シンノウ)が身投げした湿地も冴省の西にあるらしい。


 俺たちは並んで岩石に腰掛け、疲れた足を休めた。

 少し先に雁江(ガンコウ)って河があってね、と翔は背後の岩の面を指さす。この大きな一枚岩を地図に見立てているようだ。


「東大陸を北から南へ流れる、この国で二番目に大きな河。その源流は冴省の山脈にある」


 上下に動いていた人差し指が、とんとんと水源と思しき北部を示す。俺は竹筒を取り出しながら先を促した。蓋を捻り、ぬるい水を喉に流し込む。


「雁江の源には、化蛇(カダ)という別の蛇霊がいるんだ。鳴蛇とは対になる水の霊。……故事によれば、昔々の大昔、鳴蛇も化蛇も同じ場所に棲んでいて、いがみ合っていた。やがて旱と大水相反する力が天を揺らすほど争って、鳴蛇は敗れた。そんで奴らは仕方なく雁江を下ってこの平原に辿り着いたって訳」


「へえ」


「鳴蛇が棲みつく前は、ここもこんなに殺伐としていなかったみたいだよ」翔は少し残念そうに空を仰いだ。「緑豊かな平原でさ、街道もあったらしい」


 そんな穏やかな草原地帯も、今となっては渇きの蛇霊の棲む危険極まりない荒野と化してしまった。

 凉省へ行くにはここを横断するのが一番早い。何せ、ほとんど直線距離で済む。しかし賢い旅人ならば、いやどんなにケチな商人でも荒野には決して近づかないという。

 命あるものは鳴蛇によってことごとく枯らされてしまうのだ。余程のことがなければ時間をかけてでも、ぐるりと周回する街道を通って荒野を避けるのが無難らしい。


「退治とか、しないのか?」あまりの不便さにそんなことを口走る。途端に翔が驚いて肩を跳ねさせた。


「退治? 鳴蛇を? まさか」


 目を見開き、翔は小声で何か唱える。後で教えて貰ったが、不敬を犯したとき、天に許しを請う呪文らしい。予想外のその反応に俺は面食らった。邪魔なものは排除する、という発想は少々短絡的だっただろうか。


「そんなことしたら自然界の秩序が崩壊するよ。鳴蛇がいなくなったら、化蛇の力が強まって大洪水が起こるだろ。どんな霊も、この世に必要な存在なんだよ」


(ガン)も?」


「もちろん」


 あれは悪霊だけどな、と翔がようやく微笑んだのでほっとする。

 忘れるところだった。無形の霊ならいざ知らず、高位の霊は皇国民にとって崇拝の対象。例え災厄をもたらす存在だとしても、優先順位は常にあちらが上なのだ。人が霊に勝ろうなど、彼らにとってはとんでもない傲慢に映るのだろう。

 それに、仏と違って神は祟るものだ。それが普通なのだ。俺は頭を掻く。


「悪かったよ」


「分かればいいんだ。さ、そろそろ行こう」


 すとん、と岩から降り立つ翔に従い、俺たちは馬のところへ戻っていった。太陽はもうじき南中に達しようとしている。暑い。枯れた大地の照り返しが暴力的だ。先はまだまだ長そうである。




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