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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十二話 努力
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「この先光ちゃんを見つけて、元の世界に戻る方法が分かったら、皓輝くんはどうするつもりなんですか?」


 何かを考えるような仕草の後、白狐さんが訊ねた。俺はその白い顔をじっと見る。彼の眼差しに、それは、と口籠ってしまう。


「……光は、元の世界に戻るべきです。その部分は揺らぎません」


 続きを言うか迷った。あの峡谷の底で、俺は自分で結論を出してしまった。屋上に立ったときと同じ、俺はもう母さんには必要ないという結論を。


 結局、首を左右に振った。「……俺の今後に関しては、何も言えません」


 翔は俺が伏せたことまで汲み取ったようだった。時折、翔は驚くほど鋭い観察眼を見せる。


「どうして」翔は苦しそうだった。「元の世界に居場所がないなら、俺たちとずっとここにいてもいいじゃないか」


 俺はその誘いを受け取れない。母さんのいない場所で生きなければならない苦痛は、どれだけ言葉を尽くしても誰にも理解されないだろう。余生は、俺には必要ない。

 今は目的がある。そう思えば多少は前向きな気持ちになれた。光の問題を片付けたら、やっと、死ねる。やっと。安堵の息を、翔が遮る。


「もし、もしだよ」それは慎重な言葉遣いだったが、どこか挑戦的でもあった。「理由がなければ生きられないのならさ。俺や白狐さんじゃ駄目なのか?」


「……駄目って?」


「俺たちが生きて欲しいって言えば、お前の生きる理由にならない?」


「ならない」言ってしまった後で即答すぎたと反省し、「残念ながら」と申し訳程度に付け加える。透明な硝子にひびを入れてしまったような感触があった。


 そうかぁ、と間延びした相槌を打った翔は、さほど傷心した様子もなく、むしろまっすぐ俺の顔を凝視している。それは俺を見ているようで見ていない、妙に焦点の合わない目だった。

 翔を傷つけてしまったかもしれない、と俺は心配をした。俺の態度はいつも、恩人に対してあるべき礼を欠いている。

 白狐さんが口を開く。


「僕はどちらでも構いませんが」


 二人分の視線を受け止め、世捨て人の主は微笑んだ。昼下がりの光が、彼の肌や髪を雪のように照らしている。


「しかし、まずは光ちゃんの意見を聞くべきだと思いますね。元の世界に戻りたいかどうか、きちんと聞いてみなくては。こればかりは皓輝くんが一人で決める訳にはいかないでしょう」


「……」


 光の意見なんてどうでもいい、と本来ならば言っていたが、俺は黙った。今更そうした振る舞いをしたところで、所詮は強がりにしかならなかった。元の世界に戻ることを光が初めから承諾していたなら、こんなことにはならなかったのだ。これもまた、俺の怠慢なのだろう。


「僕は、皓輝くんの生き方に反対はしませんよ。大切な誰かのために生涯を捧げるのも、またひとつの人生でしょうから」


 彼はずっと、俺と光に公平な態度を取っている。俺たち兄妹の背景にあるものを知る前も、知った後も。そのことが、今は有難かった。

 そのまま白狐さんは畳の間を後にした。どうやら夕餉の仕込みに行ってしまったらしい。

 残された俺は翔と共に、日差しに照る庭を眺めていた。垂れ下がる葦の日除けが影をつくっている。息を吸い込めばむせかえるような草いきれの匂いがした。ため息をひとつ。気を整えるように落とす。

 翔は何も言わなかった。もう何を言っても無駄だと悟ったのかもしれない。ただ手元の、数学の問題を眺めている。


「そうか」


 長く黙った後、翔が言った。透き通る淡いまつ毛が、瞬きを思い出して上下する。


「こういうのは全部、皓輝の努力の結晶なんだな」


「……」


 俺は肯定も否定もしなかった。再び筆を手に、問題を解き始めた翔を眺めながら、俺は自分の右腕をそっとさする。


「白狐さんの手伝いでもしよう」


 答え合わせを終えた後、俺はそう言って翔とともに閑散とした居間を抜け、白狐さんがいる厨へ向かう。

 薄暗く狭い調理場、竈で屈んで火を熾していた白狐さんは、話を聞いては快く手伝いを承諾してくれた。


「それでは、これをお任せしてもいいでしょうか」と、棚の傍にあった器材を手渡してくる。陶器のすり鉢とすりこ木と、昨晩の残りの海老の殻。大ぶりの海老の殻を、粉末に砕いて材料にするのだ。


 縁側に腰掛けた俺たちは、日除けの陰に座って作業を始めた。板間に胡坐をかく翔は、鼻歌混じりに手を動かしている。

 一晩干された殻は水分が抜け、半透明に乾燥していた。すり鉢とすりこ木の擦れるごりごりという重い音。器の中の海老の殻は見る間に細かく擦り潰れていく。甘い磯の香りが鼻先をくすぐった。右腕で作業するには丁度いいリハビリだ。


「いい香りだなぁ」


「そうだな」


 殻を粉砕していた俺は朴のすりこ木を鉢の縁で叩き、柔らかな淡紅の粉末を落とす。そしてそこに少しずつ片栗の粉を加えて混ぜ合わせた。粉が飛び散ってしまわないよう、慎重に。

 昼下がりの蒸し暑さが、徐々に夕影に沈みつつある。湿った気が草の間から薫った。縁側に並び、いつしか会話もなく手も休めていた俺たちは、何をするでもなく斜陽を眺める。

 ぽっと炎を灯したような夕焼け。それが蒼空と溶け合い、西の空は一面紫に染まっていた。暮れの雲は鳥の羽のようだ。ふわり、千切れたよう宙に舞っている。頬を撫でる風はもう随分と涼しくなっていた。



 ***



 夜、俺は寝具の上に膝を立てて座っている。


 夏至祭には明日の朝出発する。もうあまり日がないので、かなり急ぐ旅になるだろう。必要なものを揃えてくれた白狐さんに俺は終始恐縮しきりだった。そんな俺の居心地の悪さを察したか、彼は見返りとしてひとつのささやかな条件を出した。


「……」


 俺は不自由な右腕を軽く持ち上げる。手首に軽い感触が触れ、それが滑り落ちて途中で止まる。暗がりの中にあっても鮮やかな、吉祥の紐がそこに結ばれている。

 〈吉月(ジユイ)〉の日に俺が千切ったものを、翔が拾い集め、白狐さんが編み直したのだという。赤色の紐は隙間なく編まれ、瑪瑙や真鍮の飾りが配されている。光が作ったものがどういう出来だったのかよく覚えていない。


「では、光ちゃんを見つけるまでこれを付けていてください」とにこやかに吉祥の紐を差し出してきた白狐さんは、初めからこのつもりだったのだろうか。


 俺は困惑しながら、その条件を承諾した。正直なところ、この程度で今までの衣食住の世話や旅支度の分まで賄えるとは全然思えなかったが、どれだけ言っても白狐さんはそれ以上俺に何も求めようとはしなかった。

 紐をつける程度なら、と頷いたものの、この紐について腹が立たないかと言えば嘘になる。未だに見れば見るほどむかむかと胸焼けが込み上げるが、逆に、自分を激励するのにこれ以上誂え向きの物もそうないだろう。

 俺は瑪瑙のひとつを軽く摘まんで引っ張り、これを作ったときの光の感情についてはなるべく考えないようにする。俺のやるべきことはただひとつ、光を元の世界に帰すことだ。紐にちなんだ願掛けなどという生易しい迷信ではない。絶対だ。元々俺の同意なく結ばれた紐である。どう解釈しようが俺の勝手だ。俺はそう信じている。


 何としても、あと六日後の涼省の夏至祭へ行かなくては。



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