Ⅳ
俺が四歳になったとき、妹が産まれた。子どもが生まれる仕組みを知らない俺は、母さんが数日家を空けたかと思えば、突然見たこともない小さな赤ん坊を抱えて帰宅したのに仰天したのを覚えている。
妹という生き物が出来た俺の反応は、恐らく他の幼児と変わらなかっただろう。
まずは純粋に興味を持った。元より自分より小さな子どもと関わる機会の少なかった俺である。ただ無力で泣き声ばかりが耳障りな赤ん坊の光は、物珍しく映った。
幼い光の顔は父さんにも母さんにも似ていた。俺とは違って。
次に癪に障った。よくある話だ。母さんが光にばかり構うので俺は面白くなかった。自分だけ置いて行かれた気持ちになった。
そして、あのときの自分が何をしようとしていたのかよく覚えていないのだが……ある日俺は、母さんが目を離した隙に眠っている光のベッドに近付いたのである。
仕返しのつもりだったのかもしれない。自分以外の誰かに母さんが気を取られているのが不満だったのかもしれない。高さのある乳幼児用のベッドに無理によじ登り、気に食わない妹の寝顔を覗き込んだ。無防備だな、と。
ただ、覗き込んだだけだった。それなのに直後、俺は生まれて初めて母さんに怒鳴られたのである。
それまで叱られたことはあれど、真っ向から怒鳴られた経験はなかった。初めて母さんの神経質な怒声を聞いた衝撃は相当なものだったのだろう。
今でも鮮明に覚えている。何故自分が怒られたのか酷く混乱し、母さんは自分よりもあの妹のほうが大事なのかもしれないと訳の分からない恐怖に襲われて泣いた。
そして、その日から俺は光が嫌いになった。
今にしてみれば大袈裟に思われるだろうか。母さんが声を荒げたのも、単に俺の悪戯を止めようとしただけに過ぎない。それ以上の意味などなかった、はずだ。
しかし皮肉なことにその後のことを視野に入れると、決して俺が抱いた懸念は間違いではなかったのである。
少しずつ、俺の周囲の空気が変わりつつあった。光の誕生から二年後、地元の私立小学校入学を果たした俺は徐々にその異変を肌で感じ始める。
いつの頃からだっただろう。母さんの俺に対する態度がどこか余所余所しくなったのは。新たな環境の中、忙しない日々に振り回されながらも、今までの母さんを知る俺の目にそれは顕著に映った。
俺に向けられる曖昧な眼差し、取るに足らない仕草の一つ一つ。日常の呼吸の拍が目に見えない速度でずれていく。母さんが掛けてくれる何気ない言葉も次第に減り、親子として当たり前の距離すら開いていった。
何故そんなことになってしまったのか。俺が知るのは随分後になってからである。
母さんは光を産むことで刻夜家に証明したのだ。“普通”の子どもを産めるのだということを。蜥蜴によく似た長男が生まれたのは、決して自分のせいではないということを。
何より大きかったのは刻夜家の祖母たちが“普通”の赤ん坊である光を甚く気に行ったことである。その可愛がり方は溺愛と言っても過言ではない。それまで母さんをいびる筆頭だった彼女たちが光の存在を許容したことはあまりにも大きかった。
果たして母さんにどのような心情の変化があったのか、今となっては推測する他ない。
ただ、損得勘定で考えれば彼女が俺を愛し続けるメリットや必要はどこにもないのである。自分によく似て、それも刻夜家にも認められている光の方が何百倍も可愛かったのは確かだ。
母さんは疲れてしまったのかもしれない。世間の怪訝な目に怯え、“自分の子ども”という理由だけで化け物のような俺を育て続けることに。名聞を重んじる刻夜家の人々に不名誉と因縁をつけて吊し上げられることに。
そうして己の立場の新たな可能性に気付いたとき、母さんは俺の手を離してしまったのだった。
あの人は母親である前に人間だった。それだけだ。いつしか母さんが俺を見る眼は、祖母たちのそれと同じものに変わり──十にも満たない俺にも、彼女にとって自分が要らない子になったということくらいは理解出来た。
そして同じ頃、学校の中で容姿に関する疎外感を味わうことで、自分が“普通”子どもに比べてどれだけ異質な存在であるかを痛感したのである。
その異質さが、両親や刻夜家親類縁者から疎まれた最も大きな悪因であると知るのにそう時間はかからなかった。
母さんは変わってしまった。必要以上に世間体を重んじ、神経質に振舞うようになった。
光が産まれて以来、母さんと祖母がどことなく仲良くなったように見えたのも気のせいではないだろう。敵の敵は味方だと言う。俺を共通の敵とすることで、嫁姑の間にあった軋轢は見事に解消されたという訳だ。
でも俺は幸せだった。それが俺に向けられたものでなかったとしても、母さんがあの昔の愛しい笑顔でいてくれるのなら。
だから、あの人のためなら何でもやると決めたのだ。消耗品だって構わない。嫌われようが憎まれようが努力を踏み躙られようが、それでも母さんは俺を愛してくれた。その記憶は色褪せない。彼女のために生涯を捧げる理由など、それだけで充分だった。
「俺はあの人が俺を愛してくれていたことも知っているし、俺を憎むようになった訳も知っている。だから嫌いになんてなる訳がない」
翔に視線を向けると、その目が彷徨ってから伏せられる。そういうものか、と呟きが聞こえた。
「……でも、それって」白狐さんが首を捻る。「皓輝くんは辛くないのですか?」
率直な疑問に、冷たい水に足を浸したような感覚がある。
「辛いと思うのは、多分俺がまだ母さんに期待をしていたからなんでしょうね」
厄介なことに、こんな俺もちゃんと傷つくのだ。
どんなに両親の気を引こうとしても全て空回りだった。運動会も学芸会も参観日も学校行事はいつも一人で、言い訳も尽きて周囲の怪訝な視線に耐えていた。
両親の望む子ども像に近づけばいいのではないか、と俺は考えた。そうすれば昔のように、という淡い期待が確かにあった。
「光がもっと小さかった頃は、母さんにも父さんにも認めてもらえるよう色々な努力をしました。見た目はどうにもならないけど、せめて中身は、と」
元々エリート志向の強い家風である。世間体を気にする彼らは、年端もゆかぬ子どもにも人並み以上の才能を求めた。
決して物覚えのいい方ではない。勉強よりも運動する方が性に合っていた。それでも俺は必死に机に噛り付いて学業に励んだのだ。母さんに捨てられたくない。その一心で。
友達と呼べるものはいなかった。容姿からして避けられることも多く、学校で後ろ指さされることも少なくない。陰口にも同情にも耳を塞ぎたくなったが、そんなことよりも勉学に打ち込むことが俺には何よりも優先すべきことだった。
しかし、その成果も結局日の目を浴びることはなかった。俺が優れていると光にとって都合が悪いと気づいたのだ。俺は徐々に、自分よりも光の方が母さんを幸せに出来るのではないかと考え始めた。
そしてやはり決定的だったのは、あの夜のこと。夜遅く、リビングのソファで母さんがひっそり泣いていた日。とっくに関心など失われていたのだと思っていたのに、実は俺を理解しようとしていた母さんが、陰で味わっていた無力感や恐怖を目の当たりにした日。
俺が生きている限り、俺という存在は小さな畏怖となって母さんの心に引っかかり続けるだろう。相互不理解の恐怖、後悔、痛み──それらを彼女の中から完全に消し去るには、こうするのが最適だったのだ。
泣いている母さんの姿は無様で、不条理で、惨めだった。しかしその姿を見たとき、ショックであると同時に俺は本当に本当に、心からこの人を愛してしまっている自分に気づいた。どれだけ弱く愚かであろうと、世間から非難される人格であろうと、俺はこの人を嫌いになれない。そう思ってしまった。
守らなくてはならない。俺はこの人のために何でもやるのだ。世間は母さんのしたことを許さないかもしれない。だからこそ、俺だけは母さんを見捨ててはいけない。母さんがかつて、俺にそうしてくれたように。
「自死は完全な服従宣言のつもりでした。母さんはどんなルールも拒まず、全てを許す俺のことを怖がっていましたが、かといって俺に憎まれ、復讐されたらもっと怯えるでしょう。あの人はそういう人です。俺に関わるあらゆる可能性をゼロにしなければ、この人は幸せには生きられないかもしれない、と思ったんです」
俺は白狐さんの顔を見つめる。実際、完全に割り切れていたわけではない。屋上に立って尚、いやその後でさえも俺は時々母さんのことを思い出しては自分の気持ちを見失い、混乱する。どうすれば良かったのか、考えてしまう。
「もっと他にいい方法があったのかもしれない、と最近は思います……でも、もしもを繰り返してみても現実は変わりません。結局俺は、自分にできることをやるだけです。母さんのために努力できることが、俺の唯一の取り柄です」
「変だよ」面を上げて目が合った翔の顔は、何だかとても悲しそうだった。俺以上に。
「俺は親の立場になったことはないけどさ。自分の実の子どもを、そこまで憎めるものなのか?」
応えようがない。親の立場になったことがないのは俺も同じだ。「さあ、な。でも本人がそうなんだから、そうなんだろう」
「……お前はそれでいいの?」
「いい?」
「そうやってずっと母親を許し続けて、その先に何があるの?」
許す? と聞き返す。そもそも俺は許す許さないの立場にいないのだ、と言っても分かって貰えないだろう。まだ、俺は彼女を愛している。
ぶつぶつ何かを呟いていた翔は、言葉にすればするほど腹が立ってきたのか、だんだん拗ねた子どものような顔になる。
「大体、子どもを産むのは親の都合だろ。最低限の責任を負うべきなんじゃないのか? こんな言い方はあまり好きじゃないんだけど、お前だって好きで生まれてきた訳じゃないだろ」
「母さんだって好きでこんな息子産んだ訳じゃない」苦労して肩を竦める。「選ぶ権利がないのは親も同じだ」
一瞬言葉に詰まった翔は、眉を顰めた。言いにくそうにこちらに視線を注ぐ。
「でも、それじゃお前は不幸なままだ」
「……いいだろ、別に」
「いや、でもやっぱり」
「いいんだ」翔の言葉を正面から遮り、俺はまくしたてるように言った。
「いいんだ。そう言わせてくれ。心から満足しているだなんて思ってないけど、でも俺はもうそれしかなかったんだ。他に選びようがなかったんだ。母さんが俺のことを想ってくれなくても、母さんが幸せでいてくれるなら俺も幸せなんだ。そんなささやかな自己満足くらい許してくれ。頼むから」
翔は押し黙ってしまった。
頭がおかしいなど、今更言われるまでもない。でも、しょうがないじゃないか。好きなのだ。誰よりも大事な人なのだ。世界に一人の母親だ。
お道化たように玩具で俺を笑わせてくれたことも、膝に乗せて絵本を読んでくれたことも、オーブンから漂ってくる焼き菓子の匂いも、昼寝する俺の髪をずっと撫でてくれていたことも、俺はちゃんと覚えている。
何も知らない奴に悪く言われて堪るか。
翔はまだ何か言いたげだった。目を見開き、じっと俺を凝視している。俺は顔を上げられない。きっとその瞳に映るのは憐れみなのだろう。




