Ⅴ
地の底から這い上がるような獣の唸り声、爪のある前足で地面を掴む音、泥のような血生臭さ。恐怖と混乱に陥った森の一角で、俺はゆっくりと顔を上げた。暗闇に差す、一筋の白い光が見えた。水の中にいるように、全ての動きが緩慢に見えた。
運悪く襲われた幾人かの賊たちは倒れ伏して地面に転がっている。笹薮に黒ずんだ液体が散っている。木々の隙間から零れた月明り、俺は更にその上へと目線を誘われた。鬱蒼とした森の陰が束の間だけ消える。
不思議なことに、その人が現れた途端に暗雲が晴れたようだった。
あっと声が漏れかけた。──光がいた。そしてそれを庇うよう、人が、少なくとも人の形を持ったものがそこに立っている。
古ぼけた木々の間に佇むその輪郭は、淡い光の中にぼやけている。冷ややかで、凍えるほど色に乏しい。粗末な装いをして、それでいて髪の毛は恐ろしいほど真っ白で美しかった。
年齢は勿論、男なのか女なのか分からない。周囲の時間が止まったようだった。その人には右目がなかったが、それがまた奇妙に心を惹きつけられた──俺に少しでも信心があれば、月の神か何かが地上に舞い降りたと思ったに違いなかった。
「今晩は」
その人は、恐らく俺に向けてそう言った。どうやら男のようだった。しかしあまりにそれが現実味のない綺麗な微笑みだったので、俺は絵画の中の人物に話しかけられたような気持ちになる。
彼の背後には先程走り去ったはずの妹が隠れるように立っていた。俺は混乱して、どうして戻ってきたんだとそればかり考える。声が出ない。毒のせいなのか、周辺のものは透明な膜の向こうにあるよう焦点が合わず、遅く見えた。
賊の断末魔が、その倒れる影と共に頭上を横切る。獣が地面から軽々と跳躍し、逃げ惑う一味を追い立てている。
「世捨て人だ……」倒れ伏した誰かが囁いた。それは畏怖の念に震えていた。「長遐の世捨て人だ……」
世捨て人。そう呼ばれた彼は、何の感慨もなさそうに地面でのたうち回る賊どもを一瞥した。気の毒に、どう見ても逃げ遅れていた。
「失せろ」
男のうちの一人が、立ち上がることもままならない苛立ちから唾を吐く。品はなかったが、殺気と凄味があった。
「逸れ者同士、俺たちの商売に口を出さないで貰おう」
「逸れ者? あなたたちと同じにしないで頂きたい」
急に大きな声を出したので、俺も、そして残党も一様にびくりと震える。決して怒鳴った訳でもないのに、世捨て人の声は心臓を内側から握るような響きを伴っていた。
「世は捨てていても流儀はあります。あなたたちに分かってもらう必要はありません」
涼しげな佇まいとは裏腹に吐かれた言葉は辛辣だった。
「弱きものばかり狙う人狩りなど、悪霊に喰われるのがお似合いですよ」
しんと水を打ったように静まる山林の陰。俺は自分の耳が信じられず、悪霊という耳慣れない語とすぐそこで怒り散らしている獣を一致させるのに随分かかる。
「その口で道理を語るな、洒落臭いわ!」
俺は油断していた。
それはあっという間の出来事だった。己の肩が武骨な手に掴まれ、何かが降り上げられるのを感じた。ひゅうと鋭いものが空気を切る音。何が何やら分からぬまま、視界が反転する。直後、耳元で断末魔になり損ねた、低く醜い呻きが漏れた。
「──子どもに八つ当たりなんて大人げないですよ。恥を知りなさい」
視界が定まれば、顔に触れるほどのところに透き通った白髪が垂れ下がり、端正な顔が目の前にあった。硝子玉のような眼球は、俺の肩の向こうを凝視している。
俺は目玉の動く限り、自身の置かれている状況を目で見ようと試みる。すぐ耳の下に金属の刃が掠った。白髪の世捨て人が握る刀だ。いつの間にこんなものが。あと僅かにでも動けば俺の右耳は削ぎ落とされるに違いない。
その切っ先は、俺の肩を掴んだまま動かない賊の喉を一突きにしていた。自棄になって俺を手に掛けようとしたのか、人質として捕らえるつもりだったのか、だらりと垂れた手に短刀を握ったまま。
苔の地面に頬を付いたその顔が目に入る。驚きで目を剥き、半ば口を開け、恐ろしい表情を硬直させていた。喉元は赤黒い血に染まり、ひくひくとまだ動脈が痙攣している。
──絶命した。呆気にとられる。死体は人形のようだった。こんなにも簡単に、人が死ぬのかと。恐らく、死んだ本人でさえ何が起こったのか最後まで理解出来なかっただろう。
ひい、と叫び声。仲間の死に様か、或は世捨て人の体温のない流し目か。周囲に散らばるようにして様子を窺っていた人狩りの残党どもは、賢いものはとうの昔にとんずらしたと見え、悪霊の毒に侵され、最早情けなく腰を抜かすのみとなっていた。
逃げることも立ち向かうこともままならず、例え彼らが総出で斬りかかったところでその頭数と同じだけの死体がここに転がるだけだろうという予測は、俺にも出来る。
更に悪いことに、彼らの敵はこの世捨て人だけではなかった。
けたたましく、獣が吼えた。あの蜮と呼ばれた悪霊だ。血の匂いに興奮しているらしい。ずるりと何とも形容しがたい音とともに刀を引き抜いた世捨て人は、息ひとつ乱さず、ただ咎めるように「駄目ですよ」と言った。
「この子は駄目です」
人を葬ったそれとは思えぬ丁寧な手で、この俺の上体を助け起こす。
もう俺は限界だった。ぐらり、背中が地から浮かされた途端、冷たい汗が噴き出て、音も感覚も霧の向こうに遠ざかる。
──手足が冷えていく。
貧血など起こしている場合ではない。俺は弱々しく呼気を吐くが、体内を巡る毒もあって、意識が緩む。この俺を介抱せんとするこの人を味方と判別すべきか、全く分からなかった。考える力はもう底をついていた。
しかし、こちらの選択肢は限りなく少ない。俺は、縋るような気持ちで切れた唇を動かしていた。
「ひ、かり……」
「うん?」
「ひかりを……」
この世捨て人を連れて来たらしい、あいつのことが気がかりだった。この場所から速やかに遠ざかってほしい。賊の生き残りが光を見つけないとも限らない。譫言のように妹の名を繰り返す。説明を試みるが、もう言葉が続かない。
それでも彼は、只ならぬ俺の様子に何か感じ取ってくれたらしい。ひとつ笑みを零して「安心して下さい」と綺麗な歯を覗かせる。
そのことに安堵した訳でもないだろうが、俺は手足が萎え、急速に力が抜けていくのを感じた。
遠くで異形の獣が吼えた。その声はいつまでも、闇を震撼させていた。むっと口を塞ぎたくなるような悪臭。向こうで何が行われているのか想像したくない。喉の奥が粘つく。
痛みと倦怠感が、毒に蝕まれた俺の意識を遠のかせ、やがて何も分からなくなった。