Ⅱ
翔が勉強を見てほしいと言うので、俺たちは居間へ移動して低い卓を占領した。白狐さんは先程までに明日の出発に必要な現金を数えて用意してくれていたようだが、金銭が絡むと俺が遠慮するのが分かっているのか、今は片付けて厨にいるらしい。
卓の上に広げたノート代わりの冊子本には〈吉月〉の前まで教えていた数式が並んでいる。正直すぐに飽きて挫折するのではという俺の予想に反し、翔はとても熱心だった。今日は俺が教え易いよう、孑宸皇国の数学書まで持ってくるので俺も真面目に取り組まざるを得ない。
「今日は分数の計算を教える」
「それって難しいか?」
「いや、この国に俺の知っている分数の計算方法がなさそうだから改めて教えるだけだ。小学生で習うものだから、一次方程式よりむしろ難易度は下がっているよ」
翔がほっとしている。俺は左手で数学書をぱらぱら捲り、孑宸語の分数をどうやってアラビア数字の数式に変換するか考えながら問題を作る。口頭で指示を出すだけでも、翔はすぐに分数の足し算と引き算を覚えた。
「小学生で習うってことは、光も出来るのか?」
三分の一足す五分の三の分母を揃えて解く翔がふと呟き、すぐ俺の顔を見て曖昧な顔をする。そのとき白狐さんがおやつを持って戻ってきたので、俺は答えず仕舞いだった。多分、光も習っていただろう。
白狐さんが黒い陶磁器に入れて持ってきてくれたのは、柑橘をゼリー状にした冷たいおやつだった。白狐さんは俺が寝込んでいる間、俺が食べられるよう柔らかくて甘い豆花や果実のゼリー菓子をよく作ってくれていた。
東大陸では、砂糖黍が育たないので、甘味に使われる砂糖は西大陸からの舶来品、すなわちかなり高価な代物である。白狐さんは、僕は甘いものが好きなので、とあっけらかんとしているが、どこからその金が出てくるのかやはり疑問ではある。
いただきます、とめいめいが匙で掬って口に運ぶ。蜜柑に似た甘さのある柑橘の香りがして、仄かに甘い。金属の匙が磁器にぶつかる硬い音が響く。やがて白狐さんが、空の器を手で温めるよう膝に下ろした。
「……光ちゃんのことは、僕たちも責任を感じているのですよ」
先程のやり取りを聞き齧ったのだろう。翔がその後を引き継ぐ。
「光にあれほどの行動力があると分かっていたら……」翔の目は、宙に煌めく細かな塵を追っていた。「俺も白狐さんも、子どもの危うさや愚かしさを侮っていたんだ」
反射的に、俺は言う。
「俺のせいだよ」
「いいや、俺たちのせいだ」
「……」
「後悔しているよ。もっとお前たちと話し合っていたら、お互いを知れていたら、もう少し上手く、いい感じに出来たんじゃないか。最悪な事態を避けることが出来たんじゃないかって」
俺は、二人の物言いを不思議に思う。そんな風に世捨て人たちが責任を感じる必要なんてないのに。
昼下がりの庭先の景色が縁側越しに見える。なだらかな地面に落ちる強烈な木漏れ日。小綺麗に手入れされた紫陽花の周りを蜂が飛び、蝉が樹上で喚いている。
柑橘の粒を器用に匙で集めて啜った翔は、卓に器を置きながら俺と目を合わせる。
「〈火陽〉のことをお前に教えたのはあの三光鳥なんだな?」
「……ああ」
「僕も話には聞きましたが、その喋る鳥が本当に信用に値するかどうかきちんと考えた方が良いのでは?」
俺は二人の顔を順に見て、ゆっくり頷く。三光鳥を信用すべきでないという考えについては俺も同じだった。あの鳥の想定通りに動けば、俺が望まない別の破滅が訪れるような予感があった。
ただ、俺にとって精神的な錨のような存在であることもまた事実だ。この文明世界での生活に微睡みそうになる怠惰な意識を呼び醒ますための、現実への錨──少なくとも三光鳥は、何らかの方法で元の世界の情報を得ている。それだけで俺には無視し難い説得力がある。
「上手く利用してやるつもりです」静かに言ったつもりだが、現状を思えば強がりに聞こえたかもしれない。
束の間、沈黙が流れた。二人はこちらにそれとなく我慢強い関心を向けている。多分、彼らはあれからずっと俺に気を遣って、肝要なことを訊かないでいてくれる。数日山を彷徨っている間に、生きる気力さえ失っていた俺がどうして、光を探すことを決意したのか。
俺は自分の右腕を支えながら、少し曲げる。やがて決意して、話した。
「三光鳥が教えてくれたのは、そう大した話ではないんです。両親が向こうの世界で、俺の捜索願いを出したらしいと──それだけです」
「ソウサク、ネガイ」
向かいに座る翔は、たどたどしい発音でなぞった。何度か口を開けたり閉めたりした後、眉を下げる。
「それは、ええと」
「公的な機関に出す、行方不明になった人を探してもらうための届け出のことだよ。行方不明者届けっていうか」
「尋ね人ということですか」
俺は白狐さんに頷いた。
元の世界から光とともに姿を消してから早三ヶ月。ようやく俺の存在が公になったのである。すぐに警察に指定の捜査対象とされ、その不自然さから事件性もあるとして大々的に取り上げられた妹とは対照的だ。
「一向に光が見つからないから、渋々俺の捜索願も出したらしいです。あいつが行方不明になったことと俺が行方不明になったことが関連しているのは明らかですから。両親は、飽くまで隠し通しておきたかったようですが……」
いつかこうなるとは思っていた。部屋の隅の暗がりを見据え、俺は呟いた。
三光鳥から聞いた話によれば、小学校五年生の少女不明事件は地元の一部を騒がせる話題にはなったが、やがて時が経つにつれ人々の関心から薄れていったという。
無理もない。人間というのは飽き性なもので、当事者を除けば進捗のない一事件に絶えず関心を払い続ける者は稀だ。
数週間もすればほとぼりも冷めてしまい、そのせいでもないだろうが、地道な捜索も各メディアでの呼びかけも実ることはなかった。必死の思いで街中に貼られたビラも風景の一部と化した。
彼らが不審に思われることも覚悟の上で俺の存在を世間に公表したのは、もちろん光のためだろう。捜査が難航し手がかりが必要になったに違いない。
同時に行方を眩ませた未成年者のことを、長期間に渡って隠蔽し続けた咎を負うことにはなったが──それを厭わないほどに彼らが切羽詰まった心境であることは、想像に難くない。
まあ、そもそもおかしいのだ。メディアで少女不明を騒いでおきながら、その兄の存在を思い出さなかった人間が一人もいなかったとは到底思えない。
俺は父方の親類たちが裏でどんな手を回していたかなどさして興味はなかった。重要なのは、一連の騒動で母さんがどんな心情に置かれているかということ。それだけだ。
「そうか」
翔は目線を少し浮かせた。捜索願というものの比重を翔なりに測っているようだった。
「……向こうの世界を探し続ける限り、お前と光が見つかることはないんだよな」
「ああ……」
二人には、それだけで充分に伝わったようだった。蝉が鳴いている。古びた木壁に反響し、しゃがれた羽音が籠もって聞こえた。白狐さんは目を伏せている。
「なあ、怒らないで聞いて欲しいんだけど」
おもむろに翔が口を開いたので、俺の瞬きがぴたりと止まる。目が合えば口許から気を遣っているのが見て取れた。
「お前は一度でも……母親のことが、嫌いになったことはないの?」
少しの間呼吸を止め、俺は目を伏せる。「ああ」
「一度も?」
「嫌いなのは、母さんの期待に沿えない自分自身だ」
「……」
翔は黙ってしまった。何も言えなくなってしまったような面持ちだった。ただ、その眼差しは控えめにこちらの顔色を窺っていた。
「親と子は別個の存在だとどれだけ主張しても、そう思わない人も大勢いるのです」
意外にも俺の肩を持ったのは白狐さんだった。
「親にとって子はある意味、己の人生の成績表のようなものなのですよ。血を分けた存在である以上、いえ仮に血が繋がっていなかったとしても、どうしても我が子の中にある己の面影を無視できぬのです。賢い子ほど、その視線に気づいてしまう。真の意味で、子に無関心でいられる親は滅多にいません。例え親が、どれほど子のためだと自身に言い聞かせていても、ね」
白狐さんのにこやかな口ぶりに、俺は少し戸惑う。翔が反論する。
「でも、だからといって子どもが一方的に搾取されるのはやり過ぎなんじゃないですか? 親は三度諫めて聞く耳を持たなければ諦めて従うべし、なんて言いますが、俺はあまりそう思えないというか」
翔の引用を聞いて、白狐さんはただ微笑んでいた。手を伸ばしてその髪を慈しむように撫でる様子は、母親のようだった。そして、俺に向き直る。
「ねえ、皓輝くんがそれほどまでお母さんに拘るのは、皓輝くんがお母さんのことを弱い人だと思っているからじゃないですか?」
俺ははっと顔を上げる。世捨て人の主の透明な目を見ると、絵画の中の人のような微笑がそこにあった。図星だった。
「……はい」
素直に頷く気になれたのは、白狐さんの口調のどこにも咎めるような色がなかったためだ。俺はそこで初めて白狐さんの中に、己と似たものがあることに気が付いた。慇懃に振舞うことで、自分以外の何かを守ろうとする自覚的に内気な態度。それは飽くまでも少し似ているだけで、全く同じではなかったが、三か月ほど共に生活していたのに今になって気づくのは不思議な気分だった。
これまで彼がどのような生き方をしてきたのか、俺はよく知らないけれど。
「皓輝くんの気に障ったならすみません」
白狐さんはすぐに謝った。そういうところは大人だ。俺は少し息を吸って、「いいえ」と首を振る。なんと続けて良いかわからなかったので、言葉が曖昧に宙に浮く。
「──その」
「……」
翔の言う通り、理解されなくとも、知ってもらうこと自体に意味があるのだろうか、と俺は思い始めている。どの道、こんなにも世話をしてくれる二人に、俺が返せるのはこんな話しかない。
「話して理解が得られるか分からないけど……聞いてもらえますか」
俺は世捨て人たちの顔を見回す。
「俺の母さんのことを」
彼らはそれぞれの面持ちで頷いた。




