Ⅰ
夕餉の席で、俺は世捨て人たちに相談をした。
「夏至祭に行きたいんです」
翔は平たい饂飩を箸で持ち上げたままきょとんとした。柑橘を絞った汁が、ぽたりと椀に落ちる。
彩り鮮やかな夏野菜の膳が、沈黙と灯の下で煌めいていた。小麦粉を練って作った手製の饂飩はよく冷えて、裏の畑で採れたばかりの野菜は新鮮である。うどんと言えば日本人にとって名こそ馴染み深いが、この世界の饂飩は麺類というより餅の一種として食べられる。形状はばらつきのあるワンタンの皮のようで、啜って食べるものではない。
「もしかして〈火陽〉の夏至祭のことか?」
俺は翔に頷く。箸は置いたまま、食事には手を付けていない。
「どうしてまた……」
発端は峡谷の底で、三光鳥が去り際に俺に言い残した言葉だった。困惑する二人に、俺は平坦な声で説明をする。
「光は奴隷商人に攫われて、まだ生きているそうです。そして〈火陽〉は夏至を祝う祭りであると同時に、大規模な市が立つ日でもあると聞きました。特に、国内では最大規模の奴隷市が開かれると」
「そこに光ちゃんがいるかもしれないと、皓輝くんは考えているのですね」
白狐さんの先取りに、俺はまた頷いた。三光鳥の言葉が脳裏を過る。「だが皓輝、貴様は行くだろう。結局、私の忠告を無視することも出来ぬのだ」──実際、その通りだった。俺は三光鳥がちらつかせた光の生存の可能性に揺らぎ、もしかすると彼の言う奴隷市で光を見つけられるかもしれないと考え始めている。
あのとき三光鳥は幾つかのことを俺に教えた。それは、自死を考えていた俺を思い留まらせる程度に、重みのある情報だった。
白狐さんは念を押すように言う。
「つまり、皓輝くんは光ちゃんを見つけたいと?」
俺は「はい」と答えた。その声は奇妙な調子で居間に響いた。やや間を空けて、俺は顔を上げる。
「身勝手なお願いなのは重々承知しています。こういうことを人に頼むとき本来用意すべき対価を俺は何も持っていません──本当に、何も。だからこれは、本当にただの一方的なお願いです。俺を夏至祭に連れて行ってください。光を探すのに協力してください。母さんを助けたいんです」
頭を下げると、再び沈黙が訪れた。影が動いて、白狐さんと翔が顔を見合わせているのが分かった。
「しかし……涼省は遠いぞ」
差し当たり翔は、遠回りしながら問題に取り掛かることにしたらしい。
この国の夏至祭である〈火陽〉は、南方の火神を守護神に据える涼省の省都で盛大に催される。
東大陸のほぼ全域を支配下に置く孑宸皇国は、省という大きな行政区間に分かれている。現在世捨て人たちが家を構えている長遐は、西の夕省の中でもさらに西端の辺境の山脈だ。
他にある省の名とは、東の朧省、南の凉省、北の冴省。四つの省にはそれぞれ首都に当たる省都が定められ、主要十六都邑の他にも小さな邑が各地に点在している。以前翔に連れて行ってもらったあの田舎の農村もその一つだろう。
どれだけ知識として地理を理解しようが、肌で感じる経験がそれに追いついていない。徒歩ならば片道で十日ほどかかる、と翔は言った。
「夏至まであと七日です。歩きで行くのは厳しいでしょう。それに皓輝くんの怪我も、まだ激しく動かさない方が良いと思います」
白狐さんの気遣わしげな視線が向く。豻に食われた俺の腕は、まだとても動かせる状態ではなかった。そもそも、今日やっと床から起き上がれた始末なのである。
「どうしても行きたいなら、貸馬を走らせて“鳴蛇の荒野”を横切るしか──あまりお勧めはしませんが」
さっと顔を青くする翔。鳴蛇の荒野とは何か。遠慮がちに訊ねる俺に、翔が囁く。
「……鳴蛇というのは、四枚の翼を持った蛇の霊だ」
「蛇の霊?」
「そう。鳴蛇は金物を打ち鳴らすように鳴いて、旱の災を降らす。話せば長くなるけど、夕省と凉省の領境には昔から鳴蛇の大群が棲みついているんだ。荒野を徘徊する鳴蛇の怒りを買えば、その年は大旱魃に見舞われると言われている」
稲作の盛んな夕省の民にとって旱魃の厄災など死活問題なのだろう。俺は少し自信を欠いて、二人の顔をちらりと見る。
「馬を借りるということは、駅家、みたいなものがあるんですか?」
「ええ。でも駅馬は官僚や、特別な権限を持った軍人しか利用を許されていません。一般人は商人の輸送組合に頼んで借りるのが普通です」
俺の方に身体を向け頷いて見せる白狐さんに、俺は続きを訊ねることができない。それは世捨て人でも借りることが出来るものなんでしょうか? 頭を下げる姿勢を保つ。
「……ともあれ、長旅には先立つものは必要です」
俺は身を強張らせる。が、白狐さんはあっさりと肩を竦めた。
「まあ、それは僕が何とかします。僕は皓輝くんの体調の方が心配です。出立するのはせめて明日一日休んでからの方が良いでしょう。大丈夫、きっと間に合います」
「俺が一緒に行きますよ。涼省省都の安居、行ったことないし」
翔の場違いに明るい声の後、まごついた沈黙が流れる。礼を言うのも、これ以上懇願の言葉を重ねるのも卑怯なように思えた。自分が弱者として彼らに取り入っているような気がした。俺はゆっくり口を開く。
「……ごめんなさい。色々と迷惑をかけて、その上でこんなお願いまでして」
白狐さんが首を横に振る。彼の白い髪がさらりと肩を滑る。
「頭を上げてください。もうそんな風に思わないでください。どうせ僕たちは世捨て人ですよ。世間から逸れた者同士、困ったときは助け合うものです」
謝るくらいなら、もう何も言わずに出ていくような真似はしないでほしいですけど、と笑う白狐さんに、俺は笑い返せない。彼らと初めて食卓を囲んだときのような、釈然としないものが胸の底に滞っている。気を取り直したよう饂飩に噛り付いた翔は、顎を動かしながら言う。
「それに、対価ならもう貰っているし」
「……何かあげたか?」
翔は左手の指を鳴らした。乾いていたのか音は出なかったが。
「俺は皓輝から数学を教えてもらっている」
翔は優しい、と俺は思う。
***
翌日。普段誰も使わない空き部屋はがらんと広く、隅の古びた書案を除けば他に調度品もない。
くり抜かれたような丸窓は青葉の景色を色鮮やかに映し、その翠緑は光に透けて床に落ちていた。薄暗い部屋は涼しく、静寂は影の中に身を潜めている。
俺は窓辺が見える位置に腰掛け、翔と向かい合っていた。
「……痛い?」
俺の右腕を膝に乗せた翔が問うてくる。俺は首を横に振った。翔の掌が包帯越しに傷口に触れている。じんわりとした温かさが伝わり、血がそこに通っているのを感じる。
曲げてみて、と言われるまま俺は肘を曲げる。次にゆっくりと伸ばす。肘周りの筋肉が萎縮し、強張っているのを感じる。痛いというより不愉快な感じがして眉を顰めるが、翔に言われるまま次は手首を、そして指を動かした。手を握ってみると、驚くほど握力が衰えていた。筆や箸を持てるようになるのか、確証が持てなかった。
「まだまだ、治るまでかかりそうだねぇ」
翔はため息をつく。多少痛んでも、関節が変に固まってしまわないよう軽い圧迫で血行を良くしたり、運動をした方が良いと言い出したのはこの翔だった。幼い頃骨折した経験があるという翔が教える所謂理学療法は、先が長そうだ。
俺が寝込んでいる間に、長遐の山岳はすっかり初夏を迎えていた。
この世捨て人の家は青々と茂る樹々に隠され、あちらこちらを流れる苔清水の端には真っ白な睡蓮や立葵が咲き乱れている。家の周囲では翔が植えた朝顔が蔓を這わせ、野趣溢れる花壁をつくっていた。そして明るい時刻は喧しいほどの蝉の声が、夜になれば森林の奥から鈴のような虫の音が絶え間なく響く。
俺がこの家に来たのはまだ三月だったのに、季節の移り変わりに眩暈がする。俺は、いつまでここにいるのだろうという考えを意識しないようにする。
昨夜のやり取りを思い返せば、ため息が出た。金銭面のことは心配しなくて良いと白狐さんは再三俺に言ったが、彼が用意しなくてはならない金額が俺には想像もつかなかった。
いっそ物凄い借金を背負わせてくれた方が気も楽なのに。真綿で首を絞めるような、彼の純粋すぎる優しさが少し辛かった。そんなことは、本人にはとても言えないが。
「翔は、白狐さんの善意に後ろめたさを感じたことはあるか?」
小さな声で訊ねると、翔は俺の腕を押さえたまま短く答えた。
「白狐さんはそういう人だから」
言わんとすることは分かった。きっと世捨て人になる前の彼は、経済的に不自由をしたことがない身分なのだろう。洗練された日常の立ち居振る舞いのみならず、他者と接するときの彼の不用心な大らかさ──優しさを手渡すことに何の躊躇もない危うさ──は、そうした生育環境を朧げに浮かび上がらせていた。
かつては俺も金銭面で困ったことはなかった。成金育ちであったため、愛情と比例しない金をぽいと投げるように渡されてきた。白狐さんは、そんな俺とは違う。もっと格式や由緒のある、血の通った裕福な人だ。
翔が口を開く。
「お前が白狐さんの善意を呑み込めていないのって、白狐さんに多少不純さがあった方が楽なのにっていうのは勝手な感情じゃん。きっと皓輝みたいなやつは、簡単にお金や労力のやり取りだけで人間関係を済ませちゃ駄目なんだよ」
「何が駄目なんだ?」
「見落としちゃうだろ、周りの人の言外の感情を」
翔は俺の肘の内側を軽く圧し、少し笑った。
光はお前のことが好きだったのに、と翔は言っていた。その言葉の意味を俺は考えないようにしていた。多分、生まれて初めて俺は光が怖かった。どうして光が俺に好意的になるのか、その意味が全く理解できなかったから。
光が俺を理解できなかったように、俺もまた光を理解できなかった。仮に話し合う機会があったとしても、相互不理解の溝はより深まるだけだったんじゃないかと思う。
俺は関節に緩く力を入れながら、顔を上げる。翔の髪の毛が、薄い色のまつ毛が日の光の中にあった。俺はまだ翔に、〈吉月〉の夜に振るった暴力のことを謝っていなかったことを思い出した。
「ごめん」
上手く言葉が継げない。翔は一瞬瞼を開き、その謝罪の意味を翔なりに受け取ったようだった。
「皓輝はさ、誰かのために全てを捧げて生きるのが、辛くはないの?」
翔が囁くように問うてくる。「怒りや自尊心さえ、誰かのために捨てられるの?」
「分からない。それ以外にどうしたらいいのか分からない」
俺は無気力に首を振る。
「お前に話してもどうせ理解されない」
「……」
そうかもね、と翔は言った。
「──でも、理解出来ないかもしれないけど、知りたいと思うよ」
俺はじっと翔の目を見たが、俺の腕を真剣に見るばかりで感情が窺えない。その透明な涙の膜が、午後の金色の光に透けている。
「皓輝の心の奥底にあるものまで全て知ることが出来たら、今度はもっとちゃんと皓輝を守れるかもしれないだろ」
「守る?」
思ってもみない言葉に、今度こそ俺は顔を上げる。引きそうになった腕を翔の手が押し留める。まだ必要なリハビリは終わっていない。
「何から?」
「理不尽な痛みや不幸から」翔は目も上げず、すらすらと言った。「いつかお前の打ちのめすかもしれない不条理な何もかもから」
「……」
「三光鳥はお前がたくさんの人を不幸にしながら転落してゆくだろうと言っていた。その予言が具体的に何を指しているかは分からないけど……そんな風に幸福や不幸が誰かに決め付けられていいはずがない。あの三光鳥が何と言おうと、俺は断固として運命と戦うよ」
〈吉月〉の夜、翔は三光鳥と何かを話したのかもしれない。確かに三光鳥の口ぶりにはいつも、運命を確定的なものとして語る不可解な自信があった。あの鳥の言うことに従って〈火陽〉へ行くのが本当に正しいのか、正直なところ確信が持てない。
しかし、やはり俺は行くだろう。行くしかないのだ。例え俺の選択がまやかしで、実際はただ破滅に向かう一本の道だったとしても、俺は最後まで歩き切るしかない。途中で引き返して自分だけ生き残るような、そんな半端な生き方はどうしてもしたくないのだ。
「……」
それを声に出す気はなかったが、もし言えばこの翔はどこまで俺を止めてくれるのだろう。どの段階になったらやっと諦めるのだろう? そんな好奇心のようなものが一抹過る。
翔の指で圧迫されている箇所の血行が良くなり、温かくなっている。最後に翔は包帯を外し、新しいものできれいに巻き直した。傷口は未だに悲惨なままだが、以前に比べれば信じられないほど回復している。
少なくとも今はそれが良いことだと、俺は思い込もうとしている。




