Ⅵ
ようやく意識を取り戻したとき、俺は深い暗闇の中で倒れていた。身体の節々が痛い。高い場所から転がり落ちたよう、全身が泥と擦り傷だらけになっている。
鼓膜を圧す激しい水音がして、手足が麻痺するほど冷えていた。ぼんやりした視界、遠くに青い光が見えた。空気は冴え、青い光は遥か頭上にある夜空だと分かった。
「この谷に飛び降りて、大勢のネクロ・エグロが死んだ」
不意にすぐ傍から声が聞こえた。俺は音を辿り、傍にある痩せた灌木の枝に留まっている小鳥の姿を辛うじて見止める。長い尾が、水流の起こす風に揺らいでいる。彼の目は、暗闇の中で生々しいほど光っていた。
「飛び……降りた……?」
俺は譫言のように繰り返す。唇が切れて、鉄の味がした。汗なのか血なのか分からないものが顔にべったり付着している。どうしてお前がここに、と問いかける気にもなれなかった。悪夢を見ている気分だった。
三光鳥は嘴を開く。
「そう、あの場所から逃げ出すために」
視線が上向いたのに合わせ、俺も頭上を見た。細長く切り取られた紺碧の空、白く瞬く星がある。三光鳥が指した「あの場所」というのが、先程見た山上の遺跡だと俺は何となく理解出来た。
俺はあの遺跡から落ちたのか。
全貌を見渡した訳ではないが、かなりの標高のところにあったのは間違いない。しかし吊り橋の周囲にそれほど深い場所は見当たらなかったから、俺は自分でも意識しない内に移動して、どこからか足を踏み外したのだろう。頭ががんがんと割れるように痛んだ。
「貴様はいつも死に損なるな」
「……」
「豻に食われ、あれほどの高さを落ちても尚、まだ生きている。そう、貴様は死ぬべきではないのだ。貴様がそれを望もうが望まないが」
頭の位置を動かすと、信じられないほどの眩暈に襲われた。口からは呻き声のほか何も出ない。唾液まみれの泥を出す。
「じゃあどうしろと」
俺は掠れ声を押し出す。
「お前は、俺に何をさせたいんだ……」
睨みつけても、三光鳥は微動だにしなかった。俺はだんだん腹が立ってきた。昂れば昂るほど虚しくなる。しばらく無言の時間が続いた。三光鳥は俺の嘆きになど一切興味はなさそうだった。仕方なく、俺は話題を変える。目を開いているのに、視界には光と影が混ざり合った奇妙な揺らぎしか映らない。
「どうして、大勢のネクロ・エグロがここに飛び降りたんだ? 何のために?」
暗い影になった小鳥の頭が、僅かに動いたような気がした。俺は頭上を仰ぐ。
「あの遺跡は、一体……」
不意に三光鳥が翼をはためかせ、灌木の枝から枝へ移った。上下に揺れる細い枝の上で、嘲るような声がした。
「貴様は本当に何も覚えていないのだな、皓輝。それを知れて安心したよ。ここへ来た甲斐があるというものだ」
目を瞬かせると、頬から乾いた泥が落ちた。俺は喘ぐように言う。
「あそこは俺に何か関係があるのか? 俺は昔、あの場所に来たことが──」
突然笑い声が響く。どこか病的で、精神の均衡を欠いた笑い声だった。鳥の姿をしたものから人間の笑い声が出てくる異様さ。俺はぞっとする。
三光鳥はひとしきり笑っていた。その音が深い峡谷の底に反響する。身動きが取れない。この世のものじゃないのだ、と思う。少なくとも、血肉を持つものがこんな風に現実から逸脱した声を出すはずがない。
「ああ、思い出せないだろう。そうだろう。それでこそだよ。お前はいつでもやること為すこと中途半端で、誰も救いはしないんだ!」
俺は口を噤む。三光鳥の神経質な叫び声が、暗闇の深くまで木霊していた。この三光鳥が話している相手は、本当に俺だろうか? ちらりとそんな疑いさえ過る。
そのとき、胸の辺りに硬くて細いものが当たった。それが小鳥の脚だと理解したのは、羽音とともに目の前に紺碧の嘴が現れたからだった。
「貴様は真っ当に死ぬことも出来ないし、かつて己が何者であったか思い出すことも出来ない」
三光鳥の声は幾分落ち着いている。小鳥の重さはほとんど感じなかった。実のところ、俺はもう死んでいるんじゃないかと思うほど、身体が全く動かなかった。
「好き勝手喋りやがって」俺は泥の味のする悪態をつく。「どうしてお前に、そんなことを決め付けられなきゃいけないんだ?」
「決めているのは私ではない、皓輝。運命だ。そして死にたいと願うのは貴様の怠惰だ。母親を幸せにしたい、そのためなら何でもすると言うくせに、貴様は簡単に諦めようとする──本当に全てを尽くしたか? 本当に? 結局はまた貴様の努力不足なのではないか?」
「努力……」
俺が繰り返すのを聞いて、声の調子が変わる。まるで囁くように、三光鳥の声が耳に流し込まれてゆく。
「どうせ貴様は誰かに寄生しながら生きることしかできないのだ。誰かを生きる指針とし、相手を真に理解しようとしない。そういう主体性の無さが貴様の全てだ。その癖、無理だと思えば身勝手に切り上げる。さぞ楽な生き方であろうな?」
「……」
反論が浮かばず、目線を彷徨わせるだけの俺に、三光鳥は勝ち誇ったよう首を上げた。
「貴様は、諦めて私の言うことを聞いていれば良いのだ。己で決断し、這い蹲って生きるよりはずっと似合いだぞ」
「俺は……」瞼を閉じる。「俺が従うのは、母さんの言うことだけだ」
「そうであろうな。だが皓輝、貴様は行くだろう。結局、私の忠告を無視することも出来ぬのだ」
その後、三光鳥は幾つかのことを話した。俺が相槌を打とうが無反応だろうが関係ないようだった。軽やかな羽音とともに小鳥の影が視界から消えてしまうと、俺は独り微睡むように瞼を閉じる。
水の音が暗闇の向こうへ遠のいた。三光鳥の言葉が脳裏を廻っている。「結局は貴様の努力不足なのではないか?」「貴様は真っ当に死ぬことも出来ないし、かつて己が何者であったか思い出すことも出来ない」──暗黒の奥底でか細い声がする。三光鳥でも、俺でもない誰かの声。何を言っているのかよく思い出せない。
意識が重たく、光のないところに沈んでゆく。
***
眩い光が飛び込んできた。気が付くと俺は世捨て人の家の自分の部屋にいた。時間が巻き戻ったかのようだった。
白狐さんと翔から受けた叱責によれば、俺は二日ほど行方不明になっていたとのことだった。光に続いて二人は散々周辺を探索し、長遐を出た北西の河口で倒れている俺を見つけたらしい。
「肝を冷やしましたよ、本当に……皓輝くんまでいなくなってしまうとは」
白狐さんは俺の介抱をしながら、心配と説教を交互にした。俺は「すみません」とだけ言った。枕に頭を乗せ、唇以外に動かせない。
奇妙なことが確認されたのは、それから数日を布団の上で過ごした後だった。絶望的かと思われた腕の怪我が徐々に、しかし確かに快方へ向かっていったのである。一度鉄になって死んだ細胞が蘇り、血が通う。触れてみれば肌は指の感触を伝える。自分の腕がきちんとそこにあるのは、妙な感覚だった。
崖から落ちたと思われる俺の怪我も、白狐さんに言わせてみれば大したことがなかった。一人で彷徨っている期間に俺は死んで、再び生き返ったかのように思えた。何らかの力が働きかけたのは間違いなさそうだが、自分の見たもののどれが本当で、どれが幻だったのか今となっては確かめようもない。
「白狐さん、長遐から北西へ向かったところに廃鉱山ってありますか」
あるとき、俺は訊ねてみた。白狐さんは少し考え、「聞いたことはあります」と答えた。
「昔、そこを支配していた当時の豪族が鉱石を採掘していたとか。もう鉱脈が枯れてしまって、掘っても何も出ないそうですが」
「その鉱山で、辰砂が出たかどうか分かりますか?」
「辰砂?」聞き返した白狐さんは、ああ、と言う。
「有り得ない話ではないですね。噂によると山を掘るうちに鉱毒が広がり、山も枯れてしまったので、今では霊域となって誰も入れないようになっているのだそうです。大自然が自ら空間を封じて、これ以上悪いものが広がるのを防ごうとしたという訳ですね」
黙っている俺に、白狐さんが訊ねてくる。
「皓輝くんは、その鉱山を見たんですか?」
「……」
俺は瞬きだけで頷く。「そうか、霊域に入っていたんですね」と白狐さんは小さな声で呟いている。
霊域。それも、人間の業を大自然が封じ、本来なら人が立ち入ることが出来ない場所──俺は、あのとき見た山上の遺跡のことを誰にも話さないことにした。遺跡の由来を幾つか推測することは出来たが、思い出すごとに記憶は曖昧になり、姿形さえ思い描けなくなっていた。そもそも、本当に俺は怪我をした身体であんな標高の高い場所まで行ったのだろうか? 何も分からない。禁忌めいた赤い陽光の眩さだけが、悪夢のように瞼に焼き付いている。
俺の右腕は完全に元通りとまではいかなかった。肘にはかなり先まで後遺症が残り、豻という獣の恐ろしさを俺の胸に刻み込んだ。変色した皮膚は一生消えない傷跡となった。
日常生活でも当然不自由を強いられる。右利きだった俺は、止むを得ずあらゆる仕草を左手ですることになった。
まあ、腕を失くすという最悪の事態は免れたのだから、幸運とするべきなのかもしれない。俺が行方不明になっていた間に起きたことも、奇跡的な回復についても、白狐さんと翔は自分からは深く詮索しなかった。何よりもまず俺の精神面を慮って、表面上のやり取りですら気を遣ってくれているのが伝わった。
「正直、もう駄目かと思ってたよ」
俺が起き上れるようになると、翔はしきりに枕元で感心していた。運が良ければ治る、と繰り返していた奴の台詞とは思えない無責任さだ。俺が白い目を向ければ、屈託ない笑顔で手を振った。
「ほら、信じてると本当に治ったりすることってあるじゃん」
「プラシーボ効果か? さすがに無理があるだろう」
そうかぁ、と翔は呑気に笑っている。その顔はこの上なく嬉しそうで、俺もそれ以上追及するのはやめておいた。




