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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十一話 浸蝕
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 それから大分、日にちが経った。白狐さんは相変わらず、毎日外へ出掛けている。まだ消息不明の光を諦めていないらしい。

 ただ探し回るだけでなく、奴隷商人を捕まえ、情報を入手しているなどと言っていた。彼ら曰く、今のところそれらしい少女はいないという。

 暴力と脅迫で渋々吐き出された情報がどれだけ信用に値するのか、俺には分からない。


 右腕の怪我も深刻だった。いや、いっそ絶望的だった。治療で包帯を取り替える際、初めて傷跡を目にした俺は、すぐ見ないままにしておけば良かったと後悔した。

 豻の牙に喰い千切られた跡は生々しく歯形が残り、どす黒く変色している。露わになったそこはほとんど肉がなくなり骨のように細い。

 更によく見れば、それはただの損傷でないと気付いた。幅二十センチほどだろうか。噛まれた跡全体が豻の力、すなわち鉄の霊に浸蝕されているのである。

 身体が金属に変わるという現象に半信半疑だった俺は、嫌でもそれを実感することとなった。

 鉄と化した皮膚は脆く、指で擦ればぼろぼろと崩れてしまう。特に肘骨の鉄化が著しく、崩れかけた鉄筋が頼りなく肉片を繋ぎ止めている有様だった。絶望的であることくらい俺でも分かる。


「全て腐ってしまう前に、腕の付け根を切った方がいいかもしれませんねぇ」と白狐さんは度々恐ろしいことを口にする。


 以前翔が氷の霊に侵されたときはあいつ自身のスコノスで対抗し、氷の力に打ち勝った。しかし、俺は自分の力の使い方を知らない。なす術もなく変色部が徐々に広がっているのを見ている他ないのである。

 死を待つ、というのはこういう気持ちなのだろう。

 俺は白狐さんが作ってくれる食事に手も付けず、昼も夜も関係なく布団の上で過ごした。

 眠っている時間は何も考えずにいられて一番楽である。だから、傷の痛みに睡眠を妨害されるのが何よりも苦痛だった。逃げ場のない自分の状況をどうしようもなく思い知らされ、気が狂いそうになる。

 俺はそうやって長いこと無情に日々が過ぎていくのを見送った。もう光がいなくなってからどれくらい経過したのか分からない。ほんの二、三日前だったような気もするし、一か月くらい前の気もする。

 家の裏の山桜はすっかり葉ばかりになってしまったと翔は言っていた。いや、夢の中でそう聞いたのかもしれない。分からない。

 やがて右腕の損傷から目に見えて腐敗が確認されたとき、俺は遂に決断を迫られたことを悟る。片腕を切り落として生きるか、このまま腐敗が全体にまで回るのを待って死ぬか。


 その日俺はじっと眠れぬ夜を過ごした。

 いつしか薄暗い東から、足音を忍ばせやって来る静謐な朝。深い水底から浮上して来たような青い気配が、ゆっくりと辺りに満ちる。布団に横たわったまま、明け方の空を無感動に見つめた。

 やがて俺は起き上がって窓を押し上げ、その隙間に身体を滑り込ませた。裸足のまま地面を踏み、ひとりで歩き出す。淡い光の中へ。



 ***



 葉の表面が白く光っている。木漏れ日の眩さと翳りを繰り返す山の斜面を、俺はのろのろと歩いていた。足の裏はすっかり泥で汚れ、擦り傷だらけになっている。

 しかし、それが何だというのだ。俺は一日中足を止めなかった。太陽が東から昇って、西へ沈んでゆくのを見送った。奥行きのある暗闇にぼんやりした木々の輪郭があって、それが星明りだと気づいても、俺はやはり歩き続けた。深海の水底を彷徨っているような気分だった。

 脚が痛い。それでも、腕の痛みに比べれば遥かにましだった。一晩明けると、俺の意識は徐々に現実から切り離されていった。腐敗の激痛でさえ不透明な膜の向こうにあった。


 次に俺は、地面に横たわっていた。片足が不自然に浮いていて、藪の中にあるのだと分かる。白い霧が肌に触れていた。空を見ても乳白色に曇り、ほんの数メートル先も見えない。辺りは不自然に静まり返り、風のそよぎ、鳥の囀りさえ聞こえない。

 今は朝なのか、昼なのか。あれからどれくらい時間が経ったのだろう?

 俺はじっと瞼を閉じ、無機質な静寂に浸っていたが、まだ身体を動かすだけの体力が自分に残っていることが分かると諦めて起き上がった。目指すべき方向はどこにもなかった。


 ただ、独りになりたかった。死ぬときはそうすべきだと思った。


 しばらくすると霧が晴れてきた。辺りの木々は黒ずみ、湿っている。勾配の緩いところで俺はふと周りを見回した。低いところに山々が波打って、ところどころある剥き出しの岸壁は皮膚を剥がされて乾燥した死骸のように見える。自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。随分標高の高いところまで来たらしいが、もうとうに長遐を出たのだろうか。

 ちらりと視界の端に映った樹木の葉は、黄色く枯れかかっていた。季節外れの紅葉のようだったが、俺は気に留めなかった。踏みしめる地面の硬い感触さえ、もうほとんど感じない。長遐でよく見る湿潤な苔や笹薮や灌木の茂みは消え、代わりに穂先のついた乾燥した植物や背の低い雑草が俺の足元を濡らした。頭上が開けてきて、樹木の数が減った。


 やがて、木の根の凹凸の険しい斜面を登りきると、ぽっかり窪んだ地形に水が溜まっただけの池があった。濁っていて深さは分からない。僅かに土が抉れた箇所から水が染み出し、落ち葉を黒く濡らしながら地面に細い跡をつくっているほか流れはなく、水面に浮かぶ水生植物が錆びたように変色していた。

 静かだった。鄙びた山の水辺にあるべき蛙の気配、魚を狙う鳥の影、足を踏み出すごとに驚いて飛び出す飛蝗や羽虫さえいない。俺は視界を持ち上げる。人の背丈ほどの高さの岩壁があった。そこにあったはずの土壌の盛り上がりが、半分ほど削り取られていた。

 まるで、昔ここに誰かが路を作ったかのように。

 ゆっくりとそこに近づいてみる。剥き出しになった露頭は、ほとんどが岩だった。乾いた砂のこびり付いた鈍色、淡い褐色、暗い褐色、そういった様々な色合いが横縞になって、層をなしている。


「……」


 その横には、奥まった木々の緑陰の下、黒いものがぽっかりと口を開けていた。洞窟の入り口のようだったが、半ば崩落し、埋まりかかっている。背を屈めればやっと通れそうな高さだが、土砂に阻まれ入れそうにない。俺はようやく違和感のようなものを抱き始めた。足元を見ると、細く頼りない道がうねりながらどこかへと続いていた。

 消えかかった山道のような痕跡を辿ってゆくと、表土の色がところどころ赤味がかっていることに気づく。周囲の植生は明らかに疎らで、長遐のものと違っている。いつからこんな風に変わっていたのだろう。赤黒い土塊だと思って避けたものは、どうやら陶器の破片らしかった。


 多分、三十分ほど登っただろう。俺は山の斜面を削った横穴の前に立ち尽くしていた。先ほどのよりも大きく、入り口は残っている。覗き込むと光の届く範囲いっぱいに泥水が溜まっており、その先はよく見えない。内側の壁には細かな条痕がある。

 ここは廃鉱山なのだ。俺はそう思い至る。遥か昔、人々がここで働き、鉱脈が枯れたか、何かしらの理由があって放棄された。きっと他にも鉱石を採るための横穴があちこちに残されているに違いないが、今では何もかもが朽ち果て、自然に還りかかっている。

 少なくとも、長遐からかなり離れた場所にいることは間違いない。

 ふと足元の泥水に目を凝らした。濁った水の揺らめきの下に、小さな赤い砂粒があった。見えたのは一瞬だったが、宝石のように鮮やかだった。


 赤?

 砂粒ほどの大きさである。動かない右手に代わり、左手を伸ばしかけ、俺は反射的に引っ込める。そのとき雲が僅かに晴れ、音もなく光が差した。湧水に満たされた入り口から地下へと続く坑道の奥が照らされた。

 俺は入り口から数歩後ずさる。頭上に垂れ下がる植物の細い根が俺の髪を汚す。坑道の内壁は、目に焼き付くように赤かった。白っぽい岩石に、細かな深紅の粒状の鉱石が残っている。

 それが何なのか、俺の頭に名前が過る。


 HgS、硫化水銀。

 硫黄と水銀の化合物──すなわち辰砂。


 ぞっとする。赤色の鉱石は他にも無数にあるから確証は持てない。しかし、硫化水銀は水に溶けにくい性質を持ち、水中に沈殿し続ける。そして何より、周囲の土壌を侵し、植生や動物に影響を与える。

 俺は後ろを振り返った。薄っすらと霧がかった山の景色は、禿げた赤黒い土の上にあり、黄色っぽく枯れている。植生が変わったと思ったのは、土壌に含まれる高濃度の鉱毒のせいなのだろうか。あの池に生気がなかったのは、底泥に水銀が蓄積されているせいか──。

 俺は他に難溶性の赤色鉱物を思い浮かべようとしたが、上手く頭が働かなかった。ここ数日まともに食べていなかった。どうしてこんな場所に水銀鉱山があったのか、どうしてそれが放棄されたのか、考えるのも難しい。


 ふらつく足で、俺は再び山を登り始める。予想通り、坑口の跡と思しき場所は他にもあった。中から掘り出した礫を積み上げた石山や、開けた選鉱場跡のようなものも見受けられた。ここが辰砂の鉱山なのだとすれば、それを採掘したり、熱分解するための道具があるかもしれないと思ったが、不思議と人工的な遺物はどこにもなかった。もしかすると金属製の道具は全て豻に食われてしまったのかもしれない。

 山を越え、また別の山へと差し掛かる。放棄された鉱山の痕跡はあちらこちらにあったが、俺はもうほとんど足を止めなかった。

 そういえば、水銀の沈殿した池の水を飲めば上手く自殺できたのではないだろうかという考えが過る。しかし重ね重ね硫化水銀は難溶性であるため、そのまま飲んでも人体にさしたる影響はない。高温に晒せばHgSは水銀と硫黄に分離し、気化した水銀の蒸気は猛毒となるが、俺は自分で火を熾す手段さえないのだ。


「──……」


 俺は左手で自分の顔を覆う。土埃が瞼につく。肺に入る空気は細く、出ていく空気は更に稀薄だった。身体が紙か何かにでもなったかのよう軽かった。右腕の重みが、鈍い痛みが、錨となって俺の意識を地上に繋ぎ止めている。

 様々な感情の片鱗が無意識の水底から浮かび上がってくるのに、肝心の考えは何ひとつまとまらなかった。俺の人生は何のために。声には出さず唇だけ動かす。俺が母さんのためだと思ってやってきたことは、全て選択肢のように見せかけられた一本の道に過ぎなかったのだろうか。努力の方向性に関わらず、結局俺はこうして独りで死に場所を探す結末しか用意されていなかったのだろうか。


 ──もっと光と話していれば、何かが変わったのだろうか。

 無理だ、と思う。激昂した俺を見つめる光の目は、母さんの目と全く同じだった。理解できず、怯え、困惑し、最後は責める相手を探した。誰も俺のことは理解できない。仮に理解されたとして、そこに生まれるささやかな共感にどんな意味があるというのだ。俺が欲しいのは心の慰めではなく、母さんが幸せでいられるという確かな実感だけなのだ。

 涙は出ない。もう、涙を流すだけの気力も残っていない。俺はゆっくりと腕を下げる。顔に光が当たった。赤い、閃光のような眩さに思わず瞼を開ける。


「え?」


 掠れた声は喉に貼りつき、きちんとした音にならなかった。俺は岩が突き出た山の斜面に立っていた。眼下の少し下ったところから急に地面が途絶え、丈のある葦の群れが一筋黒ずみながら深い地形に沿っているのが見える。

 その流れを視線で追うと、中空に張り出した杭が見えた。斜めに傾き、ほとんどが朽ちかけている。浅い谷のようになった向かい側を見るとやはり同じように木の太い杭が残っていた。まるでそこに互いを繋ぐ吊り橋があったかのように。

 更に視線を上げる。標高はかなり高いだろう。西日の鋭い刃に抉られたかのよう、遠くの山襞は臓物の赤色に染まり、窪んだところは漆黒に沈んでいる。三百六十度、どこを見ても山だった。世界の何もかもが強烈な光と影に晒されていた。


 その遺跡は、俺の目の前にあった。


 遠景の赤い山脈に抱かれ、それは巧みに隠されている。まるで、山の天辺に乗り上げた難破船のようだった。目に見える限り、ほとんどが崩れ去っている。手前の石造りの壁、入り口の空白だけを遺した門の跡、崩落した物見櫓のようなもの──その奥にあるであろう敷地はかなり広かった。街、と言っても良さそうだった。

 俺は周辺をゆっくり見回すが、ここまで自分が歩いてきたという確証が持てない。そもそも、一体いつの間に夕方になっていたのだろう。奇妙なくらい無風で、音が聴こえない。知らない誰かの夢の中に迷い込んでしまったかのように。

 遺跡群は、山の上の、更に意味ありげに盛り上がった丘の上にあった。その隆起した地面を見ていると徐々に落ち着かない気持ちになった。自然に形成された地形には見えない。大昔、誰かが何かを埋めたのだ──何を?


 そこからの記憶がない。どうしてそう思ったのだろう。どうして俺は、あそこに何かが埋まっていたことを知っていたのだろう。



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