Ⅳ
しばらく翔は、喋るという機能を全て失った人形のように停止していた。ぽかんと顎を開けたまま、こんな状況でなければ吹き出してしまいそうな阿呆面を晒している。
ようやく口を聞けるようになったとき、まず翔は大真面目に感心していた。
「早まるなって言葉、俺生まれて初めて使うよ」
「それは良かったな」
貴重な経験じゃないか、と俺は心にもないことを言う。それを無視した翔が物凄い勢いでにじり寄ってきた。これでもか、と顔を近づけられ、頬に息がかかる。
「死にたいって……な、何で?」
「……」
「お前が死ぬ必要なんてどこにもないだろうが」
翔はかなり困惑したようだ。「意味が分からない」としきりに繰り返す。
「逆だ」
「逆?」
「生きる理由がなくなったから死ぬんだ」
「意味が分からない」
俺は寝そべったまま肩を竦めた。「別に分かってもらえなくていいよ」と。
そう、誰かの理解を求めている訳じゃない。理解してもらえないから自棄になっている訳でもない。ただ死のうと決めた。それだけだ。
翔はかなり当惑し、引き留めるための言葉を探すのに苦労していた。光はまだ死んだと決まった訳じゃないと説得を試みたが、俺の心はほとんど揺らがなかった。
最早俺にとって光とは何の意味もなさない単語である。妹の生死に興味などない──いや、むしろ死んでいろとすら思っていた。
俺は光に失望しているのかもしれない、と今更ながら気付く。俺に足りないものを全て備えて生まれた妹。あいつは俺が出来なかったことを代わりに遂行できる唯一の望みだった。光ならきっと、母さんを幸せにするために生きることが出来るだろう、と。
認めるのは悔しいが、恐らく俺は光にそんな期待をしていた。本来己の人生にかけるべきだった期待を。そして、裏切られた。
「だから、もういいんだよ。光なんか」
そしてその裏切り者以上に価値のないものがここにいる。生まれてこの方、誰かを不幸にすることしか出来なかった、この俺だ。
そう告げると翔は眉を顰める。
「お前は世界の基準が母親なのか」
「そうだよ」
それの何が悪い、と辛うじて口に出すのを留まる。暴力的な言葉を吐いても、何も解決しない。
「『私は正義を信念としているが、正義よりも先に母を守る』」
「……何それ。誰の言葉?」
「フランスの作家」
どう考えてもこいつがフランスを認識している訳もなく、翔は遠い「フランス」を想像するようふうんと浮ついた相槌を打った。そして、固いものを無理矢理飲み込んだ後の顔をする。
「多分」翔は眉を下げた。「その作家はお前みたいな例を想定していなかったと思うよ」
どうでもいい。俺は何も答えず、目線を逸らす。
「俺が死のうが死ぬまいが俺の勝手だろ」
我ながらぞんざいで子どものような言い分だった。意外にも、翔はゆっくりと目を伏せる。
「……確かに、お前の命の在り方や、人生の幸せを俺が決めつけるのは間違っている」
翔は掌を床に押し付け、体勢を真っ直ぐにする。
「でも、それならお前の母親の幸せをお前が決めつけるのだっておかしいんじゃないのか。光の人生だって光のものだ。お前が勝手に役割を宛がってそこから外れたら見放すなんて、お前が両親からされたことと同じくらい不条理だ」
「……」
「家族ってもっと手探りで進んでいくものなんじゃないのか? どうしてそんなに簡単に断定して、諦めちゃうんだ」
静かな物言いだったが、翔の意志は固そうだった。否、どうしたら良いか迷っているからこそ、血の通った説得力があった。
「何がお前をそうさせるのか、俺にはやっぱり理解出来ないけど……」
その語尾が僅かに震えていることが、俺には不思議だった。俺が死んでも、こいつの人生で何か大きな損失があるようには思えなかった。誰かが自死すると聞いて清々しく送り出す人は少ないにしろ。
「もう充分だ。何も聞きたくない……何も」
俺は目を瞑ったが、それでも翔は食い下がった。
「お前はいいかもしれないけどな、それじゃあ光はどうなるんだよ」
「次、その名前を言ったら、殴る」
「俺を殴って気が済むならどうぞ」
茶化しているようだが、その声音は真剣そのものだ。
「今お前が死んでも、誰も救われないぞ」
俺を見下ろす碧眼が、一瞬鋭い光を帯びた。
「何も解決しない。……お前は馬鹿じゃないって、俺は信じてるよ」
俺は翔から目を背け、今度こそ目を瞑って知らぬ素振りをした。しかしその言葉は確かに、耳の奥にしつこく残っている。
***
──夜が明けても、結局光が見つかることはなかった。
太陽が高く昇るまで森の外を徒歩で探し回った白狐さんは、世捨て人の家から北東、すなわち俺が豻に襲われた湖とは真逆の方角に広がる岩場で、複数人が草木を踏み荒らした不自然な跡を見つけたという。
しかしどんなに探しても光の生死を決定的にするもの──例えば死体や血痕などが見当たらず、状況から推測して光は奴隷商人に攫われたのだろうと結論付けられた。
そんな話に俺は黙って耳を傾ける。
どうするべきなのだろう。推測の域を出ないとはいえ、光がまだ生きているかもしれないという可能性に俺の心には少なからず迷いが生じた。これは俺自身が誰よりも驚いたと思う。
光の存在が俺の決意を鈍らせるなんて、今まであっただろうか? もしかすると、今お前が死んでも誰も救われない、と言った翔の真剣な言葉と眼差しが念頭にあったのかもしれない。
母さんは今も光を探しているのだろうか。と憂うと同時に、一度固めた気持ちに水を差されたことは面白くなかった。
その日から俺はむくれたように寝込んだ。いや、寝込まざるを得なかったと言ってもいいだろう。光の問題に気を取られ、ほとんど関心を払わなかった腕の怪我が思ったよりも深刻だったからだ。
あの夜、豻に噛み千切られたのは右腕の肘より少し下、貧相な筋肉が乗っていた部分である。出血こそ少なかったが、ただの傷とは思えない猛烈な違和感があった。時間が経てば経つほどそれはよりはっきり不気味な確信へ変わっていく。
関節が固く強張って動かせない。感覚さえも失われ、冷たい。まるで、その部分だけ細胞が死んだような違和感。
咬傷の状態を具体的に知らされたのは、光がいなくなって丁度一日経った頃である。
何かと気が立っていた俺が落ち着くまで待ったのかもしれない。白狐さんの手料理の膳を運んできた翔が、ついでのように「そういえばさ」と言った。
「豻に噛まれると身体が鉄に変わるんだよ。知ってた?」
「……は?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出した。湯気を立てている雑煮には目もくれず、翔の顔をまじまじと見る。俺を混乱させ、たじろがせるには充分すぎる発言だった。
「鉄に、変わるって?」
そう、と翔は頷く。
「豻って獣は鉄鉱石を掘って食べる習性があってさ。陰と金属の力を持った霊なんだ。だから牙に噛まれた傷は、肉も骨も皮も全部鉄に変わるんだと」
「……」
「犠牲になったのが腕だけで良かったな」
当然ながら俺はかなり狼狽した。ちゃんと治るのか、治らなかったらどうなるのか矢継ぎ早に質問したが、翔は曖昧に濁す。答えたくないらしかった。
「うーん……治るんじゃないかなぁ。運が良ければ」
「運が悪ければ治らないのか」
「まあ、そういうことになる」
言葉が出ない。何度か口を開け閉めして、俺は何か言うのを諦めた。自由の利かない右腕が一層不気味に感じられる。
震える手で触れてみても、そこに血が通っている感触はなかった。細胞が死んでいるという表現は強ち的外れでもなかったようだ。
顔色を失う俺に、翔は申し訳程度の笑みと気休めを口にする。「大丈夫だよ。多分」
全く大丈夫な気がしない、と俺は腹を立てる。




