Ⅲ
俺は少し頭を擡げ、枕から浮かす。
廊下の向こうからやってきた足音は徐々に大きくなり、部屋の前でぴたりと止まった。心なしか、よろけている。足音の主はすぐには戸に手を掛けず、ここに入るのを躊躇している気配があった。
痺れを切らした俺が口を開きかけた矢先、引き戸が開かれる。勢いの良い、覚悟を決めたような開き方だ。
「……翔」
一瞬黙った俺は、そこに立っていた者の名を呟いた。
翔は僅かに血色の失った顔で、しかしなるべく何でもない風を装って佇んでいる。着替えたのか、先程と装いが変わっていた。
俺が見上げている先で、翔は黙って部屋に入り、後ろ手で戸を閉じる。
俺は、先程の──といってもどれくらい前なのかはっきりしないが──翔とのやり取りは忘れてはいない。どんな非難をされるのか、もしくは罵詈雑言をぶつけられるのか内心身構えたが、その口から出たのは「大丈夫か?」という気の抜けるような言葉だった。
「俺は、別に」
心配されるべきはお前なんじゃないか、と自分の怪我も棚に上げて言いたくなる。翔は俺に怒鳴ることこそしなかったが、いつもの快活さは鳴りを潜め、表情が曇っている。
やはりこいつも光が気掛かりなのだろうか。
翔は俺の傍で、力が抜けたように座り込む。そして、重たい雲を押し上げるように口を開いた。なるべく普段通りに振る舞おうとしているのが見て取れた。
「あれからしばらく探したけど、光は見つからなかったよ」
「そうか」
俺は素っ気なく応える。翔は目線を左右に揺らした後、苦笑いを浮かべた。目尻に皺が寄る。
「しかし強烈だったな」
「……何が」
「お前の、声。豊隆の鳴き声みたいでさ」
お陰でまだ頭痛がするよ、と。何の話か分からず、俺は素で訊き返す。声?
「何の話だ?」
「音のスコノス、使ったろ」
そう言われても俺は思い出せなかった。翔は血色の悪い唇で、俺が咄嗟に音の霊の力を発揮して、豻を撃退したのだろうと語る。
翔ではなく、白狐さんがその瞬間を目撃したらしい。同時刻、あの湖の近辺にいた翔は“音”の余波を受けてしばらく立ち上がれなかったという。
記憶がなければ実感も湧かない。これといった関心もなかった俺は、ふうんともへえともつかない曖昧な相槌で返した。そんな突発的に起こった奇跡の力で生き延びたのかと思えば腹立たしくもなる。
火事場の馬鹿力、という言葉が過った。全く、不親切で気の利かないスコノスだ。俺は見たこともない自分の力に苛立つ。
翔はまだ体調が悪そうだった。音の力というのは脳に直接影響を及ぼすとかで、俺自身も、自らの発した力に目を回して倒れたらしい。何とも間抜けな話である。
頭の芯に残った鈍痛は、言われてみれば脳震盪の症状に少し似ていた。
「そうだ」と思いついたように翔が顔を曇らせる。「豻に噛まれたんだって?」
「ああ……」
「豻に噛まれたからスコノスの力が使えたんだな。防衛本能みたいなやつだ」
翔は断定的な言い方をする。何故だと訊き返せば簡単なことさ、と唇を舐めた。
「皓輝の力はどちらかといえば”陽”なんだろ。雷は光りを発するからな。そして豻は”陰”の霊獣だ。陽が陰に反発するのは自然の摂理だよ」
「そういうものか」
「そういうものだ」
会話が途切れる。翔が本題に入るために回りくどい手段を取っていることは薄々勘付いていたが、無視をした。どうせ俺にとって面白くない話に違いない。
「あのさ」と情けない笑いを伴って切り出される。さり気なさを装っているのが逆に不自然だ。そしてやはりそれは俺にとって不愉快な話だった。
差し出されたのは赤い紐の残骸。それが何なのか瞬時に理解し、俺は顔を歪める。ゴミでも見たような気分だった。いや、実際それはゴミだ。
翔は多少落ち着いた声で話し出す。
「これ、吉祥の紐」
「見れば分かる」
「お前がばら撒いたやつ全部拾ってきた」
自分のこの手で紐を千切った光景を思い出しても胸焼けのような不快感が募るだけだ。
乾いた翔の掌で、明かりを反射している小粒の瑪瑙。真鍮の飾り。あの暗さの中、取りこぼしもなく探すのは苦労したことだろうというのは想像がつく。俺は顔を背けた。
「何でそんなものわざわざ拾ってきたんだ」
「いるかなって思って」
「いらねえよ」
突き放すように言い、寝返りを打つ。翔は首を窄め、それでも穏やかな口調で食い下がった。
「本当に……?」
「……」
「家族の絆はいらない?」
俺はただ口を閉ざしている。目を瞑り、翔がその話題から関心を失くすのを待った。
しかし、翔も依然としてそこに座っている。返事を聞くまで動かないという意志が、薄暗い空気を通じて伝わってきた。
翔、と短く呼ぶ。
「二度と俺の前でその言葉を口にするな」
俺を怒らせたくなければ。そう言い捨てて、背中越しに手を振った。しかし翔は立ち去らない。
俺が欲しいのは母さんの幸福、ただそれだけだと説明するのも面倒臭かった。きっと分かって貰えないだろうという確信がある。
白狐さんや翔は、光が可哀想な子どもに見えるのだろう。それは光の年齢のせいか、或いは性別のせいかもしれない。どちらにせよ、どうでもいいことだ。妹だからとか、家族だからとか、俺はそんな感情欠片も持ち合わせていない。それが人として正しい道なのかは重要でない。俺が貫くべき哲学は別にある。
翔はあからさまに落胆した様子だった。深い底を覗き込むよう赤い紐の切れ端をじっと見つめている。紐の残骸は俺と光の関係性を象徴しているようで滑稽だ。
虚しさが込み上げてくる。
「……光は、お前のことが好きだったのに」
蚊の鳴くような声だった。翔がため息を押し殺し、どうにかその言葉を吐く。「好きだったのに」と。
「そんなの俺には関係ないね」
冷たくあしらう。実際、俺の言い分も間違ったことではないように思えた。感情論でしか動かない部外者より、実際に苦痛を被る当事者の意見の方に重みがあると俺は信じていた。
「好きだと言われたら、そいつを好きにならなきゃいけないのか?」
「……」
「押し付けられた家族の絆を受け取り、無理に相手の好意に応え、へらへら仲良くやっていけばいいのか?」
俺にそんな義務はないし、もっと言えば白狐さんや翔がそこに介入する義務もない。
「大抵の愛は一方通行だ。そんなの、俺が一番よく分かっている」
ゆっくりと身体を傾け、俺は仰向けになる。古びた格子天井の影が揺れていた。
翔は激昂することはせず、かといって肯定も否定もしなかった。瞬きをする度、青い光が忙しなく点滅しているように見える。
光が俺を好きになろうが嫌いになろうが、俺の人生で変わることなど何一つない。光が姿を消したのだって、それは光が勝手に行動した結果であって、俺を責められても困る。はっきり言って迷惑だ。というのが俺の言い分だった。
「俺はやりたいことをやった。光もやりたいことをやった。それだけだ」
「じゃあ」翔が声を上げる。先程よりもはっきり輪郭を持った声だ。「俺たちもやりたいことをやるっていう理屈を通すよ」
「……もういい」
俺は首を横に振った。
「何が? 何で?」
「もう俺がここに残る意味はなくなった。明日にでも出ていく」
「え」
「最期は、独りで死にたいんだ」
俺は何の感情も籠らない声で、その言葉を噛み締めた。




