Ⅱ
「気分はどうですか?」
何も考えず口を動かす。最悪です、と。数分前自分の部屋で目を覚ました俺は素っ気なく、世捨て人の主とそんなやり取りを交わしていた。
どれくらい意識を失っていたのか判然としない。目覚めたばかりの頭は白く朦朧として、とりあえず暗いからまだ夜なのだろうと考えることだけは出来る。
窓に嵌め込まれた曇り硝子は、夜の闇が張り付いたように暗かった。永遠に朝など来ないんじゃないかと思わせる陰鬱さだった。
俺は部屋の隅で、馬鹿丁寧に柔らかい布団に寝かされている。昼間酔っ払ってそのまま眠ったのと同じ布団だ。心なしか、白い布地に酒臭さが残っている。
白狐さんの膝元で優しげに揺れる行灯の明かり。寝返りを打とうとした俺は、すぐ自分の右腕が動かないことに気が付いた。まるでその場に縫い止められているかのように重い。
髪も濡れ、身体のあちこちに火傷を負ったような痛みがある。包帯と思しき白い布を片付けている白狐さんは、おもむろに口を開いた。
「皓輝くん、豻に襲われたんですよ」
「がん?」病気のことかと思った。
豻というのは北や西の山に棲む霊獣ですよ、と彼は丁寧に教えてくれる。脳裏にあの黒い狼のような独角獣の影がぼんやりと蘇った。
凶暴で、虎や蛟や銅鉄を食い、人も襲う。まあ神聖な生き物というより悪霊に近いですがね、と目の前の俺がその悪霊に襲われたことなど全く気にしていないかのように白狐さんは笑っていた。
そのあっけらかんとした様子に俺も自分が食われかけたことなどほとんどどうでも良くなり、何よりあの独角獣の悍ましさを思い出したい気分でもなく、話題を変えた。
「……どうして」
「うん?」
「どうして、俺を助けたんですか」
口の中が乾燥し、唇が張り付いている。声が出しにくかったが、白狐さんは聞き取ってくれたようだった。綺麗な白い眉を下げ、困った顔をする。
「助けてはいけませんでしたか」
「……」
「あのまま放って置けば豻でなくとも、きっと蛟に食べられていましたよ」
俺は暗がりに浮かぶ格天井を見上げながら想像をしてみる。無残に湖の岸辺で倒れる俺の姿。狼の化け物に食べられようが、蛇の化け物に食べられようが死に方として差異があるようには思えない。
どちらにせよ、自分が今生きていることが無性に不満で許し難かった。
動かない右腕を気にせず、敷布団の上で身体を揺する。白狐さんに背中を向けたかった。行灯の光が遠ざかり、俺は目を閉じる。このまま眠ってしまえば、ずっと目を覚まさないでいられるような気がした。
彼が黙って俺の背を見つめているのが分かる。穏やかで子どもを宥めるような視線が煩わしくて仕方ない。
放って置いてくれればいいのに、と思った。いっそ怒鳴りつけて見捨ててくれればいいのに、と。どうしてこの人はこうも黙って傍に居続けるのだろう。
俺はもう、何も変わらないのに。
気を変えるつもりはなかった。海の底から泡が湧き上がってくるよう、忌々しい記憶が浮上してくる。
さすがに憤るだけの体力は残っていないが、光を許さないという意思は心の底で一層強く凝り固まっていた。
「ねえ皓輝くん」
不意に白狐さんが口を開く。相変わらず春のように穏やかな声音だった。俺は背を向けたまま、黙って耳を澄ます。
「僕には昔、年の離れた妹がいました。……可愛い子でした」
「……」
可愛い子でした、と懐かしむような柔らかい声が胸に沁みていく。その言葉が過去形で語られていることの意味は言われなくとも察することが出来たが、彼はその口で、彼女は随分前にこの世を去った、と続ける。
死因は言わなかった。春の暖かさに冷たい水が流れたようだ。それでも、その声音の優しさが損なわれることはなかった。
「妹のことを考えると、いつも不思議な気持ちになります。年が離れていたせいか、あまり顔を合わせる機会がなかったせいか、性別が違うためか──僕は最後まで妹のことをちゃんと理解してやれなかったように思います。時々、自分に妹がいたのかさえ、夢か幻のようにさえ感じます。おかしな話でしょう?」
白狐さんは一度言葉を切って続けた。「それでも」と。
「妹は僕を慕ってくれていたし、僕も妹を自分なりに可愛がっていました。多分、互いの立場にあまり理解がないまま、兄妹という偶像に縋ろうとしていました。それで良かったのか、正直今でも確証が持てません──もっと一緒に話して、互いのことを知れたら良かったのに。」
「だから、何なんですか」
俺は棘っぽい言葉を投げつける。だから何なのだ。手遅れになる前に妹を大事にしなさいとか、そんなありきたりな説教は聞きたくなかった。
一つの物差しで全てを測ってはいけないことくらい俺でも分かる。他人の思い出話を聞きたい気分でもなかった。
同時に、声から力が抜ける。急に自分が意固地な子どものように思えてきて、どうしようもなく情けなかった。「そんなの、俺には関係ないじゃないですか……」と。
「そうですね」穏やかな声は同意する。「ただ、言ってみただけです」
拍子抜けした俺は少し息を止め、後ろを振り返った。
白狐さんは片付けた治療道具を膝に乗せ、目を細めている。その端正な顔に浮かんでいるのが自嘲のように見え、言い知れぬ感情に襲われた俺は、言葉を失った。
彼はそれ以上話を続けなかった。治療箱を持ち上げ、着物の裾を気遣いながら立ち上がる。そして言った。
「光ちゃんは……まだ見つかっていません。僕はもう一度、苔森の外まで探しに行ってきます」
安静にしていてくださいね、と。俺が何か言う前に去っていく。布団に身体を横たえたまま、目の先でぴたりと閉じた戸を眺めた。
薄暗い灯に浮かぶ流水紋の図柄。ゆらゆら揺れる。
「……」
取り残された俺の脳内で、白狐さんの言葉が反芻される。兄妹という偶像に頼ろうとしていた、それで良かったのか今でも正直確証が持てない──。
力なく首を振った。白狐さんが彼の妹へ向けている感情も、彼らがどんな環境に身を置いていたのかも、俺には全く想像が付かない。それでも何だか胸に残る言葉だった。
ため息を吐き出し、身体の向きを変える。ごそごそと掛布団の擦れる音が部屋に響いた。
落ち着いてから右腕に触れてみる。包帯で手首までぐるぐる巻きにされた腕。固い。動かすことも出来なければ、冷たいだけで感覚もない。麻痺しているようだ。
豻とかいう独角獣。一歩一歩、地面を踏みしめてきたあの獰猛な姿を思い出せば、恐怖心もじわじわ蘇ってくる。
俺はあの獣を「怖い」と思った。ただし、それは死の恐ろしさとは別物だ。もっと漠然とした、自分自身が跡形もなく打ち砕かれるような絶望の恐怖であった。
あのときの俺にとって、それは殺されるより遥かに悍ましく、耐え難いものだったのである。
何故そう思ったのか、そもそもどうやって俺が豻に殺されずに済んだのかはっきりしない。今にして思えば、潔く食われていれば良かったと後悔したくなる。
白狐さんに助けて貰ったのだろうか。俺は動く方の手を持ち上げて握ったり開いたりしてみる。そこにきちんと血が通っていることを確かめるように。
とんとんとん、と規則的な足音が近付いてきたのは、それから間もなくしてからだった。




