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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十一話 浸蝕
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 どれくらい走ったか。自分が森のどの辺りにいるのかも分からない。もう脚が上手く動かず、俺はただ酔っ払いのように木立の間を歩くことしか出来なかった。

 呼吸も、汗も、熱を帯びた体温も、夜の暗さに吸収されていく。喉から抜けるひゅーひゅーという空気が耳障りだ。


 それでも俺は前に進むことを止めなかった。──いや、止められなかった。


 時折、暗闇を溜めたような地面の窪みに躓く。何かに憑りつかれたように歩き続ける。

 もう何も考えられない。限界を突き抜けた怒りが、知覚し得る何もかもを真っ白に溶かしている。誰に何と言われようと、妹を許す気は俺になかった。

 家族の絆だと? ふざけやがって。

 よろめきながら足を引き摺っていると、不意に地面が消え去った。

 藪の茂った急斜面を、俺は屍のように転がり落ちる。硬い茎が折れ、身体のあちこちに葉やら何やらが突き刺さった。

 目まぐるしく振り回される視界。湿ったものが体に纏わりつく。


「……げほっ」


 斜面が終わってしばらくすると、辺りは静まり返り、俺の咳き込む声だけが辺りに木霊した。打ち付けた肋骨が軋む。まともな呼吸を取り戻すまで、随分と時間を要した。

 俺は再び、よろよろと立ち上がって歩き出す。何のためなのか自分でも分からない。目に見えない手が、俺の身体を無理矢理引っ張っているようだった。

 やがて疎だった林が途切れ、不意に目の前がぽっかりと開けた。辺りを見回した俺は、ああ……と掠れ声を出す。そこはつい先日訪れた場所だった。

 小高い山々に囲まれた広大な湖。茫々と広がる水面は、まるで墨を注いだかのように黒い。中央の方で上空の月が鮮明に映っているため、途方もなく巨大な鏡を敷いているようにも見える。

 昼と夜では随分と印象が変わるが──端午節に来た湖だった。

 湖岸へ近付く。気味が悪いほど風がなかった。視線を左右に伸ばせば、湖岸は山麓の黒い森と繋がり、その向こうには緩やかな山の稜線が続いている。

 ところどころ、鋭利な石が突き出た地面、草丈は短い。靴がそれらを踏みしめる音と、水畔で細波が打ち寄せる音以外何も聞こえない。時間が止まっているんじゃないかと錯覚しそうになる。


「……」


 静まり返った大きなものを前に、少しは落ち着いたのかもしれない。俺は畔に立って、ぼんやり空を見上げた。星の散る闇から控えめに顔を覗かせる満月。

 最初に見たときよりも月蝕が進み、その面の全てが赤銅色に染まっている。光を失っているせいか、月の斑点模様がどす黒く浮き上がって見えた。

 孑宸では吉祥の標でも、俺にとってはやはりどこか不気味な光景だ。眺めていると不安な気分になってくる。


 もう自分に生きる意味などないのかもしれない、と出し抜けに考え出した。

 光が死んだのなら、最早俺がこの世界にいる理由も、価値も失われたことになる。もう無理に生き続ける必要はない。肩の荷が下りた、という表現が適当とはあまり思えなかったが。

 不思議と俺の心には何の感情も湧かなかった。悲しくもなければ、寂しくもない。かといって嬉しいとも到底思えなかった。結局、死とはそういうものなのかもしれない。

 爪先で石を転がし、水の中に蹴り入れる。ぼちゃん、というくぐもった水音がして、それは暗闇の向こうへ落ちた。

 ここはどれくらいの深さがあるのだろう。入水した神農の話が脳裏を過る。俺は彼のように責任など大義名分を背負っている訳ではないが、今ここで死んでも後悔はない。いや、むしろそうするべきだ。

 母さんのことを思えばすぐに覚悟は決まった。躊躇う理由などなかった。

 首を伸ばすようにして、黒々とした淵を覗き込む。時折水面が揺らめくので、辛うじてそこに水があることが分かる。風がなければそれは密度の高い、平坦で完全な闇だった。蛟が棲むという……。

 そういえば光はどんな風に死んだのだろうと考えてみた。道具もなく自力で死ぬ方法は限られている。案外、あいつもこの湖の底に沈んでいたりしてな。何の感慨もなく俺は自分の顔も映らぬ水際を眺める。

 その時だった。背後からぱきっという乾いた音が響く。間違いなくそれは何者かが落ちている小枝を足で踏んだ音だ。


「誰だ……!?」


 勢いよく後ろを振り返った。やや離れた場所で、群生する林が所在ない様子で佇んでいる。ざわめく音はするが、あまりに暗いため樹木にあるべき立体感が欠けているように見えた。

 だが、俺には分かった。何かがいる。息を殺してこちらを見つめている何かが。

 俺はすぐさまそれが光だと思った。隠れて俺を窺うやつなんて、あいつしかいない、と。他の可能性は俺の脳内から排除されていた。考えるだけの冷静さがなかったと言ってもいい。

 鎮まりかけていた苛立ちが蘇り、「来るなら早く出て来いよ」と吐き捨てる。陰に溶け込むそいつは応えない。

 まだ生きていたのか。心持ち身体をそちらの方角に向け、睨みつける。もし逃げ出したらどこまでも追い掛けて、今度こそ身の程を思い知らせてやる。

 俺はどんな残虐な方法で妹を殺すことも、やぶさかではなかった。むしろ光はそうなるべきと確信すらしていた。

 樹々の隙で、黒い塊が動く。こちらに近付いたのだと気付くのに少しかかった。逃げるつもりはないらしい。いい度胸だ。俺は内心僅かに感心する。

 その耳が不自然な音を捉えたのは、それから間もなくしてからだ。

 地を這うような低い呻き声が森閑とした空気を震撼させる。老人のいびきのようでもあったが、それにしては凶暴だった。俺の全身が冷たく総毛立つ。


 唸っている。


 思わず、仰け反りそうになった。それは人と呼ぶにはあまりにも異様な姿をしていた。のそりのそりと四足歩行で俺の正面から徐々に近付いてくる。俺の脚は凍り付いたかのように動かない。

 唸り声の主が星明に浮かび上がったとき、俺はそれが今まで見たことのない異形の生き物であることを悟る。

 体長は優に二メートルを越すであろう。形だけ見ればそれは狐にも、狼にも見えた。黒々とした獣の毛並みは針金のように硬く、紅い月明かりを不気味に反射している。

 目を引くのは、その額から数十センチほどの角が一本生えていることだ。黒曜石を埋め込んだような鋭い角は真っ直ぐ俺へと向けられていて──やや痩せた身体ではあったが、身を低くしてにじり寄るその姿には、充分すぎるほど迫力があった。

 震える脚で後退る。獣はあまり友好的ではないようだった。それどころか乳白色の牙を剥き出しにし、俺を威嚇している。全身に獰猛さを漲らせた捕食者の顔にも見える。

 何が何だか分からない。とりあえずこれが妹ではないと気付いた時点で逃げるべきだった。そう後悔するのが、今の俺には精一杯だ。何かが喉元を圧迫し、苦しい。


「……っ」


 自然と呼吸が荒くなる。一歩一歩地面を踏みしめて近づく度、濃密な獣臭さと息遣いが肌を刺すように感じられる。

 そうこうしている内に、俺と獣の距離は数メートルにまで縮まっていた。

 後ろに下がろうにもそこは湖である。踵で踏んだ石がぐらつき、深淵に落ちていく。

 はっと息を飲んで足を前へ踏み出せば、それが独角獣の警戒心を煽ったらしい。吼え声に凄みが増す。

 そのまま獣は一定の距離を保ち、俺の周りを半円形に行き来し始めた。ゆっくり慎重な足取りで、様子を窺っている。ばくばくとした脈拍が痛かった。間違いなく俺は今、食物連鎖の下位に置かれていた。


 足に力が入らない。それを隙と見たのだろう。突然、獣が真正面から飛びかかってきた。

 それは大きさに見合わぬ俊敏な動きだった。猛々しい咆哮。黒い角が滑るように光る。

 反射的に身体を斜めにずらした俺は、辛うじて鼻や喉を噛まれることを避けた。毛むくじゃらの巨体をどうにか腕で払いのける。

 瞬時に独角獣は足を狙ってきた。考える余裕はない。その毛皮で覆われた胸元を蹴飛ばし、俺は走り出す。

 どう考えても人の脚で逃げ切れる相手ではないだろう。分かってはいても、走らずにはいられなかった。案の定、背後で短い唸りが聞こえたのを最後に、視界が反転する。

 右腕に牙が食い込み、強い力で後ろに引き摺られた。咄嗟に同じ方向に倒れなければ腕ごと持っていかれるところだ。

 勢いのまま半身が水際に突っ込み、冷たさと激痛に呻く。獣の鋭い牙が腕の肉を突き破った感触がはっきりと骨にまで伝わった。


「っ……」


 そのまま脚で俺を押さえこもうとした獣を、俺は必死で転がって避けた。足元で黒い水飛沫が上がる。深みに足を取られて立ち上がれない。

 腕が痛い。いや、重い。激痛が肘の骨を浸蝕していく。

 動きの鈍る水中、俺は死に物狂いで抵抗した。顔が水面から出たり出なかったりを繰り返し、激しい水音が響く。獣が吼えた。大人しくしろ、と怒鳴っているようだった。

 独角獣が一瞬飛び退いた隙に、俺は水底に手を伸ばし浅瀬に這い上がる。波打つ水が薄い血で濁っていた。

 どこを噛まれたのか引っ掻かれたのか見当もつかない。全身が痺れて、咳き込みついでに水を吐き出す。その音が痛いほど頭蓋に反響した。


「げほ、はぁ……は……うっ……」


 四つん這いで肩を上下させる俺。少し離れた場所にいる独角獣の灰色の瞳は、気味が悪いほど落ち着いている。鼻先をひくひく動かし、どこか獲物を甚振っているような素振りでもあった。

 自分ががたがた震えていることに気付く。「怖い」と心が叫んでいた。死ぬことより、この目の前の獣が。

 そう、死など今更恐れるはずもない。それなのに、この独角獣に潔く命を差し出すのには凄まじい抵抗があった。この両者の間に一体どんな差があるのか俺には分からない。

 獣の四肢がしなやかに地面を蹴る。もう俺に抵抗するだけの力がないと判断したのだろう。真正面。殺される、と。


 獣の目を真っ向から見据えた瞬間、俺は絶叫した。

 それがどこから発せられたものなのか分からない。恐怖だったのか興奮だったのか、とにかく俺は叫んだ。

 刹那、自分の声とは信じられない甲高い音が尾を引いて、暗闇を切り裂く。悲鳴というより、遠吠えに近かったかもしれない。

 そしてそれは、思わぬ事態を招いた。

 叫びが夜の空を突き破り、遥か彼方まで響き渡るのを俺は視た。音が目に映るなど奇妙な現象だったが、そのときの俺は、枝分かれしながら夜空に分散して弾ける音の光が確かに視えたのだ。

 まるで、落雷が空に向かって逆走しているようだった。それが音のスコノスの力だとは知る由もなかったが。

 音の霊が触発されたのは上空だけではない。一陣の不可視の衝撃が、風の如く一帯を暴力的に吹き荒ぶ。まるで俺を中心に目に見えない波紋が広がっているかのように。

 本当の悲鳴を上げたのは獣の方だ。キュウともキャンともつかない声を出し、思わぬ獲物の反撃に怯える。尾を下げ数歩下がった後、その大きな影が翻り、夜闇の向こうへ消え去る。


 呆気ないほどの敵の退場を俺は見ていなかった。岸辺に倒れ込み、頭痛と吐き気に目を回す。

 頭蓋骨の中を白熱した光が跳梁していた。絶叫の余韻が反響している、というのは感覚的に分かったが、自分がスコノスの力を使ったという自覚はほとんどない。

 どくどくと、心臓の脈動ですら鼓膜を内から突き破りそうな大音量に聞こえる。耳が熱い。頭が割れそうだ……。

 乱れた波が俺の半身を飲み込む。激しい湖面の揺れを感じながら、俺はあっという間に力尽きた。こちらに駆け足で向かってくる誰かの足音だけが意識の隅で残響していた。



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