Ⅵ
空気の匂いが変わった。俺はゆっくり瞬きをしてその鳥の姿を見ようとしたが、上手く焦点が結ばない。
しかし、見間違えようがなかった。微かに撓む骨のような小枝に、一羽の小鳥が留まっている。碧瑠璃の嘴が美しい、三光鳥──。
辺邑で出会ったこの鳥が「また会おう」と言い残して飛び去って行ったのは記憶に新しいが、まさかこれほど早くに再会することになるとは思ってもみなかった。
しかし、あのときと同じ鳥なのだろうか。
森の中は不気味に薄暗かった。赤銅色の月はあるものの、光は十分ではない。樹木の葉の明るいところと暗いところが、松明の不必要な眩さに灼かれて上下している。混乱がそう見せるのだろうか。暗闇の奥に佇む三光鳥は、まるでこの世のものではないように映った。
「何……?」
口を開いたのは翔だった。その声は、突如として現れた小鳥への困惑以上に、底知れない存在への恐怖のようなものが込められていた。俺は言葉が出なかった。あのときの三光鳥だ、と確信はしていたが、心のどこかで自信を失っていた。熱気がその細かな羽毛を逆立てるまま、三光鳥はしばらく沈黙していた。
「……翔!」
瞬間、松明の炎の先が真っ直ぐ三光鳥へと向けられた。この異様なものとの対面に、動物的恐怖を感じたのだろう。それを制止するため、俺はようやく声が出た。それが自分の声だとは信じられないほど掠れていた。
「これは……この鳥は、前に言った三光鳥だ」
それだけの説明で書けるが納得したかは分からない。暗闇が胸の辺りまで迫ってきているようだった。俺は目線を上げる。
「どうして、ここにいるんだ……?」
「言ったはずだ」三光鳥はやっと言葉を話した。その声は以前よりも曖昧な領域から漂っている。夢の中で聞こえる声のように。「また会おう、と」
「皓輝に、何か用があるのか?」
翔が言う。鳥と会話をするという状況の違和感を隠せないでいる。三光鳥は翔を無視して、俺だけを見つめていた。三光鳥の鮮やかな目輪の奥で、未知の感情が渦巻いている。
「光は?」
俺は何だか呆然とした心地で呟いた。何であれ、目の前に現れた三光鳥は、光の不在と深く関わっているように思えた。「光はどこへ?」と呟く俺の声は、どこか独り言のようでもあった。
「さあてな……」
三光鳥は関心も薄そうに首を傾げる。不意に俺は心が掻き乱されるのを感じた。何かがおかしい。
「どうしていなくなったのか、そこの異民族ならば知っているのではないか?」
俺の視線は自然と翔へ向く。翔の目は爛々として、怒りとも困惑ともつかない何かに揺れている。
「俺は……別に、何も」
「貴様だって、こうなることくらい想定出来ていたはずだ。光にとって、皓輝は良い兄にはなり得ない。紐ごときで何が解決すると思ったか?」
「それは……」
戸惑った声を出し、翔は顔を歪める。二人が何の話をしているのか、俺にはさっぱり理解出来なかった。分かったのは、光がいなくなったのは俺のせいで、どうやら翔たちはそれを知っていたらしいということだけだ。
「どうして」と俺は唇を動かす。気持ち悪いほど口の中が乾いていた。「光はいなくなったんだ。俺に……こんなものを残して」
不器用に編み込まれた細い紐。右手首に力なくぶら下がるそれを見つめる内、答えたのは三光鳥ではなく翔だった。
「気付いて欲しかったんじゃないか。自分の気持ちにさ」
「どんな?」
問い詰めると、翔はその顔を一層苦しそうに歪めた。そこから吐き出された言葉は俺にとって驚き以外の他でもなかった。
「光は……お前のことが好きだったんだよ。それが兄としてなのか、もっと別の意味なのか俺には分からないけれど」
思わず吸い込んだ息がひゅるっと肺の中に入ってくる。
言葉を失ったままよろめいて、俺は一歩後退った。靴が落枝を踏みしめる音が響く。足元がふらつく程度にはその言葉は衝撃的だった。
「何でだよ」
気が付けば俺は情けなくそう口走っている。咄嗟に手を伸ばした厳つい木肌がやけに冷たい。
光が俺を好きになる理由が分からない、と言えば三光鳥は心底興味なさそうに吐き捨てる。「そんなもの本人に訊け」、と。翔は何も言わず、ただ石像のように松明を掲げていた。
俺はどうにか平静を保とうとする。事態の構図が少しずつ見えてきた。俺は妹の顔を嫌でも思い出す。
あいつ……。
「宝石の意味を知っているか?」
圧すような沈黙を破ったのは、三光鳥のそんな言葉だった。俺は首を横に振る。
「それは、パワーストーン、みたいなものか?」
ああ、と鳥は平坦な声で言った。昼間光と似たやり取りを交わしたことはまだ記憶にある。石の力って信じる? と。そう訊ねられたのだ。
俺の視線は、もう一度自身の手首へ向かう。
華やかな赤い吉祥の紐。ゆっくり右腕を傾け、改めてそれをじっくり眺めれば、艶を帯びた瑪瑙の石が明かりの下ぬるりと光った。小粒だが、濃い臙脂色は血のように美しかった。
「瑪瑙に込められた意味を知っているか」
「……知らない。でも、迷信だろう」
「そうだ」三光鳥は実につまらなそうに頷く。「迷信だ」
黙っていた翔が隣で何か口の中で呟いた。よく聞こえず視線をやれば、地面を睨みつけたままぼそぼそ言葉を紡ぐ。
「瑪瑙は、縁起のいい石なんだよ。そこまで高価でもないし、吉祥の紐によく使われる」
「……」
「最初は翡翠で作ろうって話してたんだ。翡翠も幸運を呼ぶ石だから。でも光が急にやっぱり瑪瑙がいいって、そう言ったから変更して……」
どうして翡翠が駄目で瑪瑙が良かったんだろう。翔は誰に言うでもなく、どこか上の空でそう言った。俺はじっと息を殺すようにして瞬きをする。その二種類の石の差異が、科学的合理主義から外れた場所から生まれたことは明らかだ。
下らない、と考えているのは三光鳥も同じらしかったが、それでも彼はそれ以上疑似科学を批判することはしなかった。
「その石は、即ち光の願いだ。意味くらい知っておいてもいいだろう」
「……どんな意味なんだ?」
三光鳥は一度その美しい碧瑠璃の嘴を閉じ、斜めに傾けて俺を眺めた。「瑪瑙の意味は」、と。
「“家族の絆”だ」
がつん、と頭を殴られたような衝撃があった。思わず訊き返す。は? と。唖然。その言葉が、頭の中でぐるぐる螺旋を描いた。“家族の絆”だと?
「それが、瑪瑙の意味か……?」
前髪をくしゃりと握り潰し、俺は三光鳥に訊ねる。自分の聞き間違いではないか、確認をするように。
翔は俺の声が半笑い気味に震えているのに気付いたらしい。微かに血の気の失せた表情で松明の柄を握っている。三光鳥は頷いた。
「ああ」
「光の願い、だと」
「……」
「ふざけるのも大概にしろ!!」
次の瞬間、俺は吉祥の紐を引き千切っていた。呆気ないほど容易く弾けた華奢な紐飾り。地面に叩きつければ、瑪瑙の石と真鍮の輪がバラバラと飛び散る。残骸に向かって叫んだ。
「何が家族の絆だ! そんなもの、今更俺に押し付けてどうするつもりだよ!!」
皓輝、と翔が呼んだようだったが、無視をする。怒りで四肢が飛び散りそうだった。俺は喘いだ。
無残な姿になった吉祥の紐の傍で、投げ捨てた松明が燃えている。
「誰が、誰が絆を──俺から、母さんを奪ったのは誰だと……それが今更──皮肉のつもりか……!?」
血を吐くような声が樹々の間に木霊する。熱い。眩暈と吐き気が同時にやって来て、叫び声すら出なくなる。凍り付いた空気の中、ただ俺の喘鳴が上下していた。
愕然としている翔とは対照的に、三光鳥はひどく冷静だった。長く垂れ下がる尾の飾り羽が緩慢な風に揺れている。
「それが貴様の答えか?」
俺は目線を上げた。感覚が研ぎ澄まされたのか、先ほどまで分からなかった三光鳥の目の奥にあるものがちらりと見えた。病的な感情。深いところに渦巻く、どす黒く根付いた何か。それが嘲笑であると、今の俺には理解出来た。
「貴様は誰からも理解されないし、誰からも愛されない」
足元に散らばった紐の残骸が、光を浴びてひとつひとつ煌めいた。「それが、どうした」と俺は薄く笑いながら吐き捨てる。この世の全てが神経に障った。
「これはあいつが勝手にやっただけだ! あいつがどうなろうが俺の知ったことか!」
今回行方を晦ませたのが「元の世界に帰らない」という意思表示なのだとすれば、それは重大な裏切りだった。あいつは母さんを裏切った。それならば、俺に生きる価値がなかったのと同等に、光が生きる価値もないように思えた。
「元の世界に帰らないなら、死ねばいい。母さんのためにならないのなら、光なんて何の価値もない」
「おい……!」
いきなり翔に胸倉を掴まれ捻り上げられる。呼吸が止まった。ふっと、その碧眼で燃えていたのが義憤以外の何物でもないことに気付く。
それがとても──気に障った。翔が怒声を浴びせてくる。切羽詰まった表情はどこか滑稽だった。
「……お前な! いい加減に……!」
「それはこっちの台詞だ!」
最後まで聞く前に翔の腕を振り払い、蹴りを入れた。考えてやったというより、衝動に突き動かされた感覚だった。
瞬間、体内で白い火花が散ったように錯覚する。
「……お前の正義なんかに付き合うつもりはないんだよ、翔」
気が付けば、そんな言葉が口から出ていた。
藪の傍らに倒れ込んだ翔は、ぎりっとこちらを睨みつける。刃をこちらの首筋に向けるような鋭さだったが、不思議と怖くはなかった。
腹立たしかった。自分勝手な光も、その責任を押し付けようとする三光鳥も翔も、全て。
客観的に見て、これが互いの八つ当たりであることは明白だった。翔は俺の言動が気に食わないのだろうが、俺からしてみれば翔の言動こそが余計な世話だった。
母親のことが絡んだ時点で、何を言っても俺には無駄なのだ。ここで殴り合いしてみたところで、理解し合える問題ではなかった。考え方が根本的に違う。
「お、お前な……」翔は肩を上下させている。蹴りが入った腹部を押さえながら。「妹が死んだかもしれないのに、その言い方は、さすがに酷いぞ」
「死んだかも? ……いい気味だろ」
俺はあっさりそう言ってのけたが、翔の口から光の死を想定するような言葉を聞くのは奇妙だったし、腹立たしかった。
翔は知っていたのだ。光が俺のために吉祥の紐を作っていたこと、そこにどんな感情を込めていたのか──光が姿を消したことに気づいた時点で、最悪な事態を想定し得る程度に、光のことも理解していたのだ。
掴みかかろうとした翔を容易く突き飛ばし、俺は身を翻した。もう、ここにはいたくなかった。
「皓輝!」悲鳴のような声はあっという間に遠ざかる。
俺は走り出した。倒木を飛び越え、真っ黒な樹々の隙を抜けて。古びた喬木が枝を差し出し、視野は悪い。濃い藪が俺の脚を膝まで湿らせる。
限界だった。光の名を聞くだけで吐き気がする。死ねばいい。勝手に野垂れ死ねばいい──いや、と俺は考え直す。死んでいないなら、いっそ俺が殺してやる。
殺してやる、と。これが俺の十一年間抱え込んでいたものなのか。口にすれば驚くほど安っぽく、シンプルで、良いものに思えた。清々しさすら覚える。
同時に不思議な感覚でもあった。自分の奥深い場所から何か白い光が湧き上がって、それが全身に充満していくような──。
草木を踏む度、瞼の裏で火花が飛び散る。どこかで発散する必要があった。これも怒りのせいなのだろうか。俺の口の端から声が漏れる。
「ひかり……どこだ……?」
地面に張り出した樹の根に躓く。闇雲な方向に苔森を突き進んだ。“これ”をぶつける相手が必要だった。不気味な銅色に染まった月が、そんな俺を見つめている。
***
獣のように走り去ってしまった影を何も出来ずに見送り、残された翔と三光鳥は沈黙の中にいた。翔は呆然と凍り付き、三光鳥は感情の窺えない顔つきで。
苔の剥げた地面には二本の松明と、引き千切られた吉祥の紐が散乱している。翔はその口を真一文字に結び、拾い上げるでもなく赤い紐飾りをただじっと凝視した。
数日前から材料を揃えて、光が苦労して編んだ紐飾りだ。あいつのために……。
やがて大きなため息を吐いた翔は、手についた汚れをぱらぱら払って呟く。遠い星を見るような言い方だった。「……家族の絆か」と。
「あいつ、本気で蹴りやがったな」
激昂した皓輝の顔が瞼にこびり付いている。よろめきながら立とうとすれば、下腹部の臓器が鈍く痛んだ。
喉から呻き声ともつかない音が出て、もう一度やるせない息を吐く。
三光鳥はそんな翔をただ見下ろしていた。
「何なんだ、あれは……」
「分かっていた癖に」
嘲られ、翔は顔を上げる。細い梢に留まる小鳥の姿は、どこか不吉な予兆のように感じられた。
「皓輝が光と分かり合うことなど出来ないと、分かっていたのだろう? それでも尚、紐を作らせるよう背中を押した。思いやりを装っている分、質が悪い」
否定の言葉が出ない。吸い込んだ息は喉の辺りでえずくように震えた。ただ黙って、力なく首を横に振る。
そうじゃない──俺と白狐さんは、もっと純粋な意味で期待をした。皓輝と光の関係にある、二人さえ知覚していない兄妹らしさに。血の繋がった家族という関係が生み出す無自覚の甘えや、親しみの情に。
だから、三光鳥の言うように仄暗い意図があった訳ではない。ただただ、絶望的なまでに状況を楽観視していただけだ。
「貴様らが何を言っても、皓輝は変わらないぞ」
それは、そうかもしれないけど。どこか腑に落ちないのは感情論で動きすぎたせいか。翔の頭はもう大分冷えていた。松明を拾い上げれば、燃え続ける焔が木立の影を亡霊のように揺らす。
踏み躙られた吉祥の紐を見下ろす翔の横顔は、象棋に負けた棋士に似ていた。自身の敗因を見極めるよう盤上をじっと眺めている。何がいけなかったのか、どうしてこうなったのか……。
様々な答えと反省点が浮かんでは消滅していったが、最も解せないものは目の前にあった。
「お前は一体、何をしたいんだ」
この黒い小鳥は、翔の知る如何なる種族でも概念でもなかった。それどころか、見れば見るほどその本質を見失うような、不確かな幽霊の影のようだった。三光鳥は黙っている。碧瑠璃の美しい嘴をぴたりと閉じ、底知れない雰囲気を纏っている。翔はそれが気に入らない。
「何なんだ、お前は? 皓輝に何をさせたいんだ」
「試しているんだ。あいつが本当にどこまで行ってもあいつなのか」
せせら笑うような調子に、翔は一瞬気圧される。
「皓輝を苦しめたいのか?」
「……」
三光鳥は答えない。心持ち目の奥が光ったが、それよりも、と淡々とした仕草で、首を傾げる。無理に話題を変えたようには見えない。そこから出たのは予言のような言葉だった。
「あいつは人を不幸にする。これまでもこれからも、奴は誰とも馴染めず、理解し合えず、転落しながら不幸を撒き散らすだろう。貴様も、せいぜい気を付けておくことだな」
「大丈夫さ」
少しも動揺する素振りも見せず、翔は今度こそ立ち上がって体勢を立て直した。その口元に笑みらしきものさえ滲ませ、三光鳥に向き直る。
「俺はもう、不幸なんか怖くないよ」
「そうか」三光鳥は何の感情も読み取れない声でそう言った。
翔の鳥目が皓輝の消えて行った闇の先を睨み付ける。翔にとって、夜の森を歩くのは難しい。しかし先程の皓輝の様子が気にかかる。あの感情の昂ぶりは普通じゃない。
正直なところ、怒りに駆られた皓輝の姿は翔にとって少なからず衝撃的だった。何をしでかすか本人にも分からない、不可解な危うさが見え隠れしていた。
気付かぬうちに翔は細かい瞬きを繰り返している。追うべきか逡巡しているのを察したか、三光鳥は徐に飛び降りるようにしてその肩に留まった。
長い尾羽がひらりと舞う。
驚いて視線を向ければ、憎たらしいほどの変化のない表情が間近にあった。
「光は、まだ死んでいないぞ」
そう囁いて、鳥は突然飛び立つ。はっと息を飲む翔が言葉を継ぐ前に、既にその影と羽音は真っ暗な空へと溶け込んで見えなくなっていた。




