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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十話 吉祥の紐
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 夢を見た。

 これは夢だ、と自分で分かったが、酔いのせいか頭が鉄のように重い。何かの拍子に浮上しかけた意識が、また眠気の底に沈みこんでいく。覚醒には程遠い浮遊感が心地良かった。

 不意に、誰かに右腕を持ち上げられる。重そうで危うげな手つきだ。

 俺はそれが現実だとは思わなかった。ただ手首に何か軽いものが触れたのと、聞き覚えのある声が、夢の中で囁くのを感じていた。


「……許してくれなんて言わない……から」


 微かに語尾の震えた言葉。どうやら声の主は泣いているようだ。か細い嗚咽が、輪郭のぼやけた夢の世界に木霊する。小さな手が俺の手首を握った。


「これ以上あたしのこと嫌いにならないで、欲しいな」


「……?」


 意味を理解する前に、言葉が霧散してしまう。

 力尽きたかのように、ぱたりと記憶が途切れた。また眠ってしまったのだろう。やがて目を覚ました俺は、呆けたように暗澹とした格天井を見つめる。暗い。真っ暗だ。

 寝ぼけ眼を擦っていると、先程見た夢の片鱗が蘇ってきた。俺はしばらく、意識のあるようなないような境目を彷徨う。

 あれは、もしかして光の声か? と気づいたのはもう随分時間が経ってからだった。

 枕から浮かして首を動かすが、妹の姿は見当たらない。やはり夢だったようだ。

 外すことも忘れていた腕時計が二十一時を指しているのを見た俺は、慌てて起き上がる。思っていた以上に熟睡してしまったようだ。

 月蝕はどうなっただろう。まさか見過ごしてしまったなんてないよな。布団を押し退け髪を整えながら廊下に出る。少しも行かない内に翔に出くわした。


「お、皓輝。丁度良かった。呼びに行こうと思ってさ」


 おはよう、と時間にそぐわない軽快な挨拶をしてくる翔に、短く応える。持ち手のついた照明器具が、暗い廊下を眩しいくらいに照らしていた。

 月蝕はどうなったか訊けば「もうそろそろ始まるよ」と笑って教えてくれる。俺はほっとして息を吐いた。


「そうか」


「居間で白狐さんが待ってる。俺、光呼んでくるよ」


「ああ」


 そんなやり取りを交わし、すれ違う。明かりが遠ざかると古い廊下はまた闇色に塗り込められた。手探りでどうにか居間まで辿り着く。

 目一杯全開になった縁側の向こうに、静謐な夜の風景が広がっていた。


「……」


 宵の空に高く上った月は、完璧に満ちていた。涼やかな光が居間の家具の足元に影を作っている。

 白狐さんが一人、縁側の縁に佇んでいるのが見えた。

 湯浴みの後なのか、無造作に解かれた銀の髪の一本一本が月影に淡くなり、白皙の肌はいよいよその色を失くしている。夜に見る白狐さんは、昼間以上に人間味が感じられなかった。

 この人は、昼間は無力なのだと、翔は言っていた。逆に言えば「夜」が彼の本領ということになる。それは容姿や雰囲気も含まれるのかしらと、初めてこの人に会ったときのことを思い出しながらその後姿へと向かった。


「やあ皓輝くん。起きましたか」と振り向かずに目を細めた白狐さんの隣に並ぶ。


 近寄れば一層眩しく輝く月光が、白狐さんの頬の淡い産毛を光らせている。はい、と応えながら一緒に空を見上げる。

 鈍い色の雲が流れている天上に、ぽっかり浮かぶ丸い銀鏡。そこに天子が住むと孑宸の人々が信じたのもむべなるかな、今宵の満月は全く見事の一言に尽きた。周囲に散っている星々も霞んで見える。

 皓月、か。独り言のようにのんびり呟いて、白狐さんはふと俺に目を落とす。つられて俺も顔を横に向けた。


「皓輝くん……」


「ん?」


「……良い名前ですよね。ふふ」


 唐突に微笑まれ、少し面食らう。緩やかに紅い瞳が細まった。


「皓輝。月のように白く輝くという意味でしょうか。とても素敵です」


「あ……ありがとうございます」


 母さんから貰った名を褒められたことが嬉しくて、はにかむ。

 光が産まれてくる前、母さんは何度も俺の頭を撫でながら「皓輝は神様から貰った名前だから」と冗談でも言うような口調で言っていた。それがどういう意味かよく分からなくても、この名前は母さんがくれた数少ない俺の宝物だ。

 それからは二人で何を話すでもなく、真ん丸に耀う望を楽しんでいた。月が欠け始める予定の時刻が迫っている。きっと今頃は多くの孑宸皇国の人々も同じように空を見上げているに違いない。

 これから起こる月天子の御業を予感させるのか、信心がなくとも澄んだ光はどこか神秘的で、まるで吸い込まれるようだった。月明かりに淡く浮かび上がる暗い森の輪郭が音を立てて風にざわめいている。

 駆け足で戻ってきた翔が「光の姿が見当たらない」と眉を顰めるのは、それから間もなくしてからだった。


「光ちゃんが?」


 何とも言えず不安と焦燥感を抑え込んだ表情をしている翔に、白狐さんも綺麗な顔を曇らせる。二人は顔を見合わせ、不穏な胸騒ぎをだんだん確信に変えていった。

 俺はそれに気付かず、あいつはどこに行ったんだと呑気に考えている。やはり興味が湧かなかった。

 上に向かせすぎた首の痛みを気にしている俺は、そこでようやく自分の右腕に僅かな違和感を覚える。

 肌を掠めるこそばゆさ。掌を上向け月光に照らしてみると、そこには見慣れないものが巻き付いていて。


「……?」


 手首を流れる血のような……真紅の紐飾り。少し不格好ながら装飾的に編み込まれた紐には、幾つかの小粒の瑪瑙と真鍮の輪が交互に連ねられていた。しっかり玉結びにされたそれは、願掛けをして身に着けるミサンガにも似ている。

 いつの間に結び付けられていたのか。不思議に思ってその紐を眺めていると、白狐さんと翔は同時に息を飲んだ。何事かと顔を上げれば、翔が苦しそうに顔を歪めていて。


「それは……吉祥の紐」


「吉祥の紐?」


 何度か耳にした記憶のあるその単語に首を捻る。

 それが、この紐がどうして翔たちにそんな顔をさせるのかが分からなかった。ただ一体いつの間に腕に着けられていたのか、俺は徐々に薄気味悪さを覚えていく。

 白狐さんが小さく「光ちゃん……」と呟いた。それは、ここにはいないあいつを呼んでいるような声だった。


「吉祥の紐はね、男女の兄弟の絆を結ぶ紐だよ」


「何だ、それ」


 本当に意味が分からず聞き返すと、翔は険しい表情のまま説明してくれた。


「統一戦争の頃、兄弟の無事を祈って、国に残される姉妹たちが紐を編んで贈る風習があった。姉から弟に、妹から兄に。紐を結んでもらった兄弟は、自分の姉妹を生涯守るという誓いを立てるんだ」


 話を聞いている俺の胸に、どす黒く嫌なものが蟠り始める。自分の右手首に結び付けられたこの紐飾りが、途端に汚らわしいものに思えてきた。

 言いたいことを堪えながら、「それで?」と先を促す。


「ある地域だけで行われていたこの吉祥の紐の祭礼は、“守護”を意味する鳥の啄木鳥に掛けて〈吉月(ジユイ)〉の日に行われるのが慣例だ。まあこれは昔からそうだった訳じゃなくて、近年になって時期を合わせて祝うようになったんだけど……」


 月蝕の日が近付くと、あちらこちらで吉祥の紐が売られるため、市の露店が真っ赤になるのだそうだ。

 現在では戦争の有無や年齢に関係なく、兄弟姉妹の関係を祝う祭りとして盛んに行われているという。

 続けて吉祥の紐を贈るときの一連の手順を話そうとした翔を、白狐さんが制止した。今はそれどころじゃない、と言いたかったのかもしれない。


「光ちゃんは、一体いつの間に紐を結んだんでしょう?」


「あいつはこの習慣を知っていたんですか?」


 一瞬詰まった白狐さんが、顎を引いて小さく頷く。「僕らが教えましたから」と言う声が潜められているのは、背徳感でも感じているからなのだろうか。

 俺の視線は自然と鋭く冷たくなっていた。ここ最近の彼らの隠し事の正体はこれか。

 どういう意図があって、彼らが光にこの紐についての祭礼を教えたのか想像するのは容易い。お節介もここまでくると見上げたものだ。兄妹の絆を結ぶ? 馬鹿馬鹿しい。

 ただ、文句を言っている場合ではないようだった。俺はずっと眠っていて、その紐を結ぶ祭礼に応じた記憶はないから、光は俺の寝込みを狙って勝手に結んだということになる。

 そうなるとあの妙な夢も、本当に夢だったのか怪しくなってくる。とにかく問題は光がどこへ行ったのか、ということだ。


「本当に家の中にはいなかったのですか?」と白狐さんが翔に訊いているのを横目に、俺は空に浮かぶ満月を仰ぐ。


 その端が、濁った赤銅色に染まり始めていた。じわじわと何かに蝕まれるように。


 ……月蝕が始まる。


 ひとまず手分けをして周辺を探そうということになり、〈吉月(ジユイ)〉の祝いも後回しに俺たちは家の外に向かった。行方をくらませた妹を探すなど普段の俺なら考えられない行動だが、今回は別だ。

 言いたいことが山ほどある。文句も罵倒も、本人がいなければ意味がない。酔いなどとうに醒めてしまった。

 右腕に着けられた吉祥の紐が不愉快極まりなく、俺は外そうと玉結びを解くのに苦心した。しかし、早く早くと落ち着かない様子の翔に急かされ、結局俺は紐をそのままに靴を履いて玄関を出る。

 風が出てきたのか、陽の落ちた苔森は、部屋着だけではどうにも心許ない。梢の隙から見える上空を雲が走っていく。


「光は、どこに行ったんだろう……こんな夜更けに」


 玄関の脇で松明に火を灯しながら翔が眉を寄せた。「散歩かな」と続けて呟いたその言葉は、そうじゃないことを分かった上で言っているようにも聞こえる。

 俺は何故光がいなくなったのかさっぱり分からなかった。翔や白狐さんが一足先に感じ取った嫌な予感というものもどこか楽観的に捉え、どうして二人はそんなに焦っているのだろうなどと考えていた。

 俺は、あまりにも妹に興味がなさ過ぎた。少しでも気を払っていれば、最近の光の異変にも意識が及んでいたのかもしれない。

 松脂の染みた松明の先端にぼっと炎が燃え上がる。その内の一本を手渡され、俺は翔と二人で周囲の森を探索することにした。

 手分けした方が効率は良さそうだが、万が一危険な目に遭ったときすぐに対処するためだ。白狐さんはもう一度家の中を確認してくるという。


「ひかりー!」


「光―」


 どうせすぐに見つかるだろうという俺の目論見は外れた。名前を呼んであちこちを回っても、妹の姿は見当たらなかった。まるで夜の深い闇が大きな口を開け、光を飲み込んでしまったかのようだった。

 ぱちぱち燃え盛る松明が夜風に火花を撒く。湿った草叢、笹の藪。躓かないよう気を配りながら俺たちは辺りを炎で照らした。暗い足元の水を踏むし、松脂の匂いが鼻に付く。

 時計を見れば既に探索を始めてから一時間近く経っている。光はいない。どこにも、いない。


「どこに行ったんだ」


 俺は誰に問うでもなく呟いた。

 翔は何も応えず俺の後ろを付いて来ている。夜の陰鬱さがそうさせるのか、いやに曇った表情で。

 草や木の枝を踏む二人分の足音が樹々の隙の闇に吸い込まれていく。

 これだけ探して見つからないということは、もう光はこの近辺にはいないのだろうか。苔森を出たのかもしれない。──何故?

 手首に結ばれた吉祥の赤い紐をちらりと見やる。一旦白狐さんと合流しようか、と翔が漏らしたそのとき、俺たちの頭上を小さな影が横切った。

 軽やかな羽音。錆びた鉄色に翳る月が一瞬隠れ、長く華麗な飾り羽が目の端で閃く。俺と同時にはっと顔を上げた翔が、「あ」という間の抜けた声を出した。


「……」


 俺たちが唖然として見上げる先、細い梢に止まった小鳥が松明の光に舐められていた。



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