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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十話 吉祥の紐
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「兄貴とあたしが逆だったら良かったのにね」


 とっぷり日も暮れ薄暗くなった部屋の中、光は皓輝を見下ろしてそう呟く。

 慣れない酔いせいかすぐ眠ってしまったのだろう。皓輝の着の身着のままで布団に包まり、寝息を立てていた。

 辺りにはしんとした夜の気配が充満していて、風の音も聞こえぬほど静かだ。時刻は二十時を過ぎている。居間で月蝕を待つ二人にも、ここにいることは気付かれていないだろう。

 光は僅かに顔を上げる。兄が使っているこの部屋はあまり広くなく、最低限の家具しかないため質素にも見えた。

 木目の強調された壁際には、彼が初めてここへ来たとき着ていた洋服が一式掛けてある。よく見える場所にぶら下げられたそのパーカーは、両親への執着を表しているようにも思えた。

 まるで額縁に掲げた座右の銘だ、と光は考える。兄はきっと毎朝起きるたびにこれを見て、あの家に思いを馳せているに違いなかった。


「ねえ」


 呼びかけても返事はない。起きる気配を見せない皓輝の枕元に、光は膝をつく。瞼を閉じる兄の横顔をじっと見つめた。湿った髪の間から珍しく額が覗いている。

 躊躇いがちに伸ばされた手は、薄暗い宙を彷徨って止まった。それからぎゅっと握って彼女の膝の上に戻される。

 静電気が起こった訳でもないのに、指先と胸に痛みが走った。越えてはいけない境界線に触れたかのようだ。彼と自分の間に引かれた、明確な境目。

 光は掌を固く握る。着物の裾に皺が寄った。兄の頭を撫でる資格がないことくらい、自分が一番よく分かっていた。


「あたしは兄貴が思ってるほど無知じゃないよ」


「……」


「あたし知ってたよ。兄貴が苦しんでるのは、あたしが生まれてきたせいなんだよね。……昔から兄貴がそう言いたいのを堪えてたこと、知っていたんだから」


 聞こえないと知りつつぽつぽつ語りかけた。いつしか光の口の端には自嘲のようなものが浮かんでいる。

 自分が皓輝に恨まれていることくらい、昔から分かっていた。お前さえ産まれてこなければ──そんな嫉妬と羨望と諦めの混じった視線に気付かないほど鈍くはない。

 でも信じていた。あたしたちが努力をすればいいのだと。話し合えば、いつか理解し合えると。だって、“兄妹”だから。疎まれながら、兄と話をしようと頑張ってきたのに。


「兄貴は変だよ。あんな家に戻りたいなんて、あたしは絶対思えない。あたしたちは全然いい家族じゃなかったよ。でも兄貴を見ていると、頭がおかしくなりそうになる。家族を大事に出来ない自分が変なんじゃないかって思っちゃう」


 嘲るような笑みが崩れて、瞳を伏せる。「本当は兄貴が少し羨ましかった」と。


「あたしも兄貴みたいに、あんな風にお母さんを許してあげられたら良かったのかな」


 零す光の頬に涙が伝った。それでも皓輝は目覚めなかった。


「……もっと早くにこうしていれば良かったね」


「……」


「あの日兄貴が自殺したのを見て、あたしも死ななきゃって思ったの。だから飛び降りたの。本当はあたしが先に死んでいなきゃいけなかったのに……ううん、まだ間に合うよね。あたしの代わりに兄貴が元の世界に帰ってくれたら元通りだもん」


 元通り。お母さんはきっとまた兄貴を好きになってくれる。

 今一番泣きたいのはお前じゃない、と兄に言われたのを思い出す。そうだ、泣いている場合じゃない。自分よりも兄貴の方が何倍も辛かったんだ。そして、何倍もお母さんを愛していた。しばらく薄い肩を震わせた後、どうにか雫を払い、懐から何かを取り出す。

 今朝からずっと持ち歩いていたせいで少し縒れてしまった。深紅の紐を編んで、真鍮の飾りと石を交互に連ねた伝統的な腕飾り。〈吉祥の紐〉の風習を知るこの家の主に作り方を教えて貰いながら作った。決して高価なものではないが、身に着けていてくれたらいいなと思う。

 光は押し殺すようにしゃくり上げ、無造作に投げ出されていた兄の右手首をそっと取る。痛々しく痩せている腕を、彼が何より気にしている鱗の肌を指で触れた。

 何を感じ取ったか皓輝が軽い寝言を言う。少しどきりとして手を取り落としそうになるも、また寝息が聞こえ始め、ほっと息を吐いた。

 早く着けてしまわなければ。目覚めてしまう前に。骨の浮き出た手を自身の膝に乗せ、吉祥の紐を一周ぐるりと巻いた。余裕を持って作ったから少し余る。

 本来はこの祭礼にも決まった手順が必要らしいのだが、兄が応じてくれるとは思えない。強引に絆を押し付ける形になったことを悔やみながら、手首にしっかりと玉結びにした。

 明かりのないこの部屋で、紅い紐飾りは血のように浮いて見える。痩せた手首を慈しみ、光は目を伏せたまま呟いた。


「許してくれなんて言わないから……これ以上あたしのこと嫌いにならないで、欲しいな」


 それは絞り出すような声だった。散々兄に嫌われるようなことをしておいて今更何を言うか。身勝手な願いだと自覚はしていた。皓輝の心から自分が消えればきっと彼は昔のように幸せになれると思うのに、忘却されることは何より怖かった。だから、こんな紐で繋ぎ止めようとしたのかもしれない。

 〈誓い〉なんかいらないよ、と泣きながら囁いた。兄がこの紐をどう受け取るかは分からないが、それだけは分かって欲しい。少しでも自分のことを記憶に残してくれたら、それ以上の驕りは胸に仕舞おう。

 ごめんね、と光は謝る。学校の屋上に立った兄の後姿を見て後悔したのだ。そこにいなければいけなかったのは自分だ。両親から愛されるべきは皓輝で、死ななければいけなかったのは自分だった、のに──。

 そう頭では分かっていたのに、ただ認めたくなかった。それだけが、あたしの十一年の短い人生の全てだった。

 先日話を立ち聞きした時に、兄は自分が一緒に飛び降りたことに憤っていた。彼は知らないのだ。自分が明確な意思を持って彼の後を追っていたということを。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それを知ったら、また皓輝は怒るだろうか。


 静かに皓輝の手を持ち上げ、掛布団の上に戻す。ごそごそ寝返りを打ったが、彼が起きる気配はなかった。光は小さな息を吐き、無言で立ち上がる。その頬にまた涙が伝っていた。

 部屋を立ち去ろうと背を向けた後、一度だけ振り返る。

 布団に身体を横たえ、何も知らずに熟睡している皓輝の姿。目に焼き付けるようじっと凝視した。長年見慣れた姿に様々な記憶が蘇り、決意が揺らぐ。光はぎゅっと着物の裾を握り締め、俯いた。


「どうしてこうなっちゃったんだろう……あたしはただ、家族みんなで……仲良く……」


 涙混じりの声はか細い嗚咽になって続かない。光はもう何も言わなかった。やがて思いを断ち切るよう踵を返し、兄の部屋を立ち去る。


 皓輝の右手首、吉祥の紐に連ねられた瑪瑙の石が光っていた。



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