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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第九話 書庫
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 書庫掃除は順調に進んだ。翔はしばらく物言いたげな様子だったが、結局有耶無耶になった。

 掃除というのは熱が入るととことんやり尽したくなるもので、俺たちも例外ではないようだった。

 一通り書物の選別が終わると水に浸した雑巾を絞り、棚の上を拭いた。踏み台に乗って見れば、何年も手を付けていなかったのであろう積もりに積もった埃の巣に顔が歪んだ。


「本棚も新しくした方がいいかなぁ……」


 入りきらない本を無理矢理押し込めながら翔がぼやく。

 確かに、随分いつか崩れてしまいそうだ。少し揺らせばぎしぎしと不穏な音が鳴った。「白狐さんに相談しよう」と翔が独り言を言う。

 ささくれ立った表面を軽く撫でるだけで白い雑巾が真っ黒になってしまい、首筋が粟立つ。一体どれだけの年月をかければこうなるのか。白狐さんの几帳面な性格も、書庫にまでは及んでいないようだ。

 雑巾を畳んだり洗ったり繰り返して拭き掃除に奮闘していると、ふと腕を伸ばした先にくしゃりと何かが潰れる感触を覚えた。

 塵でもあるのか。背伸びをし、隅の方に落ちていた薄紙の切れ端を拾い上げる。積み上げられていた本の残骸らしい。

 顔を近づけるのも躊躇われるほど厚い埃にまみれていたため、口と鼻を塞いで陽の光に透かした。墨字すら掠れて読めない。ただ何やら白い円と黒い円が幾つも描かれている。

 何かの図表だろうか。俺は紙切れを足元の麻袋に投げ入れた。


「ん、何これ」


 上からひらひら舞い降りてきた本の残骸を翔が摘む。ちらりと見やった後「ああ」と平坦な声を上げた。


「月蝕の周期の記録だな。それにしても、随分古い」


 そこに記された年代は、今から二十二年前のものらしかった。重要なものでもないようですぐ放り投げていたが、月蝕、という言葉に何となく記憶が蘇る。


「確か、月蝕はこの国では縁起の良いものだったか」


「そうさ。月の門が閉まる日。〈吉月(ジユイ)〉と呼ばれている」


 孑宸皇国の創始者〈月天子〉が、あの世への月の門を閉める日。満月の夜は死者が多いが、月蝕が起こればその日死ぬはずだった人の寿命が延びるのだ、と。この国の人たちはそう信じている。

 月蝕が不吉と見なされることの多い人間の神話と比べ、独特な月神信仰だ。


「そういえば今月あるらしいぞ」


「月蝕が?」


「ああ。あと何日か後」


 吉祥の日とされているだけあって月蝕の予測は学者たちの間で盛んに行われているらしく、日付も正確だ。さっきの紙切れもそんな天文学書の一部だったのかと今更気づく。

 月蝕月蝕~と随分翔が浮かれているようだったので「どんなことをやるんだ?」と訊ねると「そりゃあまあ、色々」と誤魔化された。詳しく問いかけても隠し事をする子どもみたいに無邪気な顔を見せるだけ。

 俺に言いたくないことなのか、意図が読めない。訝しげな目線をやる。


「……当日は宴のご馳走を食べるよ。白狐さんが張り切る」


「それは楽しみだな」


 俺の気を逸らす意図が見え隠れしたが、まあいいだろう。白狐さんの作る料理は美味しい。


「他に何をするのか、その日になれば分かるさ」と翔は目尻を細めていた。


 結局、真相は分からないまま、埃との戦いもほどほどに切り上げた俺と翔は一階へ降りた。真面目にやっていたら何日かけても終わりそうもない。

 大量の古本と紙ごみが入った麻袋二つと共に裏庭に出る。翔が管理する小さな家庭菜園があるその横で、袋ごと燃やして処分するのだ。


「書物は必ず火で燃やして天に還すのさ。文昌(ブンショウ)にね」


「文昌……? 学問の神、だよな。確か」


 そうそう、と翔が軽快に頷く。『天介地書』にも載っていた文昌帝は、孑宸皇国における学問を司る神である。元は生きていた皇帝だったそうだが、死後その叡智が讃えられて信仰を集めるようになった。

 どこの世界でも聖人を神格化するのは珍しいことではないようだ。菅原道真が頭を過る。文昌はきっと怨霊ではなかったと思うが……。

 梢の先に広がる昼前の空は抜けるように青い。あちこちに走る細い清水を踏まないよう注意を払いながら袋を引き摺る。芋や豆の芽が出た畑を、小鳥が盛んに跳ねていた。翔が手を振るようにして追い払っている。

 平らな地面を探して火をつける準備をしていると、白狐さんが台所から出てくる。

 昼餉の支度かと思ったが、何やら手に緑色のものを持って近づいてきた。何度も目にしたことのある、緑と白の長い野菜。


(ネギ)?」


「そうです。少し捨てる本が多いので、文昌への供物にします。一緒に燃やしましょう」


 そう言って山積みの本の上にどこか恭しく乗せる。芹菜(セリナ)もあれば良かったんですが、とため息をつくのが聞こえた。

 着火するため少し離れる。学問の神への最もポピュラーな供え物である葱は聡明さ、芹菜は勤勉の象徴。冬の降誕祭にはもっと正式に文昌を祀る儀式があるらしい。

 本を捨てるのにも神を蔑ろにしないよう気をつけなければならないのだな。感心する俺と白狐さんが遠巻きに眺めている内に、翔はぽつり「燃えろ」と短く唱えた。

 スコノスの匂いが鼻先を掠める。次の瞬間、翔が手を伸ばしたところから細い煙が上がり始めた。瞠目する俺の目の前で、風に煽られた白煙が勢いよくたなびく。

 これもスコノスの力なのか。ふっと翔が鋭い息を吹きかければ、あっという間にそこから火の手が上がった。


「おお……」


 ごくごく当たり前に起こった超自然現象に、つい見たままの感想を漏らす。乾いた麻布は見る間に炎に包まれ、焼け落ちていった。

 生き物のようにうねり踊る火。紙の焼ける焦げ臭さ。ぱちぱち爆ぜながら本の山と供物が燃えていくのを無言で見守る。

 ふと隣を見やれば白狐さんと翔が火に向かって粛拝していたので、俺も頭を垂れた。この世界の神に信仰がある訳ではないが、何となくやらなければいけない気がした。

 面を上げた白狐さんがそんな俺を見て小さく笑っている。


「なあ。さっきのやつって、誰でも出来るのか?」


 あれだけあった古本がほとんど燃え尽き、白狐さんが昼餉の支度に先に戻った頃、俺は翔に訊ねてみた。

 焼け跡にはもう燃えるものもないのか、真っ黒な燼灰から白い煙が上がるのみになっていた。


「さっきのやつって?」


「火をつけていただろう。スコノスの力で」


「ああ、うん」


 燃え殻を木の棒で突いていた翔がそんなことかと顔を上げる。

 まともな点火道具もなしに発火させるというのは俺としては信じられないが、翔は当然のように節のあるその棒の先に吐息をかけてみせた。「燃えろ」と。

 途端乾いた先端に炎が灯る。ただの木材だったせいか火が見えたのは一瞬で、あとはか細い煙が出るばかりだ。それでも十分、俺の目には物珍しい。

 どういった原理なのだろう。まじまじとその何の変哲もない棒を見つめる。


「これくらい、スコノスを宿していれば誰でも出来るよ。ちょっと呼びかけるだけでいいのさ」


 実に簡単そうに翔は笑って見せた。

 俺も手近な木の枝を拾って真似してみる。自認していなくとも俺はネクロ・エグロらしいので、そこらの霊に点火を頼むくらいの能力は眠っているのかもしれない。

 証明のような心積もりで、無意識に緊張しながら唱えてみる。


「……燃えろ」


 沈黙。ゆるりそよ風が脇を通り過ぎる。案の定、火が点くどころか煙の匂いすらない。

 もう一度試してみるが結果は変わらず、少し残念な気持ちと、良かったという安心感が同時に込み上げた。

 全く火の気配のない木の棒を放り投げ、立ち上がる。


「やりたいんだったら教えてやるよ。慣れるまで練習がいるみたいだな」


「いや、いいよ」


 翔がにこやかに誘ってくれるのを、断る。

 便利な能力なのかもしれないが、自分が超自然の力を使うところを想像するとやはり気味が悪い。こんなも力に頼らずとも火を熾すくらい自力で出来るだろう。

 不用意に人間の道を踏み外さないようにしよう、と改めて心密かに誓う。


 そんな俺の様子に気付いた訳でもないだろうが、おもむろに翔が歩み寄ってくる。「お願いがあるんだけど」


「何だ?」


「お前の世界の勉強を教えて欲しい」


 予想もしていなかった頼みごとに数秒瞬く。しかしすぐに納得した。翔の目が子どものように輝いていたのだ。

 初めて会ったときから翔は好奇心旺盛で、人間の世界や価値観に興味を示していた。俺の話を聞いて、向こうの世界の学問を知りたいと思っても不思議ではない。

 ふむ、と少し考えてから俺は口を開く。


「……俺で良ければ」


「やったー!」


 両手を天に挙げ大袈裟な程喜ぶ翔。ぴょんぴょん跳ねているのでサンダルが踵から浮いて脱げそうになっている。

 意図的な成績ばかり取っていたとはいえ、勉強を止めた訳ではなかった。母さんが望めばいつでも何にでもなれるよう準備していたし、どのみち勉強とスポーツくらいしか取り柄のない人生なのだ。

 具体的にどういった科目に興味があるのか、そもそも翔の基礎学力がどれくらいなのか。そんな話を交わしながら歩いて家に戻る。

 遅い昼餉の後、勉強会と称して翔相手に教えてやることにした。

 そして。


「皓輝……お前本当に頭いいんだな」


「悪いけどそれくらい、中学生なら誰でも出来る。まだ頭いいのレベルじゃないぞ」


「マジかぁ」


 緩やかな空気の流れる午後の居間に、翔の嘆きが響く。筆を握り、慣れないアラビア数字を和紙に書き綴る翔。

 こういう言い方が適当なのか分からないが、この国の学問は日本に比べ、特に理科系科目の理解に著しい差があった。そもそもあまり重視されていないのだろう。手始めに教えた数学の簡単な方程式で翔は躓いてしまった。


「俺の教え方が悪いのか?」


「いえ、皓輝くんの説明なかなか上手ですよ」


 優雅に脚を組んだ白狐さんが微笑みかける。

 普段の彼であれば華胥の時刻のはずだが、勉強会を開催すると聞いて、いつの間にか茶まで淹れてきてくれた。低い卓に向かい合う俺たちを隣から覗き、中学生一年生基礎の数学がどれだけのものか興味津々である。

 広げた紙には、幾つかの解き方の例と俺が書いた一次方程式の問題が羅列している。思い付きで書いた簡単な式だ。

 中学生なら誰でも出来る難易度でも、翔は珍しく難しい表情で取り組んでいる。その様子が、何だか微笑ましかった。


「ところでこれ、実生活で何かの役に立つのか?」


 ようやく導いた解を書き込みながら翔が訊いてきた。目線は下に向いたまま、真剣だ。俺は卓に肘を付いて鼻を鳴らす。


「役に立つか立たないかで判断している時点で底が知れるぞ。頭の体操だと思えばいい。実学だけが学問じゃないんだ」


 くすくすと白狐さんが笑っているのが聞こえた。俺は湯気を立てている茶碗に口をつける。


「この国の政治は、御時代以降はずっと文官が重用されているのですよ。実学だけが学問じゃない、というのはそうした官僚主義に響く言葉ですねぇ」


「何だか、含みのある言い方ですね……」


 俺は肩を窄める。ふふふ、と意味ありげに笑う彼は、ゆったりと腰を上げた。


「僕は少し失礼して、光ちゃんのお手伝いに行きますね」


「何の手伝いですか?」


「ふふ、内緒です」


 楽しそうにはぐらかされてしまい、首を捻る。

 そういえば、昼餉の後から光の姿が見えない。部屋にでも閉じこもっているのか。あいつが何をしているのか俺の知ったことではないが──。

 翔の解き終えた問題を確認するため、俺は問題用紙を受け取った。大分コツを掴んだのか誤答も少ない。記号の表記ミスを指摘する俺の声が居間に響く。


 月蝕の日に何があるのか、俺はまだ知らない。



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