Ⅲ
平坦な声音が滑らかに自分の口から出る。しかし、無意識に語調が強まっていた。
「お前に、母さんを悪く言う権利はない。何も知らない癖に」
見開かれた翔の目に自分の姿が映っている。翔を見下ろす俺は、自分でも信じられないほど静かな怒りを滲ませていた。
俺の雰囲気が変わったのに気づいたのだろう。呆気に取られて半ば口を開けたままだった翔が、恐る恐る首を傾げる。
「皓輝……?」
「……」
窓から差す日光は、凪いでいた。柔らかな風が頬を撫でていく。剃刀を添えられたように、痛い。
ぐっと古本を握って顔を背けた。唇が震えるが、何度か息を吐いて冷静さを取り戻す。いつの間に強張っていた身体の力を抜き、古本を麻袋に投げ捨てた。
脳裏を過るのは母さんの顔。俺を見つめる優しかった眼差しは、光が産まれたことでやがて何もかも変わった。あなたのせいよ、と母さんの目はいつも俺を責めていた。
「……お前の言う通りだよ」
掠れ声でそう呟くと、翔は意表を突かれたように表情を変える。俺は続けた。
「確かに──俺の家はおかしいのかもしれない。ルールとか世間体とか、他所から見れば、どうして、と思うことも多いだろうな」
うん、と翔が慎重な面持ちで頷く。こちらも危うい綱渡りをする心地だ。足を踏み外せば我を忘れる。きっと今度は殴るだけでは済まない。
翔には解し難いだろう。母さんに従い続ける俺の生き方を。
「お前を怒らせたら申し訳ないんだけど」と前置きした翔が口を開いた。
「普通、そんな理不尽なことをされたら相手が親だろうが何だろうが怒ると思うんだよ。だって生きている意味がないから出て行けなんて命令、いくらなんでも酷すぎる。そんなの親の都合だろ? どんなに重い病気だからって、どんなに娘の方が可愛くたって、親がお前を苦しめていい訳がない」
「そうだな」
尤もだ、と俺は頷く。すると翔は眉をひそめた。
「……よく平然としていられるな。皓輝はお人好しなのか?」
「そんなんじゃない。……俺はそんなに、いいものじゃないよ」
力なく首を振る。あの夜のことが蘇る。母さんもそうだった。俺を理解できず、腹を立て──怯えていた。そして最後は全部俺のせいにしようとした。
「どうして、あなたはそうなの」
俺を責め、同時に困惑している言葉は確かに、母さんが俺を理解しようと努力した痕跡だ。俺は一度も反抗しなかった。どんな馬鹿げたルールにも命令にも従ってみせた。それが彼女を怯えさせていると、あの夜初めて気づいた。自分で虐げた癖に、母さんは物分かりが良いだけの俺を心底畏れていたのだ。
ショックだった。
「……俺だって、これが普通じゃないことは分かってるさ。理解しろなんか言わない。きっと本当に変なのは俺の方だから」
もし声を出す権利があったのならあのとき「ごめん」と言いたかった。泣いている母さんに謝りたかった。生まれてきてごめん。そんな思いをさせてごめんなさい。
俯くと、翔が首を横に振った。
「もしかしたら皓輝の母親は、すごく良い人なのかもしれない。俺が会ったことないから分からないだけで」
「“良い人”は、きっと息子が行方不明になっても気付かない振りはしないだろうさ」
そう、決して善良ではない。俺の母親は──とても臆病な人だ。綱渡りは続いている。
俺だって知っていた。わざわざ言われなくとも、あの人が俺にどれだけのことをしてきたか。
平気な振りをしていても辛いときは辛かった。嫌がらせのようなルールや命令。光との扱いの差。話しかけても知らぬ振り、食事すら作って貰えない。挙句の果てには泣かれて怯えられた。どんなに努力して頑張っても、母さんが振り向いてくれることはないのだ。絶対に。
それでも、俺はあの人の傍にいたかった。
気が昂ぶるのを鎮めて、言葉を柔らかくする。
「ゴミでも奴隷でも何でも良かった。母さんの近くで生きていられるのなら」
「……」
「俺のことは何とでも言えばいい。でも母さんを悪く言うことだけは許さない。頼むから、俺を怒らせないでくれ」
震え声で言い切る。しばし沈黙した後、翔は狼狽えたように視線を彷徨わせた。
俺の顔を見て、壁際の本棚、天井。それからようやくぼそぼそと、分かったよ、と俯く。それは到底納得出来た様子ではなかったけれど。
ゆっくり息を吐いた俺は、立ったまま翔を見下ろす。手の中の箒を弄んでいる翔。ふと先程本で殴った感触が右手に蘇り、後悔する。咄嗟のこととはいえ、手を上げるのは短気だった。
ごめん、と言う。消え入りそうな声だ。きょとんとする翔にもう一度繰り返すと、翔は「気にしていないよ」と緩やかに首を振った。
その顔には困ったような笑顔が浮かんでいる。
「……大事な人を貶されたら誰でも怒るよ」
俺も悪かった。散らかった書物を麻袋に入れる作業に戻りながら、そんな言葉が耳に届く。目を細めると、止まっていた時間が動き出すよう、苔清水の流れと鳥の高らかな鳴き声が遠くから聞こえた。
「お前は……本当に母親のことが大切なんだな。自分よりも」
ぽつり、手を休めずに翔が呟く。
俺はただ頷く。知らなくていい──翔も、光も、それ以外の人も。俺がどれだけあの人を愛しているかなんて。俺がどんな思いで十五年間の人生にしがみついてきたかなんて。
「だから俺は、光が許せない」
新しい本の山を下ろすため爪先立ちをしたまま俺は切り返す。大人げない態度を隠すつもりはなかった。
塵が気になるのか鼻の下を袖で拭いながら翔が訊ねる。
「何で? 光の方が可愛がられているから?」
「いや」
勿論、妬み僻みがない訳ではない。しかし冷静に考えてみれば両親にとって、俺などより光の方がよほど可愛いに違いないのだ。
「嫉妬しても仕方がない。それより、父さんも母さんも光を大事にしていた。あいつは宝物なんだ。光がいなくなって、きっと母さんは悲しんでいる」
喋りつつ、崩さないよう気を遣って積み上げられた古本を下ろす。大きな埃の塊がはらはらと落ちていった。続きを待つ目と視線がぶつかり、俺は口を動かす。
「大事な人が悲しむのを、俺が見過ごすと思うか?」
「……思わない」
苦笑する翔の目尻に軽く皺が寄った。そういうことか、と合点のいった翔の顔に何故だか残念そうな表情が見え隠れする。「それも母親のためだったんだな」。
「当たり前だ」
きっぱり言い放った。十五年間あの人のために生きてきた。母さんのために生き、母さんのために死んだ。全てはあの人の昔の笑顔を取り戻すために。
「母さんが幸せになるのなら俺は何だってやってきた。自分の命だって捨てた。それなのに光は……」
誰よりも両親から愛されていることを知りつつ、光はいつも見えない場所で反発していた。俺はその態度が気に入らなかった。
一体どんな仕組みか分からないが、今思えばこの文明世界に来られたことは不幸中の幸いと言える。もしあの移動がなければ、俺たちはアスファルトに突っ込んでいたに違いない。そうなれば本当に取り返しのつかない事態になるところだった。
光が死ねば、両親はどれだけ悲しむか。身勝手な妹に、俺は怒る権利があるように思える。
「母さんの幸せを阻害する奴は許さない。絶対に」
はっきり口に出す。己の中で決意が固めるよう、俺は心の中で反復した。
部屋の外の床がかすかに軋んだように思えた。だからあいつには帰って貰わなくてはいけない。両親を幸せにすることは、もう俺には出来ないから。
そのとき階段で立ち聞きしていた光がいたことに俺たちが気付かなかった。何かに耐えるよう俯いていたことも、足音を忍ばせて立ち去ったことも。
遠慮がちに翔が声を掛けてきた。
「光がさ、この世界に留まりたい理由って知っている?」
「知らない」
首を振ると、何か言いかけた翔はその口を閉じてしまう。曖昧な笑みを浮かべて。
「……いや、教えない方が良いな。お前を怒らせると怖そうだ」
それがいい、と俺は呟く。翔がこっそり憂鬱そうなため息を吐いていることに、俺は気付かない。




