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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第九話 書庫
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 刻夜家で俺という存在は“いないもの”として扱われていた。口を利いてはいけないし、目も合わせてもいけない。家族の空間から排除され、俺はいつも独りだった。


「俺はあの家の家族として扱われなかった。最初の頃、光はそういう空気を分かっていないように振舞ったり、子どもっぽく強引に俺を場に引き込もうとしていたけど、かなり酷く叱られてからは表立ってそういうこともしなくなった」


 俺は語る。自分の声は思ったよりも平坦で凪いでいた。


「口を利いちゃいけないって、用事があるときはどうするんだよ」


「向こうが呼び出して来たらそれに応じる。俺から話を持ち掛ける権利はない」


「……そんなふざけた決まりに家族全員が従っていた訳?」


「そうだよ」


 結果的にそうだったのだから、俺はそうとしか答えようがない。


「どうして、お前はそんなに親から嫌われないといけないんだ」


 困惑混じりの問い掛け。そんな翔に、知らず口元に笑いが浮かんでいた。傷んだ畳と散らばった本が視界に入る。そんな分かり切った疑問。


「嫌われている、というより憎まれている、と言った方が正しい。家族三人仲良く暮らしていくのに、俺は邪魔だったから。こんな息子は刻夜家の恥ってこと」


 言い終わって拾った本を麻袋に投げ込む。中で積み重なった書物の山が少し崩れた。そして良く見えるよう服の袖から覗く手の甲を掲げる。


「……それだけ……?」


 薄い昼下がりの陽光が、乾燥した鱗の皮膚を照らし出す。横に傾けると一斉に影が動いた。虫の群れのように。

 そうだよ、と目線を合わせた。


「それだけだ。でもそれだけで十分なんだよ。息子を憎む理由はさ」


 ふっと光が産まれる前の時代を懐かしむ。まだ少し若い母さん。記憶の中の小さい俺は何も知らず、幸せそうだった。

 かさついた手を擦り合わせる。

 翔はゆっくり腰を下ろし、何となく落ち着かない様子で畳の上に散らばった埃を小さな箒で掃き始めた。俺も本を選別する作業に戻りながら口を動かす。「お前には、俺が自殺した理由を話す約束だったな」


「……ああ」


 先日はあんなにしつこく食いついてきた翔は、あまり気乗りしなさそうな返事をした。俺は構わず口を開く。


「小さい頃、俺は自分が他の子と違っていることをほとんど知らずに過ごしていた。大抵の同年代の子どもの肌はもっと柔らかくて、丈夫で、一か月に何度も病院に通う必要もないし、母親が涙ながらに『どうにかならないんでしょうか』と医者に訴える姿をぼんやり眺める必要もない。そう気が付いたとき、光が産まれた」


 赤ん坊の光の瞳は丸くて愛らしく、母さんによく似ていた。


「“普通”の光が家に来て、母さんの関心は急激にそちらに向けられた」


 母さんだけではなかった。父さんも、その親族も、俺が生まれたときのひと悶着がなかったかのよう光の虜になった。愛らしく聡明に育っていく妹を眺めている内に、いつしか俺は独りになっていた。

 光は傑作、皓輝は失敗作。陰でそう言われているのも知っていた。

 生まれつき備わった体質はどうしようもなかったが、その代わり俺は勉強も運動も何もかも人一倍頑張ってきた。これといった才能に恵まれなかった俺は、せめて精一杯の努力で欠落したものを補おうとしたのである。

 元々父さんは大企業に勤めるいわば成金貴族の末裔で、母さんは見栄や世間体を必要以上に気にする人だった。子どもは優秀でなければいけないという社会的価値の重視、虚栄心。厳格で権威主義じみた家風が形成されたのも当然に思える。

 いつも一番でなければ許されない。百点じゃないテストは破り捨てられるような家だった。


「皓輝は頭が良かったのか?」


「自分で言うのは憚られるな」


 しかし、同年代と比較すれば明らかに俺は秀でていた。遊ぶことは許されていなかったし、遊びに興味がなかった。自主的に、年齢に見合わない様々な学問にも手を出した。中学は私立の有名な名門校に入学した。

 俺はなるべく淡々と語った。自慢話ではないからだ。不可解そうな顔の翔がそこで口を挟んでくる。


「でも光は、お前がものすごく頭が悪いみたいに言っていたけど」


「ああ……それは」


 中学に入学してから数か月後、俺の成績は目に見えて急落した。光はそれを知っている。

 丁度物事の良し悪しを判断できる年頃になっていたため、あいつにとって兄は「馬鹿で出来損ない」というイメージが強いらしい。


「俺の方が成績の良さで目立っていたら、光の立場がないだろ」


「え……?」


「直接そう言われたというより、父さんから何度か遠回しな嫌味を言われて理解した。そうした方がいいんだ、と」


 その頃俺は家族とは口を利いていなかったが、彼らの態度を見て自分の行動を決められる程度には思考力があった。そして実際、実行に移すのは俺にとってそれほど難しいことではなかった。


「じゃあ……わざとだったのか。何もかも」翔が喘ぐように言う。「光のために、成績が悪い振りを?」


「光のためじゃない」俺は即座に否定する。それだけは有り得ない。俺は両親の意向を察して沿っただけだ。


「満点が取れる程度の実力をつけてテストに挑み、二十点くらいの点数が取れるような解答用紙をつくる。勉強が出来ないやつが百点を取るのは難しいが、出来るやつが特定の点数を取れるよう工作するのは簡単だろ」


 式が必要ならそれらしい間違った式と解答を書けばいい。あまりに突拍子もないと不自然だから、より正答に近い誤った答えを選んで記入する。日頃の振る舞いもそうだ。悪目立ちしすぎない程度に、「お宅の息子さん、ちょっとね」と周囲から白い目で見られるよう演じるのは俺にとってそう難しいことではなかった。


「──ただ、受験本番のときは少し変えた。不審に思われるのを覚悟の上で、白紙で提出したんだ。もし合格してしまったら困るからな」


「それも親の意向か」


「まあ、そうだな」


「とんだ茶番だな」


 俺は頷く。確かに馬鹿馬鹿しい話だった。それでも俺は、そうしたのだ。誰にどんな説得をされても、やっぱり俺はそうしただろう。


「何のために、わざわざそんなことをさせたんだ。お前の両親は?」


「分かるだろ」ため息が出る。「いなくなって欲しかったんだよ、俺に」


 建前が必要だったのだ。俺と縁を切る真っ当な理由が。

 世間に、というよりはむしろ、刻夜家の内に向けた儀式のようなものだったのかもしれない。俺を価値のない人間にしなければならなかった。そうすれば何事もなかったかのように、平和になると考えていた。理想の家族に。父さんがどう思っていたのかは分からないが、少なくとも母さんにとってその理想は呪いのようなものだっただろう。


「殺して庭に埋めるより、勝手にいなくなってくれた方が刻夜家の名誉も傷つかないからな。だから俺も、精一杯悪者を演じた」


 翔は訝って口を尖らせた。


「お前はそんなふざけた理由を知りながら従ったのか」


「あの人のためなら俺は何でもやると決めた」


 正直に言えば、俺もここまで念入りに俺を排除する計画が練られていると最初は気付かなかった。もしかすると両親も、俺が成績を下げ始めた辺りからふと思いついたのかもしれない。あるとき自立という名目で、中学を卒業したら家を出て行けと言い渡され、俺は死のうと決めた。

 本音を言えば、光が生まれてから、そして母さんが泣いていたあの夜から何となく意識していた死という選択肢は、出来るだけ遠くに置いておきたかった。母さんの言うことを聞き続けていればいつか振り向いてくれるんじゃないかと淡い期待をしていた自分もいた。また昔みたいに愛して欲しい、と。

 そして屋上に立ったあの日、俺はそうした未練を全部捨ててきたのだ。


「どうして、卒業して自力で生きていこうと思わなかったんだ? すぐに死ぬ必要はなかったんじゃ?」


「生憎だが学費がない。学校に行くには金が要るんだ。だからといって俺みたいなのがちゃんと就職するのは難しいしな」


 ちゃんとした就職。即ち、刻夜家の偏見的な価値観に耐え得る、体面の良い高給取り。

 もっと努力をすれば、或いは彼らに認められる方法があったのだろうか? でもどれだけ考えてみても、母さんのいない場所で生きる気力は湧きようがなかった。地を這い蹲って刻夜家を見返して、その先に「あのとき死ななくて本当に良かった」と思える明るい将来の展望があるとはどうしても信じられなかった。ならば自らの手で終わりにした方が良い。そう考えたのだ。

 もっと早くこうしていれば良かった。それだけが俺の後悔だ。光が産まれた時点で、俺の生きる価値はとうに失われていたというのに。


「結局のところ、俺が生まれてきた意味も、生きてきた意味も、今となっては何もない──本当に、何の意味もなかった」


 話し終えると、部屋の中は如何にも静かになった。翔が話し出すまで、俺は窓の外の空を眺めていた。屋上で見たのよりも色に密度のある青空だった。季節が進んだのだ、と感慨もなく思う。生き延びてしまった、という実感は驚くほどない。


「理解出来ない」と翔は言う。確認をするようひとつひとつ言葉を並べる。


「お前の両親は、計画的にお前を出来損ないに仕立て上げ、家から追い出そうとしたのか」


「そうだ」


「で、光はそれを知らずにお前が普通に受験に失敗して自殺したと思っているんだな」


「ああ」


 同じ家にいながら恐らく何にも気づかなかった光は、俺を責め続けていた。一方的に。


「家族の和が乱れるのは皓輝のせい。教育上よろしくないから口を聞いてはいけない」両親にそうやって言い聞かせられ、いつしか光は一見大人しい、無口な子どもになった。そして何をどう解釈したのか、俺が更生すれば家族は四人で仲良く暮らせるのだと考えるようになった。


「ある意味で、光もまた俺とは別方向に、刻夜家が生んだ化け物なんだろうな」


「そんな言い方、しなくたって」


 翔が力なく言うのを眺める。自分のことを誰かに話したのは、多分初めてだった。次に何が起こるのか。大体想像通りのことが起こるだろうと思った。


「なあ、どうしてこうも腑に落ちないのか分かったよ」


 翔は重たそうに息を吐いた。こちらを見上げる、率直な眼差し。俺は今、どんな顔をしているのだろう。


「皓輝には反抗心がなさすぎる。お前の両親は、母親はまるで暴君じゃないか。子どもが見栄張りの人形? そんなふざけた話があるか。息子を自殺に追い込むなんて正気じゃない。親として、人として最低だぞ」


 次の瞬間俺は手近にあった古本で翔の顔面を殴っていた。そこまで力は込めていないが、乾いた音が書庫に響く。

 何が起こったか分からず唖然としている翔を見下ろし、口調を変えず言い放った。


「人の母親を悪く言うな」




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