Ⅰ
ぱらり、乾燥した紙を捲る音だけが聞こえる。流れるような筆致で書かれた文字を追う自身の呼吸も集中した耳には遠い。古びた物語に浸ると、自分が外界から隔離されたような心地になる。
この世界と元の世界にはどういった関係があるのか。そもそも世界というのはどういった次元に存在して、そこから出るにはどうしたらいいのか。その重大な疑問を解く手掛かりを探し、今日は朝から二階に籠って本を読み漁っている。
最も頼りになりそうな『天介地書』は一通り読破していた。しかし残念ながら、その漢字だらけの文中に別世界らしいものの記述を見つけることは出来なかった。
俺は改めて、“世界”という単位について考える。
そもそも、二つの異なる世界が同時に存在していて、トンネルのような出入り口で繋がっているという考え方自体が、正確でないのかもしれない。直線方向の時間の流れを想定したとき、二つの世界はそもそも、同じ時系列上に並行して存在しているのだろうか。
確かに三光鳥は、俺の両親が光の捜索願を出したと言っていた。その言葉を疑う意味はなさそうだったが一方で、俺は人間とネクロ・エグロの露骨なまでの文明レベルの差は、単に両者の寿命の差であると言い切れる自信がなかった。つまり、あちらの世界とこちらの世界で同じ時間が流れているという確証が何となく持てなくなっていた。
そういう単純な話ではない。何かもっと複雑で、しかし密接な因果関係を感じずにはいられなかった。この世界で見つけた文字、衣服、建築、食べ物──どれも俺が元の世界で見知ったものと幾つか類似し、幾つかは異なっている。奇妙な感覚だった。まるで、地球の文化が種のように各地で撒かれ、俺にしか分からない散発的な既視体験が生まれているかのようだった。
単に、それは同じような環境で同じようなものが発明される人類の普遍性の証明に過ぎないのだろうか。
答えは分からない。それが困る。何の手掛かりもなければ、光を元の世界に帰す手段を見つけるのが困難になる。
頭を悩ませている俺を見かねた白狐さんに勧められたのが、『天介地書』成立以前からこの大陸に伝わる神話集や民話集だ。本棚の奥に埋まっていたそれは、口頭伝承で古くから語り継がれてきた物語をどこかの歴史学者が文字に起こしたものらしい。
どちらにせよ頼りになる情報源が民譚古譚しかないというのは心許ないが、藁にでも縋るような心地で頁を捲っている。
天学の聖典とされている『天介地書』は、まとまった本として編纂されたのはそこまで古い時代ではないらしい。御時代が始まってから、せいぜい七百年ほど前である。長命のネクロ・エグロにとっては、俺が感じるよりずっと近しい時代だろう。
この神話伝承集には、正規の物語から弾かれてしまった土着的で原始的な神話が幾つもあって興味深い。仮に世界を創造したのが天だったとしても、書物に纏めたのは人だ、ということがよく分かる。
これならば人間の世界に関することも書いてあるのではないかと望みをかけて数時間、いい加減期待するのも疲れてくるほど目ぼしい情報がなかった。四冊目の半ばに差し掛かったところ、首を上げる。長い長いため息が、空中の埃を散り散りにした。
この神話伝承集は聖書正典から外された外典のようなものと考えて良さそうだ。正典に相応しくないと判断された神話は『天介地書』編纂時に排除されたのだろう。実際正典とは矛盾する物語も幾つか見受けられた。
例えば「第三の天子思想」というのがある。一時期民衆の間で流行ったため、皇帝が焚書を命じたほどだという、ある種の『天介地書』の番外編だ。
それは天帝の息子である〈月天子〉〈日天子〉に加え、〈星天子〉という三人目の天子の存在を認めるといった趣旨の神話で、それにまつわる信仰が今でもこの国の水面下で生きているらしい。
三人目の〈星天子〉が一体何者なのか、実在した人物がモデルなのかどうかも定かではない。
俺は首を振った。俺が求めているのは別世界についての記述な訳で、この国の天子思想にいらぬ憶測を働かせる余裕はない。
なかなか思惑通りにいかず、時間だけが過ぎていくことに倦怠感が募った。
乾いた目を閉じていると、足音が軽快に階段を上り、徐々に大きくなってくるのが聞こえる。
誰だ、なんていちいち考えなくても分かる。
「調子はどうだ? 皓輝」
たくあん王子のお出ましだ。小気味よい音で開かれた襖。俺は左右に首を振る。
翔は書棚を通り過ぎて真っ直ぐ奥へ向かった。「こんな埃っぽい場所によくいられるよな」と留め具を外し、勢いよく突き出し窓を開ける。
突然入った新鮮な空気は小机に積もっていた塵を飛ばし、開け放たれたままの襖の先へと吹き抜けていった。
俺は息をつく。何をしに来たんだ、と俺が問う前に翔が話し出す。
「白狐さんが、古い本を処分してくれって。ほら、上に積み重ねているやつとか、もう誰も読まないだろ。あの人、気管が弱いから埃が苦手でさ」
翔は掃除用具らしきものも手にしていた。俺だって濁った空気は嫌いなのに、とぼやきながら面倒そうではない。むしろ主人に頼みごとをされて張り切っている犬に近い表情だ。
読みかけの項をちらりと見やった後、俺は凝った肩の筋肉を解した。翔は、風で乱れた前髪を指で直す。
「光もね、一緒にやりたがったんだけど」
「俺がいるからやめたのか?」
翔は気まずそうな顔をした。
俺としては光に避けられて万々歳だ。しかし、翔や白狐さんがいつまでも遠慮がちな優しさや言い訳がましい態度を取ることに、居心地が悪くないといえば嘘になる。
「俺も手伝おうか」
「いいの? 読書の途中なんじゃ?」
「そろそろ飽きてきたんだ」
そう言って立ち上がり、身体を伸ばす。
翔から指示を受け、まず壁に沿って並ぶ書棚の上へ手を伸ばした。
背丈は歳の割にかなりあるのだが、さすがに天井付近に積み重なる書物の一番上には届かない。仕方なく、というより何も考えず俺は下に敷かれている潰れた本を引っ張り出す。
「翔、気を付けろ」
「へ? ……うわぁあ!」
取ってつけた警告は何の役にも立たなかった。土台となっていた最下層を抜いた勢いで、崩れた本の山がどさどさ天災の如く降って来る。
予想を遥かに上回る埃が視界を煙らせ俺は口元を覆って息を止めた。これは酷いな。
しばらくもうもうとしたあと、濁りきった空気の中、古本に埋もれている翔が見える。いつも光を透かす髪が、見事に艶をなくしていた。
「ごめん」
「笑い堪えてるじゃん……」
水を跳ね飛ばす大型犬のように身体を震わせ、翔が不満そうに下唇を突き出す。決して故意ではなかったが、少しぼんやりしていた。
悪い。俺は笑いを噛み殺し、翔の上に崩れた本の一冊を拾い上げる。「これ全部捨てていいのか?」と訊くと「うん」と答えが返って来た。
「気になる本があったら取って置いていいよ」
いや、と脊髄反射で首を振る。
表紙も中も長い年月を経て黄ばみ、紐が切れてページはばらけ、とても読みたいと思える状態ではない。かび臭さが鼻に付き、眉間に皺が寄った。これは捨てないと何かの病気になりそうだ。
翔は自身の鼻と口を塞ぎ、ほんの少しばかりスコノスの力を指先に宿す。すっと手で空気を切るような動作をすると、縦横無尽に舞っていた塵埃がまとまって窓の外へ飛び散っていった。
やはり風の霊の力は掃除をするとき便利そうだ。翔が大きなくしゃみをする。新たな埃が細かな砂のように舞う。
「風を操るネクロ・エグロは、くしゅっ、掃除に向かないと思うよ」
俺の考えていることを読み取ったのかただの偶然か、翔が鼻の下を掻きながら言う。何で、と訊くと剥き出しの肩が竦められた。
「空気が視えるからさ。汚い空気の中にはいたくない」
「空気が視える?」
おうむ返しにする俺の頭に、空間を漂う二酸化炭素や窒素の原子が立体化して見えるという光景が浮かんだ。まさか。
「何ていうか、汚れた空気や毒気は、はっきりと濁って視えるんだ。煙草なんか一生吸えないな。あんな黒くて淀んだ空気を肺に入れるなんて、考えただけで具合悪くなるよ」
ぐっと眉を寄せた翔は「白狐さんは吸うけど」と付け足す。俺もしばしば、あの世捨て人が古びた煙管をゆくらせているのを見たことがあった。
「白狐さん、気管弱いのに煙草吸うんだな……」
「自殺行為だよね」
はは、と冗談めかして言った後、大きな麻の袋を広げて中に本を放り込み始める。俺もそれに続いた。棚の上に積んだ書物を畳に下ろしては形式的に選別し、捨てる作業を繰り返す。
時折気まぐれに表紙を読んだりページを開いたりしてみたが、見つけたのは挟まっていた小さな虫くらいのものだ。これぞまさに本の虫、としょうもないことを口走っては虫ごと麻袋に投げ込む。
「そういえば、何か目新しい収穫はあったか?」
急に訊ねられ、一瞬何のことか分からなかった。少し間があった後、朝から読み漁っていた本のことかと思い至り、力なくかぶりを振る。
「いや、何も」
「例の三光鳥だかは元の世界に帰る方法を教えてくれなかったのか?」
「ああ」
無責任だな、と翔が口を尖らせた。確かに俺もそう思った。光を帰せと言っておいて帰る方法はまだ教えられない、と言われたときは。
先が見えないとどうにも気が滅入ってしまう。翔が色褪せた書物を手にしたまま、ぽつり棚の上を見上げた。
「三光鳥の情報って正しいのかな」
「……嘘の可能性もある。ただ、俺に嘘の情報を教える理由が見つからない。親切心に溢れた奴には見えなかったけど、嘘を言っているようにも見えなかった」
翔が何か言いたげにこちらを見ているのを受け流す。
全知全能の自称を真に受けるかはともかく、今はあれがもたらしてくれる情報しか縋るものがないし、忠告は正当だった。確かに光はここにいるべきじゃないし、俺は帰るべきではない。
「お前の両親はどうしているんだろうな?」
事情を知らない翔の一言は悪意がなくても十二分に突き刺さる。
「知らないな」
悟られないよう壁の方を見る。翔はそれ以上何も訊かなかった。
それからしばらく、棚の上を雑巾で拭く作業が続く。
「ねえ」と手を止めた翔が切り出して来た。頃合いを見計らったような声だった。
「何だ」
「この間、光が言っていて、気になったことがあったんだけど」
妹の名前が出てきただけで、自分の気持ちが冷めるのが分かる。
「あいつが言っていたことならあいつに訊けばいいだろ」
「教えてくれなかったんだよ」
嘘か真か、眉を下げて微笑む翔の本意は見えない。胸元に付いた埃を払い、俺は先を促した。「で、何て言っていたんだ?」。
「『この家では兄貴に話かけても誰も怒らない』ってさ。これどういう意味?」
「……どういう意味だと思った?」
質問返しにすると、翔は困ったように首を傾げる。薄い毛先がその首筋に落ちた。
「うーん。言葉通りに解釈すると、お前たちが暮らしていた元の家──ではお前と口をきくと怒る人がいたってことかな」
正解だ。淡々とそう伝えると実感がないような顔を向けられた。
まさかその怒る人って皓輝自身じゃないよなと訝しげに訊ねられ、苦笑する。まあ確かに、俺も怒るかもしれない。
少し黙って、代わりに手を動かした。窓から入る暖かな風が背をそよぐのを感じる。外は晴れていて、青緑がかった空を漂う雲も少ない。長閑な日差しが畳に落ちていた。
「──どうして? って言われたんだ」
おもむろに口を開くと、翔がやや面食らった顔をした。
「誰に?」
「俺の母さんに」
あれは中学生になったばかりの頃だった。あの夜母さんは薄暗いリビングで泣いていて、俺は黙ってそれを見ていた。部屋はがらんとして、他に誰もいなかった。壁時計のカチカチ鳴る音が耳の奥で単調に残っている。
「どうして、あなたはそうなのって何度も言いながら母さんは泣いていた。いや、多分怒ってもいた」
あれがどこに向けた感情だったのか俺は未だ厳密に理解していない。だから、きっと俺のせいだったのだろうと思うようにしている。鼻を赤くした母さんはティッシュペーパーで何度か音を立てないよう洟をかんだ。俺は何も言わなかった。既にその時点で、俺は刻夜家の中で誰かの許しなく喋るなと言われていた。
「喋っちゃいけないって、何で?」
翔の声が僅かに裏返る。俺は答えない。
徐々に涙が枯れてきた母さんは、不意に声を鋭くした。「そんな目で見ないで」と。既に寝入っているはずの父さんや光を起こさないよう、幾らか憚った様子で、しかし泣き声の名残で語尾は震えていた。
「頭がおかしくなりそうなの。あなたを見ていると自分が化け物みたいに思えてくる。昔からずっと。あっちに行って。そんな目で見ないで」
ところどころ閊えながら母さんはそう言うと、もう一度洟をかんで、今度はきっぱり切り捨てるような態度で立ち上がった。
「どうして、あなたはずっとそうなの」
そう言い残し、リビングを出て行った。思えば母さんと二人で真っ当に話した最後の機会だった。いや、俺は一言も発さなかったから会話はなかったが、あれは確かにあの人が精一杯俺とちゃんと向き合った最後の時間だったのだ。
俺は目を瞑り、書庫の明るい日差しの中へ戻ってくる。
「まず最初に、父さんからお前は人前で話すなと言われた。不愉快だから、声を出すな、と。次に母さんから目を見るなと言われた。俺はちゃんと言うことを聞いていたよ。逆らっていたのはいつも光の方だ」
刻夜家ではそんな空気が当たり前のようにまかり通っていた。両親が言えばそれがルールになる。子どもはそれに従う。反対も意見も許されない。甘やかされていた光は、両親の目を盗んでそのルールを度々破って、俺に関わろうとした。
……は、と翔の口から言葉にならない息が漏れる。半ば口を開けたまま瞬いて、やや奇妙な角度で俺の顔を凝視した。
「……もしかして、お前の家ってかなり変?」
ようやく翔から出たのはそんな言葉だった。俺はぼんやりとその視線を受け止める。またあの夜の情景が戻ってくる。時計の音、ソファに座って泣いている母さん。離れた暗がりに立っている自分。
「どうだろうな」母さんは俺を責めていた。全部、あなたのせいよ。光と同じ目がそう言っていた。あのときの鉛のように重たい感情が胸を衝き、俺は少し口籠る。




