Ⅲ
唐突に、高い悲鳴が耳を劈く。
樹上だった。やや反応が遅れる。
はっと頭上を見上げた俺は、自身の妹が喬木の上へと引き摺られている光景に呆気にとられ、しかし、驚きのあまり声も出せなかった。
俺の背丈の数倍はあろう樹木の枝分かれした幹。その中ほどに、“何か”がへばりついていた。影の如く黒々とした塊。そしてその人の腕に似た毛むくじゃらの前脚が、光の両肩を掴んでいる。足が地面から浮いた光は、樹木の中腹で半ば宙吊りとなっていた。
見たことのない動物だった。いや、そもそも“動物”なのかも怪しかった。
毛の垂れた尾がある。目を凝らせば頭部に獣の尖り耳が伸び、どことなく狐に見えないこともない。しかし影のように葉陰に溶け込み、威嚇するような唸りを漏らすその気配はこの世のものとは思えず、口の端からぼたぼたと零す粘着を帯びた液体は凄まじい腐臭を放っている。
光を両脚に引っかけたまま、影の猛獣は俺を牽制するように低く咆哮した。捕まっている光は恐怖に顔を引き攣らせている。俺など最早腰を抜かしそうなほど気圧され、足をがくがくさせた。恐れよりもまず混乱の方が大きかった。
──助けなければ。
咄嗟に、川辺の厳つい岩を引っ掴んで投げる。思考も何も後回しにして、闇雲に取った行動だった。投擲した岩石は重たい放物線の末、獣の胸元に中途半端な勢いで当たった。
吠える声がひとつ。牙の並んだその口が、ねばつく液体を吐き出す。
俺は、降りかかるそれを避けた、というより、よろけて偶然直撃を免れた。棘だらけの藪に躓き、無我夢中で腕を伸ばす。
指先にぶつかった石ころを、振り向きざまに投げつけた。先程よりも軽かったそれは闇を裂くこと一直線。獣の甲高い悲鳴で、どうやら奇跡的にも顔面に命中したらしいと分かる。
宙吊りの光の身体が大きく揺さぶられた。人形のように。
好機だった。跳ね起きるようにして地面を蹴った俺は、喬木の中ほどに飛びつき、よじ登り、力任せに獣の前脚を引っ張る。光を離せ、と叫んだ。逼迫のあまり自分の声とは思えなかった。
次の瞬間、腐臭のする液体が顔や胸にぶち撒かれ、思わず足を滑らせる。しかしそれが幸に転じた。いきなり俺の全体重がかけられた獣の左脚は大きく前のめりになり、バランスを崩したのである。
衝撃。痛みが遅れてやってきて、俺は光と苔の地面に投げ出されたのだと知る。肘と肩を打ったらしく、思うように体が動かない。
それでも、のんびり呻く訳にはいかなかった。怒り狂って毛を逆立てたあの獣が、身軽な動作で地面に降り立った。
体躯は大型犬ほどだろうか。喉に大きな袋嚢があることさえ除けば、それは狐の類に思える。黒い毛並みが闇に溶け、目ばかりが爛々と光っていた。
危ない。必死に、飛び掛かってきたその横っ面を大胆にも足で蹴っ飛ばした。
「逃げるぞ!」
喉が焼けつく。光の意識のあるなしの確認をする余裕はない。その華奢な手首を、半ば引きずるようにして俺は駆け出した。
早く、早く逃げなくては。
俺の腰元を、噛み付こうとした獣の息遣いが掠めた。焦っていると視野が利かず、幾度も躓きそうになる。転べば一巻の終わりだった。木の根を飛び越え、薮を掻き分け、草叢を蹴散らした。
背後から足音と唸り声が追いかけてきている。その走り方には隙が無く、どちらに分があるかは明らかだ。四足の獣に二足の人が走って逃げ切れるのか? 答えは否である。
悪い夢なら今すぐ覚めてくれ。これなら絵本に出てくる悪い魔女に捕まった方が余程ましに思える。酷く悪趣味な、何者かの意志がこの場所を支配しているようにさえ思えた。不条理な、何かが。
後方から響く、笹藪を踏むガサガサという不穏な足音。徐々に距離が縮まっているように錯覚する。俺に手を引かれる光は足が遅く、それが余計に焦燥感を煽った。
思考は振り切れていた。ただ逃げろ、逃げろという恐怖に突き動かされていた。
どのくらいそうして走ったのだろう。
兄貴、待って。か細く途切れ途切れの光の声が耳に届いたのは、笹が膝丈まで生い茂る雑木林に逃げ込んだときである。
「──……」
我に返り、勢いを殺して立ち止まる。喘鳴がひゅうひゅうと上下し、心臓が早鐘を打ち、目の前が霞む。口の奥に鉄の苦味が広がった。
しかし、それ以外の音はない。俺は恐る恐る背後を振り返り、そこに獣の影がないか怯えた。鬱蒼と木々が立ち並び、森は闇と静寂に塗り込められている。気付けばあの河から遠ざかっていたようだ。
猛獣が俺たちを見失ったとは思えない。恐らく縄張りを外れたとかで、追いかけることを諦めたのだろう。
安心した途端、膝ががくがくと笑い出した。冷や汗を拭い、骨身に染みた獣の咆哮を思い出しては身震いする。明白な理由がある訳でもなく、ただ漠然として捉えどころのない、訳の分からない恐ろしさだった。
光はその顔を涙と恐怖でぐしゃぐしゃにして、蒼白になり、口もきけない様子でただ胸を押さえている。スカートは泥まみれだった。
しばらく、場違いなほどの沈黙が一帯を満たした。低い笛を鳴らすような、梟の鳴き声がどこからか響く。
「何だ、あれ」ようやく話せるようになった俺は、唾を飲んで口を開く。「今の、何だよ」
俺の知っている言葉では上手く形容できなかった。野山の獣と呼ぶにはあまりにも凄絶だった。ただの生き物とは思えぬ異様さを剥き出しにしていた。
動物などという生易しい枠に収まるものではない。
「前脚で掴んで、まるで人みたいだったぞ」
俺は再度振り返る。思い出す度に、怖気が走る。傍でへたり込んでいた光が、焦点の合わない目を瞬かせやっとのことで口を開いた。
「レッサーパンダじゃない」
「レッサーパンダは多分もっと可愛い」
ここは何なのだ。俺は口汚く悪態をついた。
訳が分からなかった。死んでからもこんな死ぬ思いをしなければならないなんて、全く道理に反しているのではないか。混乱と苛立ちの区別が自分で付かないほど、俺は動揺していた。
俺は服についた妙な液体を拭おうとする。あの獣が吐き散らしたものだ。嗅覚が捻じ曲がるほど凄惨な異臭のするそれは、川底の泥のようだった。
毒か何かでなければいいのだが、と考えた傍から、たちまち身体が酷く軋み始める。
息もつけない痛みに俺は呻き、「兄貴?」と光が心配そうに眉根を寄せてきた。その手を振り払い、俺は膝から崩れそうになるのを踏ん張って堪える。皮膚から徐々に浸蝕している。呼吸をすると、口や鼻の粘膜まで痛くなってきた。どういう種類の毒なのか、慌てて袖で拭い取るが、明らかに手遅れだ。
息が苦しい。体温が上がり、冷や汗が滲む。死ぬのか──人間に二度目の死があるのか?
眩暈に襲われ、遂に立っていられなくなった。
痛みを堪え、蹲る。慌てて傍に膝をつく光が鬱陶しかった。液体に触れただけでこうなるのだから、かなり即効性がある。もし俺の服に付着した液から光も毒に侵されたら──笑い事では済まされない。
俺は光に「触るな」と手を振り、あしらう。
しかしそんなことで引き下がる妹ではない。必死になって俺に何事か呼びかけ、肩を揺さぶってくる。しつこい。突き飛ばすこともままならず、俺は酷く苦々しい思いを噛み潰していた。
俺は光をこの森に一人残すことを改めて考える。
この森には、他にどんな得体の知れぬ動物──とりあえずそう呼んでおく──が潜んでいるか知れない。もし俺たちがまだ死んでいないのならば、この悪夢がいつか覚めるものならば、せめてそれまでの間、光を守ることが己に課せられた最後の使命なのではないか。
俺にとっては不本意この上ないが、少なくとも先程のような獣にこいつをむざむざ食わせてやる訳にはいかなかった。
光に死なれては、俺が困るのである。
「いいか……よく聞け」
俺は光の肩を掴む。目の前が霞んでいた。皮肉なことに、自分から飛び降りようとしたときよりも遥かに、死というものを生々しく実感していた。
「誰か人を探してこい。誰でもいい──ここに人が住んでいるか分からないし、ここがどこなのかもさっぱり分からないが、とにかく助けを求められそうな人を探せ」
「で、でも」
「お前ひとりじゃ俺は背負っていけないし、またあの変な生き物が来ないとも限らない。今動けるお前が動かなきゃ、助かるものも助からなくなる。だから早く行け」
自分が何を話しているのか途中から混濁し始めた。口が上手く閉まらない。ぼんやりした視界に、光の顔があった。光は「分かった」と頷いた。
「絶対助けるから待ってて」
そう言って、光は立ち上がった。その姿を俺はもう見ていない。草藪を掻き分けて遠ざかっていく音を聴きながら、これで良かったのかどうか考えを一巡させ、最適解だったと俺は思った。
固い地面に横たわっているのにその感覚はほとんどなく、ただ身体を伝う汗の冷たさだけが嫌にはっきり感じられる。意識が遠のくまでの間、俺は先程自分が光に言ったことを思い出してみた。
とにかく助けを求められそうな人を探せ──よくそんな思い付きが口から出たものだ。でも、もし光が助かる方法があるなら、その可能性に縋るほかなかった。俺は自分が助かる気などとうになかった。そして、何だか可笑しくなった。「絶対助ける」とは笑える言葉だ。俺を屋上まで上らせたのは、お前なのに。
徐々に毒が回ってゆくのを感じる。完全に意識がなくなるまでの間、俺は初めて妹に勝ったような、歪な感情を噛み締めていた。それはすごく、皮肉な感覚だった。