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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第八話 端陽節
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 試験の解答用紙に自分の氏名だけ書いて、白紙で提出したら不合格になる。実際にやってみた俺が言うのだから間違いない。

 あの後、俺たちは獲物が全く釣れない竿を上げ、更に川の上流へと遡行することにした。

 俺と光と翔の三人、荷物を背負って進むにはいかんせん厳しい山道。普段人が分け入らない天然の登山道は当然舗装などされていない。ごつごつ野趣溢れる大きな岩が転がり、登れば登るほど川幅は狭く急流になっていく。

 慣れた足取りですいすい登っていく翔を、俺と光は滑って転ばぬよう追いかけた。シダの覆い茂る地面に木漏れ日が差し込む。顔に当たると眩しい。どこかから啄木鳥が木を叩く音が響き、ふとさっきのやり取りが頭を過る。

 いつから気付いていた、と訊くと翔は悪戯っぽく舌を出した。


「皓輝が『天介地書』を読んでいたときから」


 あれは、世捨て人と暮らし始めて何日目だったか。上手く思い出せない。しかしそんなに早く気付かれていたのかと驚いた。光ですら未だに気付いていない事実を。

 どうやら古い文体で難解な本を、何の解説もなしに読んだ俺を不自然に思ったらしい。光がどれだけ俺の学業成績をバラしたのかは知らないが、まあその目も当てられぬ無残な話と『天介地書』を読み解く俺の姿が釣り合わなかったのだと。そう得意げな顔で言われれば頭を掻くしかなかった。よくそれだけで繋がったものだ。


「それだけじゃないよ。初めて会ったときから、歳の割に落ち着いていると思った。やけに物分かりがいいし、でも神経質で、ずっと何かを誤魔化そうとしているように見えた」


 翔はパズルの最後のピースを埋めたような顔だった。

 俺は曖昧な声を出す。ずっと監視されるような目で見られていたのかと思うと居心地が悪い。翔がいよいよ詰め寄って来た。


「どうして皓輝は“頭の悪い振り”なんかしていたんだ? 妹まで欺いて」


「どこまで知っているんだ」


「図星だな。さあ話せ」


 俺はため息をつく。「長くなる。それに今じゃまずい」


 光は浅瀬で魚獲りを楽しみ、俺たちのことを気に掛ける様子もなかったが、今ここで話したい内容ではなかった。


「今度な」


 耳元で囁いて、俺は立ち上がる。ずっと曲げていた足が痺れていた。

 今度、という曖昧な言葉に顔を顰めた翔だったが、俺の気持ちを分かってくれたのだろう。よっこいせと足を延ばして「分かったよ」と眉を下げた。

 そうして釣り場を変えようと光を呼び、歩き始めて今に至る訳だが。


「……」


 見抜かれたのは初めてだった。それも相手が人間の世界の事情に疎い翔というのも驚きだ。

 確かに俺はこちらに来てから刻夜家の束縛から解放され、些か気が抜けていたのは認める。それでも一か月と少し共に過ごしただけでここまで洞察されていたとは、相当俺に目をつけて観察していたのか何なのか──。

 下らない約束をしてしまったな、と肩を落とす。人が死のうとした理由なんて聞いても楽しくないだろうに。

 段々の小規模な滝を過ぎたあたりで、先頭を歩いていた翔が足を止めた。それに倣って俺と光も足を止める。眉のあたりに手を当て、きょろきょろ周囲を見渡していた。


 そしてにっこり笑う。「次はここでやろう」と。


 先程よりずっと水の流れが速い。苔の生えた岩に乗って濁流を覗き込む。雨の後だからか水流も増えているのかもしれない。

 翔に手渡された釣り竿を手に、新しい餌を針に取りつけた。ぬかるんだ日陰を避けながら川瀬に釣り糸を垂らす。

 少し離れた場所で光が翔から釣りのやり方を教わっていた。先程の掬い網漁法は危ないと判断したのだろう。虫を前にしているせいか、いつもより静かだ。轟轟と流れる水音に翔の声すら届かない。

 何となしに向こう岸のシダが水流に忙しなく揺られているのを眺めていたそのとき、出し抜けに釣り竿がぐいっと引っ張られた。

 反射的に強く握る。初めは石にでも引っかかったか、それとも川底の河童か何かが糸を掴んだのかと思った。しかし冷静に考えればそんな訳はなく、獲物がかかったのだと理解した瞬間「うわぁあ」と変な声が漏れる。

 幸い濁流が掻き消してくれたがそれどころではなく、竿を持っていかれないよう、よろめきながらどうにか引き上げようと奮闘した。


「翔~!」


「どうした」


 俺の声に笑いながら駆け寄ってくる。近くに来てくれたお陰で幾分落ち着きを取り戻した俺は、下流に逃げようともがく獲物を水から引き上げた。

 竹竿が撓み、重たい。ようやく針のある部分が水面に出てくる。そこには食いついた見事な川魚がびちびちと暴れている。


「おお、なかなか大きいな」


 竿を岸のほうに持ってくると翔が糸を掴んで魚を引き寄せる。斑点のある体は三十センチ近くあった。背から腹に掛けてグラデーションがかかって、素手で掴まれたそいつはひくひく苦しそうにえらと口を動かしている。


「やったな。帰ったら塩焼きにしよう」


 早速今晩の運命の決まった魚を丁寧に針から外し、桶に放した。遠くにいたはずの光もいつの間にか興味深そうに覗き込んでいる。記念すべき一匹目だ。

 やはり上流の方が釣れるな、と翔は笑っていた。

 それからは少しずつ場所を変えながら渓流釣りを楽しんだ。三人で釣れば結構かかるもので、様々な魚が釣れた。

 魚の名前や特徴を教わって、日が傾く頃には獲物が餌に食いついてもパニックにならない程度には川釣りに慣れてきた。


「なあ、皓輝。さっきの話の続きなんだけどさ」


 竿を流したまま翔が近寄ってくる。釣り糸同士が絡まるのが嫌なので心持ち逆方向に手を動かし、何だよ、と応えた。


「お前が光に隠し事をするのは、光のため?」


「そんな訳あるか」


 即答。この会話も川の轟音が掻き消してくれると信じてため息をつく。「俺は生まれてこのかたあいつのために何かをしたことはない」

 翔は間延びした相槌を漏らし、俺の顔をじっと見つめた。俺が嘘をついていないか確かめているような顔つきだ。じろじろ見られるのを居心地悪く思いながら、視線を糸の先に戻す。


「これは俺たち兄妹の、いや、家族の問題だから。お前がそんな残念そうな顔をする必要はないと思うぞ」


「あはは」


 眉を下げた翔は空気の抜けた風船のよう、間抜けに笑った。


「家族なのに」


「家族だから仲良くしなきゃいけない道理はない」


「悪いより良いほうがいいだろ」


 そうかもな。素っ気なく返し、強い手ごたえを感じて竿を引く。逃げられないようタイミングを合わせて、水流に圧されながら竿を撓ませ、獲物を釣り上げた。

 何か言いたげな顔で翔がこちらを見ている。ちらりと見やって口を開く。


「お前と白狐さんは仲が良さそうだよな」


 家族だからか? と皮肉とも自虐ともつかぬものを付け足すと、肩を竦められた。暴れる川魚に手を焼く俺に、翔は笑い掛ける。


「家族になってくれたから好きなんだ。手のかかる俺のことを見捨てずにさ、今までずっと一緒にいてくれたんだから」


 そう語る横顔は幸せそうで、羨ましく思えた。そっと目だけで確認すると、光は俺たちよりも遠い場所で釣り糸を垂らしている。こちらにまるで注意を向けられていないことに安堵して、話の続きを待った。


「どうせ死ぬなら、ああいう人の傍で死にたいって思うよ」


 翔が喉の奥で笑う。


「俺はさ、この通り社会から逸れてしまった身の上だから、山でひっそり暮らすのが精一杯なんだよ」


「……」


「それでも一緒にいてもいいって言ってくれる人がいるのは、本当に有難いことなんだと思うよ」


「そうだな」


 さり気なく視線を外し、調子を合わせる。翔が少し羨ましかった。俺は大切な人を自慢することも出来ない。


「皓輝も大概幸せ者だよなぁ」


「はあ?」


「どうして光の気持ちに気付けないんだか」


 俺は困惑する。光の気持ちなんかどうでもいいだろ。俺には関係ない。意味も分からずそんな風に言えば、ため息が返って来るだけだった。


「そういえば、せっかく兄妹なんだから、光と吉祥の紐を結べば──」


「見て見て! 大きいよ」


 翔の声と、弾んだ光の声が重なる。俺たちは同時に振り返った。自力で釣り上げた魚を掲げて嬉しそうな妹。「おお、すげえ」と翔が歩み寄る。

 翔が何を言いかけたのか分からなかったが、あまり続けたい話題ではなかったので、敢えて追求しようとも思わない。

 針が口に引っかかったまま、身を捩る川魚。濡れた横腹が日差しに反射する。

 光はいつもより楽しそうだった。自分で獲った川魚を前にはしゃぐこいつは、神奈川にいた頃よりもずっと幼く見える。気のせいだろうか。


「大漁だぜ」


「そうだな」


 それからしばらく経って、桶三つ分になった釣果に翔は満足げに頷いた。小魚も含めると相当釣った。二十、三十匹はいそうだ。魚たちは、ぬるい水の入った桶の中で窮屈そうにしている。

 いつしか木漏れ日が淡い橙に染まっていた。ふと顔を上げれば、大きな鳥の影が羽搏き、東へ向かって飛んでいくところが見える。

 騒々しい渓声が耳を打つ中、しばし沈黙して夕陽が傾くのを眺めた。「そろそろ帰ろう」と翔が言うのを合図に俺たちは帰る支度を始める。


「また来ようね」


 そう言う光の声は珍しく興奮していた。黙々と釣り道具を片付ける俺の口からは、遣る瀬無い息が出た。


 陽が沈む。



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