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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第八話 端陽節
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「生餌でやるのか」と問えば、もちろんだと言わんばかりに翔は力強く頷く。


 はい、と空っぽの桶を差し出された。釣りで使う餌が生餌というのは特に珍しくないはずだが、現地調達とは思わなかった。

 仕方なく木桶を受け取って渓流の方に歩み出す。


「あ、皓輝。靴履き替えろよ。光は虫、嫌か?」


 無言でこくこく頷く妹が視界の端に映った。何のためにこいつを連れてきたんだよ、なんて仲間外れにしたい気持ちが湧く。そんなことを言えばまた宥められるだろうか。

 俺は靴を脱ぎ、足首まで留め具の付いたサンダルに履き替えた。着物の裾をたくし上げ、浅瀬に向かう。

 皮膚の疾患部が露わになるが、もう隠す必要もあるまい。


「虫って、どんなのがいいんだ?」


「適当にそこら辺のやつ捕まえておいてよ。石とか引っ繰り返したらいるから。じゃあ、光は網で小さい魚獲るか」


 翔の適当な説明に呆れつつ、足を水に浸して適当な石を引っ繰り返してみる。

 水は思ったより冷たいが、耐えられない程ではない。サンダルを履いているお陰で砂利を踏んでも痛くない。しかしそれらしい虫は見つからない。

 水中の石を動かす度、底から泥が湧き上がって水を濁した。俺は目を凝らす。今何か動いたような。闇雲に泥水へ手を突っ込むと何か鋭い痛みが指に走った。


「痛っ」


「ああ、川虫はたまに噛むから気をつけろって言ったっけ?」


「言っていない」


「今言った」


 遅い、と軽く睨むと、ごめんごめんと軽く謝られる。視線を水中に戻して俺の指を噛んだ犯人を捜した。

 足元の小石の隙に擬態していたムカデのような茶色の虫を素手で引っ掴み、容赦なく桶に突っ込む。

 顔を上げると、清流に枝垂れかかる樹々の葉が太陽を透かして鮮やかに光った。不意に梢の間を碧瑠璃の影が過る。翡翠(カワセミ)だ。見事な色彩の翼が緑の中に煌めいた。水流の冷たさを足に感じながら、思わず見惚れる。

 この辺りの渓流は、川幅は然程なくとも場所によって深浅の差が激しい。滑って転ばないよう虫捕りに励んだ。

 光といえば竿で釣るのは諦め、翔に教わって柄の付いた網で小魚を獲るらしい。あんな虫取り網のような安っぽい網で魚なんか獲れるのだろうか。


「ん、危ないから浅瀬でやってくれな。こういうのは川の真ん中じゃなくて端の方がいいんだ。草叢のある土手の下とかな。魚はいつもそういうところにいる」


 ばしゃばしゃ、二人分の浅い水面を掻き分け、共に翔と光が川に入って来た。片手にたも網、もう片方に水を汲んだ桶を持って。俺は無言で甲羅のついた何かの幼虫を手元の桶に放り込む。


「じゃあここらでやってみるか。見てろよ。まず川の流れの下に網を置くだろ。出来るだけ岸と川底にくっつけて」


「うん」


「……それで、上流から下流に向かって足で水を蹴散らして魚を追い込む!」


 手順の説明の後、派手な水音が跳ね上がり、穏やかなせせらぎが波打った。翔は水を蹴散らす、というよりむしろ川底を踏み荒らす勢いで足を動かすと、すぐに網を持ち上げる。

 そして嬉しそうに声を上げた。子どものように無邪気な笑い声だ。


「あ、獲れたよ。ほらほら、結構いる」


「嘘だろ」


 思わず口を出す。あんなに大雑把なやり方で捕まえられるのか?

 半信半疑で光と共に網を覗き込むと、確かに名前の分からない小魚が四、五匹小枝や小石と共に跳ねていた。俺は驚きを隠せない。

 どれも川底の石や土と変わらない地味な色合いで、大きさは俺の小指ほどのものから十センチはありそうなものまでいる。翔は迷わず小さすぎるものだけ逃がし、残りの獲物は光の桶に入れた。ぽちゃん、と跳ねる滴が顔にかかる。


「す、すごい。こんな簡単に」


 光は感動したように桶を覗き込む。狭い桶の中で三匹の小魚が、ふてぶてしい表情でじっとしているのがおかしかった。ゆらり、水面が傾く度その横腹の斑模様が透けて見える。

 つい、俺も童心にかえって中の魚に指を伸ばした。


「コツは場所選びと足の動かし方。上手く魚を驚かせて網の中に誘導するが大事なんだ」


 得意げに胸を張る。俺たちの反応が新鮮で嬉しいらしい。

 俺たちにとって、魚を生け捕りにする、という行為自体が珍しい。生きている魚を見るのは、せいぜい水族館くらいのものだろう。


「じゃあ光がやってみて」と網を手渡すのを横目に俺は水生昆虫探しに戻った。目が慣れてきたのか、川底や岩陰に潜む虫を見つけるのは上手くなってきた。


 必死に俺から逃げようと這う水中型ムカデを追う。虫をこんな風に追い掛けるのなんてまるで子どもじゃないか、など遠い昔に思いを馳せながら。

 また一層派手な水音が聞こえた。光が追い込み漁に挑戦したのだろう。反射的に首をそちらに向ける。光が軽い悲鳴を上げた。


「何かいる!」


「たくあんの妖精か?」


「うにょうにょしてる!」


 光が水中から引き揚げた網を突きつけている。


「……ああ、どじょうじゃないか。それにしてもデカいな」


 網を覗いた翔が笑んだ。どじょうなら俺も知っている。蒲焼きが定番だ。


「そうそう、どじょうは美味いよ。白狐さんに料理してもらおう」


 光は恐る恐る、網を引っ繰り返し、どす黒い泥と共にうにょうにょしたものを桶に入れていた。


「雑魚は唐揚げか甘く煮るか。酒の肴になるから白狐さんが喜ぶな」


 今夜の夕餉が楽しみだ。

 さて、散々虫捕りしていた俺の努力も報われ、翔に「いつの間にこんな捕まえていたんだよ」と笑われるくらいには生餌を用意した。右手の指先に何度か噛みつかれたが、大したことはない。

 川虫にもいくつか種類があるようで、翔の指示で適当に二つの桶に分ける。芋虫のような形をしたもの、長い触覚をもつもの、何本も足が生えたもの。どれも一様に海老のような薄い殻に覆われた茶色い身体をしていた。


「よーし、じゃあこっちの深いところでやろうぜ」


 光に遠くには行くなと言い聞かせるのも翔は忘れない。俺は乾いた川原に上がり、踝の上まで濡れた足を振って飛沫を飛ばした。

 小高いところにある岸辺に立ち、翔が竹竿の先に糸を付けるのを眺める。竿の構造は実に原始的で、くすんだ竹製の竿、糸の先に針と簡単な錘が付いている。

 翔は手際よく曲がる釣り針の先に川虫を取り付けていた。金属の針が腹を貫通している虫を直視するのは何となく躊躇われる。

 さり気なく視線を逸らし、手渡されたのべ竿を受け取った。


「で、どうやればいいんだ」


「深くて、水の淀んでいるところに投げ込む。あんまり振り回すなよ。枝に引っかかる」


 翔に竿の動かし方や魚がかかった時の上げ方を教わり、俺も挑戦してみる。

 竿の先を移動させ、ぽちゃんと錘の沈む音を確認した。大きな岩があって流れが遅くなっている場所だ。ゆるりゆるり、竿を動かすと水の流れが手に伝わってくる。

 するとまた浅瀬の方から悲鳴が上がった。切羽詰まったものではなく、楽しそうな光の声が。


「今度はどうした」


 笑って腰を上げた翔がそちらに向かうのを見送る。少しして「蟹がいる!」とはしゃぐ光の声が聞こえた。まあ川なのだから蟹がいてもおかしくはないが、それにしてもあいつは生きた甲殻類を見て喜ぶような少女だったかな。川中の糸の先を見ながら、内心首を傾げる。


「でもこれは小さいから食べられないな。放してやれ」


 そう言う翔の声の後、名残惜しそうに光は蟹を川中に帰したようだった。こちらに戻って来た翔はまだ笑顔のままだ。


「可愛いなぁ。お前の妹」


「……」


「あまりこういう遊びしたことないのか? すごい楽しそう。連れてきて良かったな」


 竿を流し続ける俺の横の地面に直接座った翔は、目を細める。目の中で午後の日差しが踊っていた。


「俺の住んでいた街はこういった本当の自然で遊べるような場所は少なかったし、俺は自由に遊ぶような子どもじゃなかった。光は知らない」


「へえ? そうなんだ」


 興味が湧いたのか翔が片眉を上げて見せるが、俺は自分の子ども時代を語って聞かせる気はなかった。ただ短く「俺は可愛げのない子どもだっただろうな」と呟く。


「今も子どもじゃないか」


 予想外の答えが返ってきて、一瞬手を止めた。「……お前や白狐さんに比べればな」


「ちゃんと子どもだよ」


 きっぱり断言され、何とも言えない。

 間抜けな声と共に両腕を高く上げた翔は、明るく笑う。その顔には俺の知らない年月を生きてきた、大人びた表情が見え隠れしている。


「子ども扱いされて反発するのは子どもの証だよ」


「粋がりたい年頃なんだ。放っておいてくれ」


「本当にそうかなぁ」翔の言い方が妙に確信的なので、俺は何となく落ち着かない。


「皓輝も光もいい加減、何かを取り繕うのは止めた方がいいと思うんだ」


「何かって、何を」


「色々と」俺の顔を一瞥した翔が、ふと桶の虫を目で追う。「死にたくないのに死にたいって言うところとか」


「……何だ、それ」


 呆れた声が出た。翔は気にせずそこらに落ちていた小枝で虫を突いている。その声に一瞬、真剣味が滲んだ。


「俺の知る限り、自分で死にたいっていう奴の大半はまだ生きたいと思っているぞ」


「経験談?」


「そう」翔はあっさり肯定し、自虐することもなかった。「追い詰められた人間って死ぬ理由ばかり探すけど、理由を探している最中はまだ生きているんだから、もっと前向きになるべきだよね」


「前向きになれないから死にたいんじゃ?」俺は話が堂々巡りになっていることを感じている。そして、口が滑った。「前向きな気持ちで死ぬ奴だっている」


 束の間、渓流のせせらぎだけが俺たちの間に流れた。翔は何も言わず、宙に浮かんだ俺の言葉をじっと眺めている。そんな沈黙だった。


「皓輝はさ、何で自殺しようと思ったんだっけ?」やがて翔は、口を開く。話題が逸れたような、逸れていないような、微妙な問いだ。


「……高校受験に失敗したから」


「それだよ」


 翔は口を尖らす。


「何が?」


「それがさ、ずっと取り繕っているように聞こえるんだよ。違和感があるんだよ」


 俺は平静を装い水の流れを遡るようにほんの少し光の方へ意識を向ける。


「今度、気が向いたら教えてやるよ」


 そんな口先だけの言葉で翔は引き下がってくれなかった。しかし俺が光を気に掛けたことには気づいたらしい。少しこちらに身を寄せ、声を低める。


「光には知られたくない理由?」


「そういうことになる」


 素直に認めると翔はしばらく渓水のつくる波を見つめ、じゃあこうしようと咳払いした。


「俺の推論が正しかったら、お前は自殺した理由を正直に話さなきゃいけない」


「何だそれ」


 もう一度呆れる。どうして釣りをしていて急に賭け事みたいなことが始まるんだ。竿を引き上げながら翔の顔を見ると、そこには仔猫のような好奇心が見え隠れしていた。

 もしかすると、前から訊きたくてタイミングを窺っていたのかもしれない。光を一喝したあの日から。

 人の隠し事を暴きたくなるのは、同じ人として何ら不自然なことではない。それに確かに、俺が翔の立場なら別世界からやって来た居候の兄妹の事情は知りたいと思うだろう。

 返答に困ってしまう。翔はただ好奇心で知りたいと思っているようだった。それだけで軽く教えていい話ではないような気もする。あまり自慢できる話でもないから。


「実はずっと前から気になっていたことがある。俺の勘が正しいのか、確かめたいんだ」


「もうやめないか? この話」


「いいからいいから」


 しつこいので諦めの滲んだ声で「じゃあどうぞ」とため息をついた。

 ああ、川の魚もこいつくらい勢いよく食いついてくれたらいいのに。今のところ一匹もかからない。

 ふむ、と翔は顎に手を当てて俺の方を見た。やがてその人差し指が俺の鼻先に真っ直ぐ向けられた。口が動く。


「お前は実力が足りなくて高校受験に落ちたんじゃない」


 それは小さな声だが、確信に満ちていた。ゆっくり、言葉を噛み締めるように。


「わざと落ちたんだ。そうだろ」


「……」


 舌打ち。


「よく分かったな」


 俺はやれやれと首を振って、降参のポーズを取った。



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