Ⅱ
どうしてこうなった、なんてため息を吐けば「大人げないぞ」なんて翔にからかわれて。そもそもお前が原因だろと睨めば笑顔で躱された。
高くなった太陽が森の緑を透かしている、昼よりも少し早い時間。
「頑張ってくださいね。今晩の食材はあなたたちにかかっていますよ」
いつの間にそんな重大な任務になっていたのか。
白狐さんのはしゃいだ声に背中を押され、俺たち三人は近隣の水場へ向けて出発した。端陽の儀式と魚釣りのために。
苔森には、まだ連日の雨の気配が残っている。息を吸い込めば、むっと重たい緑の気が肺に満ちた。
ごつごつした樹の幹、地面に張り出した根、無造作に転がる岩の表面にまで緑苔が生え、上に乗った露が日光を弾く。翔たちは、冒険にでも出るような足取りで進んでいった。
光と会話する気はない。する必要も感じない。あの日以来白狐さんや翔が俺たち兄妹にやんわりと気を遣ってきて、その度に惨めな気持ちになった。罪悪感のようなものも少なからずある。
余所の家でおおっぴらに喧嘩をするのはもうたくさんだった。関わらなければいい。近くにいても、見えないふりをすればいい。そう自分に言い聞かせる。
まず目指すのは南東にあるという湖だ。農耕神への供物を捧げるらしい。名前を訊くとしばしの沈黙の後「……たくあん湖」と返ってきたので、恐らく名前らしい名前はないのだろう。
三十分ほどで着くとのことだった。俺は前を歩く翔と光に続いて、苔むした倒木を跨ぐ。背負った釣り道具がゴトゴトと音を立てた。
「それがお供え物?」
歩きながら光が翔の手にしていたものを覗き込む。炊いていない糯米を入れた青い竹の容器。朝食の後、翔が慣れた手つきで楝の葉を詰めて蓋をし、艶やかな綾糸で括っていたのを見た。何かそれに意味があるのかと訊けば、「水の中の化け物を退けるため」らしい。
「水霊、つまり蛟さ。大きな池や湖には大抵棲んでいる、白くて大きな蛇のような姿の深淵の主だ」
そんな風に語る翔は畏怖のようなものがあり、ある種の親しみもある。実際に見たことがあるのだろうか。
「楝の葉も綾糸も、蛟が苦手とするものだからね。せっかくの神農への供え物が蛟に盗られないようこうやるのが伝統なのさ」
「そうなのか」
神農については俺も少し知っている。『天介地書』の一巻で最初の聖人とされていた人物。日を読む術に長け、死後は農業の開祖として祀られたという。
稲作文化を土台に成り立つ孑宸皇国では、彼は国民的な偉人に違いなかった。
世捨て人とは言え東大陸の風習を重んじる白狐さんと翔も端陽節である今日、他の国民と同じよう神農の死を悼み、今年の豊作を願うのだそうだ。
別に皇国民どころかこの文明世界の者でもないはずの俺と光だが、郷に入っては郷に従えということわざを実践してみる。
「蛟──会えるかな?」
「さあ。霧の多い日は浅瀬にもいるかもしれないけど、今日は晴れているみたいだしな。それに俺は水の霊と相性が悪いから、下手に遭遇しない方がありがたい」
やがて、その湖が見えてきた。小高い山々に囲まれた広い水面は、森を抜けて唐突にぽっかり顔を出す。穏やかな風に波打つ水際には涼しげな睡蓮や、名前の知らない黄色い花が咲いていた。浅瀬は澄んで、水底が透けている。
蛟とやらはいなさそうだった。ほっと胸を撫で下ろす。
湖は思ったよりも広大だった。日陰を泳ぐ真鴨の番を指さしたりしながら、俺たちはしばらく湖畔を散策した。青く輝く水面が眩しかった。
「神農はね、自殺をしたんだ」
唐突に翔が、演説でもするみたいに両手を広げる。
「水に飛び込んでさ。だから供え物も水に投げ込まなきゃいけない」
「どうして自殺したんだ?」
問い掛けると、翔は薄い色の眉を下げて笑った。淡い髪色が陽光に透けて見える。
「戦で荒れた世を儚んでね。土地を奪い合う農耕文化が戦火を広げたから、責任を感じたんじゃない」
「ふうん」
間延びした相槌を打つ。そんな大義名分のもとで死んだ人は、自分には程遠い存在に思えた。
ちらり光を見れば、緩やかに髪を波打たせ、何の感慨も窺えない表情で湖水を見つめている。俺はすぐ目を逸らした。
屈んだ翔が、手ごろな石を拾って麻縄で括る。そして竹筒の供物にしっかりと縛り付け錘とした。農耕神へ供え物を捧げる儀式とはどんなことをするのだろう。少し土の盛り上がった湖岸に立ち、俺と光は黙って翔を見守る。
「そおい!」
およそ神聖さとは程遠い掛け声とともに投げ込まれた青竹は、綺麗な放物線を描いてぼちゃんと遠くの水に落ちた。ボールを投げ終わったピッチャーのようなポーズをしていた翔はすぐに両手を合わせて何か言っている。
緩やかな春風に乗って、豊作を祈る言葉が聞こえた。
無事に儀式を終えると、俺たちは湖に流れ込んでいる小川に沿って山へと分け入っていく。
「釣り場についたら昼食にしよう」と翔が提案した。
「遠い?」
「いや、すぐそこさ」翔の口ぶりは、玄人のそれだ。「釣りは一か所で留まってやる訳じゃない。少しずつ上流に上がりながらやるからね」
言葉通り、すぐに最初の漁場に着いた。樹木が生い茂り、薄暗くすら感じる山林を渓水が走っている。思ったよりも深そうだ。
恐る恐る覗きこむと、雨の後のせいか岩陰などは水が淀んでいた。そんな俺の後ろで光は背負っていた荷物を下ろしている。
「……あっ」
そのとき急に変な声を上げた翔に、視線が向いた。何かと思えば、翠嵐に霞む雑木林に向かって笑顔で手を振っている。
「翔、何やってるの?」と光が訝る。
「花神だよ。花神がいたの」
翔は答える。その目ははっきりと何かを追っていた。俺たちには見えない何かを。
「花神って、花の神様?」
「そうだよ、植物に宿る霊さ。可愛い子や美女が多い」
「女の神様なんだ」
「うん。でも怒らせると怖い」
女を怒らせると総じて怖いと思うけどな。小さくぼやく。もう一度木立の隙に目を凝らし、視えないことに安堵する。この森には悪霊だけでない様々な自然霊がいるようだった。
それにしても花の妖精なんて、ファンシーである。
杉の大樹の根元でとる昼餉は、白狐さんが拵えてくれた弁当だ。
「端陽節といえばこれでしょ!」という言葉と共に翔が広げたのは糯米を三角形にして笹の葉で蒸したものだった。馨しい笹の葉の匂いが広がる。
「白狐さんの手作りか」
「昨晩から下準備していたよ。俺たちが出掛けると知って、張り切って蒸していた」
俺は小さく微笑んだ。
張り切りの形跡はその数と種類から窺える。甘辛く味付けた豚肉や小魚、五目、栗、そして甘い餡を包んだもの。同じ蒸した糯米でも様々な味のバリエーションが楽しめる。
適当な岩に腰掛けた俺は、笹の葉を開いてかぶりついた。
「美味い……」
飴色のたれの染みた糯米が口の中でねっとり甘く広がる。唐辛子の辛さが後からやってくる。肉も柔らかい。
俺の向かいで、翔もぱくぱくと食べている。光は小豆の入った白いものを頬張っていた。俺の視線に気付いた素振りを見せたが、特に何も言わない。
清流のせせらぎを聞きながら進む昼餉は、長閑だった。
「そういえば」俺は一口水筒の水を飲んで切り出す。
「何だ」
「さっき、翔は植物の霊と挨拶していたな。普通、あんな風に自然霊とコミュニケーションが取れるものなのか?」
ごくんと口の中の米を飲み込んだ翔が頷いた。
「うん。まあ、ものによるかもしれないけど」
ものによる、とは所有するスコノスとの相性のことだろうか。以前翔が「俺のスコノスは風と相性がいい」と言っていたことを思い出す。
そう問うと、違うという答えが返って来た。
「自然霊の格の方さ。視るだけなら、スコノスの如何に関係なく一定の力があれば誰でも出来る。でも対等な立場でやり取りをしたり、力を貸してもらうなら別」
どうやら自然霊にも階級のようなものや、種族の性質があるらしい。穏やかな性格のものもいれば、誇り高く人には決して懐かないような霊もいる。
更にそれらと親しくなるのには、俺たち側の素質が必要だそうだ。
「才能っていうの? 動物に懐かれやすい人っているじゃん。霊と仲良くなるのも似たような感じ」
「じゃあ、俺はきっと駄目だな」
苦笑いが込み上げる。生まれてこのかた動物に懐かれた試しがなかった。というよりむしろ攻撃されなかったときの方が珍しいくらいだ。
そもそも、先程の自然霊を視ることすら叶わなかった。俺の実力は翔の言う「一定の力」にも及ばないのだろう。それでいい。出来る限り人間から遠ざからないことで俺は安心を得ようとしている。
「翔は、自然の霊と仲良い?」
「うーん、どうだろう」
光の問いに困ったように頭を掻いた。
「少し会話したりする程度なら出来るけど、力を貸してくれるほど懐かせるにはちょっと、俺のスコノスには品格が足りない」
ああ、と納得してしまうのも悪い気がしたが、その前にもう口から出てしまっている。翔は特に何の反応も返さなかった。
「力や素質が十分なら、協力してもらうことも屈服させることも出来る。スコノスとの相性も大事。自然霊を操るのが得意な人は“霊使い”なんて呼ばれるよ」
「ねえ翔、自然霊の中で雷を司るのっている?」
「厳つ霊のことか? もちろんいるよ。一番有名なのは、宇宙の神鳥、豊隆かな」
質問を被せてきた光に、一瞬鋭い視線を送る。雷とは、もしかしなくとも俺を意識しているのか。宇宙の中心に棲まうという巨大な神鳥・豊隆について語る翔の声を聞き流し、手元の糯米にかじりついた。
三十分もすれば、山ほどあった三角形の笹もほとんど中身がなくなる。デザート代わりに甘いものも食べて、満足だ。
笹の葉を木陰に置いて、俺たちは各々伸びをしたりしながら立ち上がった。
「さて、やるか!」
それが、釣りの始まりの合図であることはすぐに分かった。気合の入った翔の声に反応して荷物の中の竹の釣り竿を取り出そうとした俺は、当然のようにすぐ止められる。
「まだ早いよ」と翔は肩を竦めた。その手には木で出来た桶がある。
「まず川虫を採らなきゃ」
「え、虫……?」
光が戸惑った声を出した。




