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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第八話 端陽節
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 夜明けよりもまだ少し早い暗がりに、俺は目を覚ました。


 寝返りを打ち、冷えた鼻先を枕に押し付ける。空気はまだ寒く、思うように身体が動かない。

 しばらくして俺は起き上がる。寝ぼけ眼で羽織るものを探した俺は、よろめきながら部屋を後にした。

 長遐の山は、この季節でも信じられないほど冷え込む朝がある。上着を肩まで引き上げ、木床の冷たさに裸足の裏を浮かせる。丸二日ほど寝て風邪は完治していた。用を足してから俺は部屋へ戻ろうとする。

 廊下の向こうから何かが聞こえた。

 何かが空気を切るような鋭い音だった。何度も何度も繰り返される音に、俺は踵を返してみた。

 向かった先は居間だった。床張りの間に踏み入ると、夜の間は閉められているはずの雨戸が一部開いていた。普段は皆が集まる団欒の部屋はがらんとして、青い光が四角く床に落ちている。

 縁側に出た俺は、外に立っている翔を見つけた。

 その横顔は、じっと一点を睨んでいる。薄っすらとした緊張感が冷気のよう身体を包んでいた。見据えているのは数十メートル先の樹木に掛けられた丸い的である。

 陽も昇らない薄明の時間、その的を視認するのは難しい。小振りの弓をきりきり引いた翔が、不意に矢を離す。白く細い弦が、弾かれたよう暗がりに閃いた。

 ほとんど直線に飛んだ矢は見事的の真ん中を貫いた。俺が無言で拍手を贈ると、翔はようやくこちらに目を向ける。


「やあ、おはよう。早いな」


「そっちこそ。弓も扱えるんだな」


 にこっと笑って、翔は頷く。

 早朝の翔はかなりの軽装で、襯衣に右腕には肘までの革の籠手を着けていた。肩幅に開かれた足はいつもの簡易なサンダルで、指先は夜露に濡れている。

 俺は部屋着の上で外衣の前を合わせる。青い外気を吸い込めば肺の中が強張るようだった。


「いつもこんなに早く起きていたのか?」


「いや、今日はちょっとさ。弓を触りたくなっちゃって」


 言いながら番えた矢を放つ。随分遠くにある的を翔は簡単そうに射当てて見せた。上手いんだな、と言うと照れたように頭を掻く。


「ちゃんと練習しなきゃ鈍っちゃうんだよね」


「何に使うんだ?」


「狩りだよ。鳥とか獲るの」


 その答えに、改めてここは山の中だったと思い出す。

 聞けば秋から冬にかけて、食料確保のため近辺で狩猟をしているらしい。雪が降る時期は邑に行くことさえ困難になるため、野生動物は世捨て人の貴重な栄養源になる。

 弓矢で獲った鳥や兎を捌いて食べるなんて俺には想像も出来ないが、翔にとっては当たり前の習慣のようだった。


「罠を使うこともある。山鳥とか鷓鴣とかね。肉嫌いな白狐さんも食べてくれる」


 俺は鹿を狩るのが好きなんだけどね。そんな風に語る翔に、俺は興味深く相槌を打つ。足元に置いた矢筒から何本も矢を引っ張り出し、目を見張るような速さで連射すると二本ほど外していた。

 舌を出している翔を見て、俺はふと首を傾げる。


「そういえば、スコノスとかは使わないのか? その、狩猟に」


 言っている途中で、翔は軽はずみにスコノスを使えないのだったと思い出す。翔はさして気にした風でもなく苦笑いする。


「野生の動物ってびっくりするほど霊に敏感なんだよ。少しでもスコノスの気配に勘付かれたら、あっという間に逃げられる。だから狩りにスコノスの力は使えない」


 案外不便なものらしい。スーパーで陳列されたパックの肉類をカートに入れるだけで済んだ、かつての生活が懐かしかった。

 汗を拭った翔が縁側に腰掛けた。俺もその隣に座る。

 目の前に広がる苔森はまだ薄暗い。青く澄んだ空気の中、古びた彫像のような樹々は無造作に枝を伸ばしている。朝霧は足元を這い、苔清水のせせらぎが水際の花を震わす。この時間の森は、暗闇の静かな息遣いが一層濃く感じられた。


「弓は、いつから使い始めたんだ?」


「成人してからだよ。十年くらいかな。最初は白狐さんに教えてもらっていたんだけどね……」


 足をぶらぶらさせながら翔は微笑む。傍らに置いた弓の弦を指で弾き、続けた。


「あの人の弓術はもっと格式のある遊技でさ。実戦向きじゃなかった。だから狩りの弓についてはほとんど独学なんだ」


「へえ……」


 隣に目を向ければ弓の達人はたくあんを食べていた。

 森厳なる夜明け前の空に響くその音はあまりにも不釣合いで、俺は乾いた目を擦る。

 やがて翔は立ち上がり、先程の刺さった矢を全て抜き、的を別の樹の幹に括り付けた。更に俺の顔を見ると「よく耳を澄ませてね」と唇に指をあて、猫のような身のこなしで手前の樹木の上まで登った。ゆらゆら揺れた太い枝はやがて静まり、翔の姿は黒い茂みに隠れて見えなくなる。

 森の中は静まり返った。翔が樹上で身を低くしている位置は何となく分かるが、気配は感じない。言われた通り耳を澄ませた俺は、不意に暗闇を閃いた光にはっとする。

 三十メートルほど先の的に、矢が刺さった音が聞こえた。逆に言えば、俺が知覚出来たのはそれだけだった。一瞬の光、そして的を射抜く音。ややあって翔が満足したよう樹上から飛び降りる。細い枝がその身体に当たってぱちぱち弾けた。


「どう?」


「すごい」


 俺は首を横に振りながら答える。翔が俺に何を見せたかったのかよく理解出来た。音がしないのだ。矢筒から矢を取り出し、それを番え、的を狙って弓を引く、それらの樹上で行われたであろう所作全てが無音で為されている。呼吸、身じろぎひとつさえ、感じられなかった。


「これくらいやらないと、動物は逃げちゃうんだよ」


 感心する俺に、弓が差し出される。


「皓輝もやってみる?」


「無茶を言うな」


 翔の口ぶりは遊びに誘うようなものだったが、武器なんて触ったこともないのだ。それに翔の弓術は、ネクロ・エグロであることは関係ない翔自身の努力の賜物だろう。ちょっとやそっと俺が真似してみて、会得できるような代物には思えなかった。


「千里の道も一歩から、だよ。ほら、こっちの地面からだと的が見やすくて射やすいよ」


 翔に引かれるまま裸足で地面に立ってみると、先ほど翔が的をずらしたのは敢えて射線に障害物を多くして難易度を上げるためだったのだと分かった。確かに翔が俺を立たせたのは平地で、視界に樹木がなく、真っ直ぐ射ることが出来れば的には届きそうである。飽くまでも理論上の話ではあるが。

 仕方なく翔から弓と矢筒を受け取ったのは、武器を触ってみたい願望がないわけではなかったからだ。

 竹と木を接ぎ合せた弓は、丁度俺の肩から手首までと同じ長さだった。張っている弦は加工された植物の繊維だろうか。弓道で使う和弓よりもずっと小振りだが、翔曰く、鳥を射るならこれくらいで充分だと言う。矢筒は鹿革をなめしたもので、蝋と彩色で模様がつけられ、肩から掛けられるようになっている。

 俺は矢筒から一本引き出した矢の羽を摘み、見よう見真似で弓を構えてみる。肩幅に足を開いたらまず左肩を斜め前に、右肩を引いて──。


「姿勢悪すぎ」


 あまりにも早い駄目出しが飛んでくる。矢を番える前段階である。「顎を引け」とか「背筋もっと真っ直ぐ」とか、愉快そうな翔に猫背を矯正される。

 改めて弓の持ち方と構えを教わって、矢筈を弦に掛ける。

 平たく尖った矢尻は金属で出来ているようだった。丁寧に研がれているが、新品ではない。恐らく翔が冬の間に使い、獲物の身体から回収し、また別の矢に付け替えてきたものなのだろう。

 その光景を想像したせいではないが、弓を引いていると手が震えた。的は三十メートルほど先である。弧を描くことを想定して的を狙い、思い切って矢を放つ。まるで見当違いの方向に飛んだ矢は、木の茂みを打ち鳴らしてどこかへと消えた。

 翔は俺の顔をまじまじと覗き込む。


「下手……」


「想像出来たことだろ」


 二、三続けても俺の打つ矢が的を掠める気配は一向になかった。それどころか弓を引き絞るのに気を取られ、射たはずの矢を見失う始末である。音を完全に消して的を射抜くなど、夢のまた夢のように思えた。


「なあ、せめてもう少し近くで射ていいか?」


 俺が言うと翔は「獲物がいつも狙いやすい場所にいてくれるとは限らないだろ?」と尤もらしく言う。


「成功体験を与えようという気はないのか?」


「皓輝も意外と甘ったれたこと言うんだなぁ」


 きりきりと弦を引く右手が痛くなって、上手く狙いが定まらない。勢いよく射出した弓矢の先が苔むした樹に弾かれて地面に落ちるのを見ながら、徐々に自分が意地になってゆくのを感じる。


「弓術で大切なのは目だ。的を見る目。間を見計らう目」


 翔のアドバイスを挟んで、また姿勢を矯正されながらも的めがけて幾度も射掛ける。最初よりは大分ましになったと褒められた。と言っても未だに的の端にすら当たっていないのだが。

 難しいとぼやけば、そう簡単に出来ちゃ俺が困ると笑い飛ばされる。

 気が付くと藍の夜空が菫色に変化していた。少しずつ、東の裾から朝がやって来る。夢中になって時間が経つのも忘れていたようだ。

 荘厳な夜明け。黒くたなびく雲が扇の骨のようにゆらり広がり、だんだん浅紫、薄青、金色と絵具で描いたように空の色が混ざっていく。言葉では表せない絶妙な色彩だ。つい手を止めて見惚れていると、翔が欠伸をした。

 手元の矢がなくなると、あちこちに散らばった矢を二人で回収し、折れなかったものだけ矢筒に収めた。そして近くに的を移動させ、翔と二人で交互に射て、点数を競い合ってみた。

 当然俺が翔に勝てるはずもないが、翔の動きを手本とすると格段に動きが上達するのを感じた。的を近くしたせいだろうが、それなりの頻度できちんと的に当てることも出来るようになった。

 白んできた空に、鋭い弓音が響く。自分の放った弓矢が的の端を射抜き、きちんと刺さったので内心よしと声を出す。

 苔生した喬木の間から、朝陽が音もなく差し込んできた。光を纏った誰かが、そっと足音を消して忍び寄るような朝だった。薄っすらとした汗が首筋に垂れてくる。


 そのとき背後の雨戸が開いたので、俺と翔は振り向いた。


「朝から鍛錬とは、結構なことですね」


「白狐さん、おはようございます」


 眩しそうに目を細める世捨て人の主に、翔が手を振る。俺も小さく会釈する。


「おはようございます、お二人とも」


 陽の光を避けるよう目の上に手を当てて、白狐さんは優しげに笑っていた。


「朝餉が出来たら呼びますよ。適当に切り上げて下さいね」


「はーい」


 翔の返事にひとつ頷いた白狐さんは、立ち去る前にはたとこちらへ向き直る。


「そうだ翔、今日は端陽です。神農へのお供え物をお願いしたいのですが」


 分かりました、と翔は返事をする。「端陽って何だ?」と俺は問う。


「ああ、端午節のことだよ。農業の祖、神農の命日でもあるのさ」


 俺は合点がいった。今日は五月五日なのだ。この世界の人たちも節句を祝う慣習があるのである。


「供え物をするのか」


「うん、竹筒に入れた米。水に投げ込まなきゃいけないから、湖まで行くよ。一緒に来るか?」


 俺はその誘いに乗ることにする。朝の光と鳥のさえずりに目を細めながら二人で片付けをした。


「どうせあそこまで行くなら、渓流で釣りでもするか。この時期は色々が釣れるよ。花鱒とか岩魚とか」


 蜂の巣状態だった木製の的を拾い上げ、翔はうきうきとしている。


「釣りって難しいか?」


「全然。誰でも出来るよ」


 翔は言葉を切ってひょいと首を縁側に向ける。いつの間にか光がそこにいた。俺はため息混じりに足の裏の土を払い、東屋の井戸の方へ向かおうとする。

 光とはあれ以来まともに顔を合わせていなかった。怒鳴り散らしたのが相当効いたのだろう。普段なら呼んでもいないのに来る癖に、明らかに光は俺を意識的に避けていた。

 翔が俺を呼び止める。


「皓輝。今日は光も一緒に出掛けたいって」


「じゃあ、俺は行かない」


 そう一瞥くれてやると、翔は実に楽しそうに光の顔を覗き込んだ。


「釣った魚を持って帰る荷物持ちは必要だよなぁ?」


「……うん」


 半ば無理矢理頷かせていたように見えなくもないが、二人の視線が俺に向けられる。片や上機嫌で、片や視線を彷徨わせて。

 舌打ちしかけた俺の耳に、偶然なのかわざとなのか居間の方から白狐さんの声が届いた。


「皆さん朝餉が出来ましたよ。出掛けるなら暗くなる前に戻りなさいね」


 ──今日の予定が決まったらしい。



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