Ⅵ
「ちょっと、待て」
黙って部屋に踏み入れようとした光を俺は止める。むっとしたように唇を尖らせるその顔を睨みつけた。
その手には数冊の本と、湯気の立つ茶碗がある。
「翔に頼まれただけだけど?」
「……」
不遜な態度が気に食わないが今は喧嘩をする体力もない。そうかよ、と一言。俺は仕方なく妹を自室にいれた。
光は抱えていた本を枕元に置き、「はい」と無造作な仕草で俺に茶碗を渡してきた。蜂蜜で甘みを付けた煎薬である。熱そうなので、俺はしばらく両手で抱えてその湯気を顔に浴びていた。
光は、布団の傍にぼんやり突っ立っていた。涙の膜の張った目が一瞬こちらを見て、すぐ逸らされる。ちょっとした仕草が思わせぶりなのは、幼さのせいか天性のものか俺には分からない。
「用がないならとっとと出て行け。あ、そうだ」
適当にあしらおうとした俺は、不意に思いついて光を呼び止める。話をしなくてはいけないのだ。
不思議そうな顔をして見せる光。俺も久し振りに顔を背けず自分の妹の姿を見た。
「……何?」
「お前は元の世界へ帰れ」
数秒沈黙が流れる。元々大きな目が驚愕で見開かれていくのを、俺はじっと凝視した。概ね予想通りの反応だ。光は狼狽えたように何度も瞬きし、俺の言葉を飲み込もうとしている。そしてどうにか口を開いた。
「ど、どうやって……?」
「それは、まだ」分からないんだけど。声が小さくなる。
俺の声は笑ってしまうほど落ち着いていて、それが虚しかった。どうして、と眉を寄せる光に、俺は息を吸い込み淡々と説明する。
「三光鳥という予言者から聞いた。父さんと母さんがお前のことを心配している。当たり前だが俺たちは行方不明扱いだから、捜索届も出して警察沙汰になっているらしい。光だって分かるだろう。あの二人はお前が誰より大切なんだ。こんなところに留まる理由はない」
「……」
光は何も言わなかった。何も言えないと言った方が正しいだろうか。衣服の裾を握り締める小さな手は震えていた。
俺の胸には何の感慨も湧かない。
「あ、兄貴は……?」
帰らないの? 語尾の震える光の声に思わずため息が漏れる。苛立ちが首を擡げた。
「それはわざわざ俺が答えなきゃいけないことか?」
「……」
何となく意味を察したか、視線を外された。どうして自分の口から言える。両親が出した捜索届が光一人分だけだったなんて。
布団に座る俺はこの沈黙に何とも言えない虚無感を覚えた。
あの奇妙な喋る鳥に言われたのだ。光を元の世界に帰せ、と。
理由は単純。事故のような流れでやってきた人間は、ネクロ・エグロの世界に留まるべきではないからだ。そして、両親が心配しているからだ。
全知全能を謳う三光鳥の力を借りなくても、父さんと母さんが突然姿を消した娘に驚き戸惑い、大騒ぎしていることくらい容易に想像出来る。俺の両親は何よりも光を大事にしていた。
そして俺は。
布団の下に隠した掌を握ったとき、床を睨んでいた小さな顔が意を決したようこちらに向けられた。
「嫌だ……」
「──は?」
「あたし、帰らない。ずっとここにいる」
そんな言葉を放った光の唇が、き、と一文字に結ばれる。俺は、自分の瞼が痙攣したのが分かった。
「だってこの家なら、兄貴に話かけても誰も怒らないんだもん」
ぞくり自分の背筋に何かが走る。俺の顔色の変化に気付かない光はいつもより強い口調で言い切った。
「ここにいるよ、あたし。白狐さんと翔と、皆で暮らすの。あの家になんて帰らない!」
「……」
直後、俺は手にしていた茶碗を力任せに投げつけた。熱い煎薬が弧を描き、壁にぶつかった破片と共に辺りに飛び散った。光の悲鳴が上がって、それでも当たりはしなかった。
「それを俺の前で言うのか……?」
突然声を掠れさせた俺に、光はびくりと肩を震わせる。俺は叫んだ。
「俺はな、帰らないんじゃない。帰れないんだよ! 帰る場所がないんだ、お前と違って!」
視界が霞んで頭ががんがんと痛んだが、一度切れたものはもう止まらなかった。俺の怒鳴り声が部屋中に反響する。
「あ、兄貴」
「お前はいいよな、皆に帰りを望まれているのに、それを踏み躙ってのびのびバカンス気取りか? 俺には、選ぶ権利すらないのに──?」
心臓が早鐘のように脈打つ。どうしてそんな選択が出来るのか、意味が分からなかった。
両親がどれだけ心配しているのか、考えたことはないのか。どうして自分を可愛がってくれる親のところに帰ろうとしないのか。どうして俺の前で、そんなに無神経な言葉を吐くことが出来るのか──。
息を吸い込んだ拍子に咽た俺に、光が慌てて近寄ったような気配があった。呼吸が苦しくて涙が滲むほどなのに、怒りが収まらない。
咳き込みながら、俺は光を突き飛ばした。よろけたその足元で、茶碗の破片が音を立てる。本当は殴り倒したかった。破片の上に倒れて血まみれになる光の姿を見れば、少しは胸が空く気持ちになれるに違いなかった。
だが、それでは何の解決にもならない。俺は自分に言い聞かせる。
俺は光を傷つけることは出来ない。光は両親の宝物だった。
よろめきながら立ち上がった妹に目を向けた。自分でも驚くほどの殺意に苛まれる。ぎり、と睨むと受け止めるいたいけな瞳が不自然に潤んでいるのが分かった。
今一番泣きたいのはお前じゃない──それすら分からないのか。荒くなる呼吸を整えゆっくりと口を動かす。
「理解しろ……父さんと母さんにはお前が必要なんだ。俺じゃなくて」
その言葉に光は口を閉ざし、小刻みに震える以外何もしなかった。その目尻から滴が零れる。
「もう一度言う。父さんと母さんのところに帰れ。分かったならとっとと失せろ!」
叩きつけるように叫ぶと光はきつく唇を結び走って部屋を出ていった。俺はもう一度激しく咳き込んで布団に倒れ込む。
喉がしゃがれていた。疲労感と気怠さがどっとやってくる。熱が上がったかもしれない。俺は息苦しく寝返りを打った。
三光鳥に言われた。誰もお前の帰りを望んでいないし、お前はネクロ・エグロなのだから、こちらの世界にいるほうがよほど自然だ。これ以上自分の両親を苦しめたくないのだろう、と。
あの日俺と光が行方不明になってから、両親はずっと光を探し続けていたそうだ。比較的早いうちに捜索届を提出し、少女行方不明事件はマスコミにも取り上げられた。
大々的に報道された光とは裏腹に、兄の存在を思い出す人間はほとんどいない。元々いないように扱われていた俺だ。これ幸いとばかりに両親は敢えて俺の存在を世間に公表しなかった。
しかし光と同時に姿を消した俺に何かしらの関連性があることは明白で、お前の捜索届が出されるのも時間の問題だろうと三光鳥は語っていた。しかし、それはもちろん俺のためではなく、光のためだ。
「……」
光が憎かった。心の底から。
ふと人の気配を感じて重たい頭を擡げた。いつの間にか、半端に開いたままの戸の隙から、白狐さんが心配そうに覗いている。
「喧嘩をしたんですか? 光ちゃんが飛び出していきましたが」
「……」
彼が下げた視線の先には、砕けた茶碗の破片がある。床には冷めた煎薬が斑に広がっていた。
「何か、言いたいことは?」
「──何も」
大きくため息をつき、俺はゆっくり首を横に振る。息が苦しかった。
「……俺が、悪いので」
声が掠れてほとんど消える。そうだ、俺が悪いのだ。誰もがそう言う。そうやって簡単に光を庇う。幼い妹を怒鳴って暴力さえ振るう、異常な兄だと。
俺は何も言わない。そう決めている。
光がどれだけ俺の大切なものを蔑ろにしてきたか、俺だけが知っていればいい。
枕に突っ伏していると、しばし黙然とした後白狐さんが部屋に入ってくる気配があった。陶器の破片を避けるような足音が近づいて、やがて傍に腰を下ろした。
何をされるのか。叱られるものだと身構えた直後、温かな手が俺の頭に乗せられた。
「……」
白狐さんは何も言わず頭を撫でる。俺は驚いて硬直するも、やがて唇を噛んで目を瞑った。
何だか慰められているようで惨めな気分だった。泣くな、と俺は自分に言い聞かせる。実際、涙は出なかった。泣いても何も解決しないということを、俺はずっと前に知ってしまった。
白狐さんは何も言わず、ただ傍にいて俺の頭を撫でていた。




