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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第七話 人型
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 激しい暴風の中、白狐さんが傘を取り落として翔を抱き起し、半ば背負うようにして家に運んで行く様子を、俺はどこか他人事のように眺めていた。身動ぎすると頭がくらくらとした。殴られたせいだろう、顎や手足が痛い。

 悪い夢を見て醒めたときのよう、胸の奥にひどく重たく、苦しい感情の塊が蟠っている。しかし、何もかもが夢ではなかった。

 どうやって家に戻ったのか。自力で歩いたのか白狐さんに支えられたのか、記憶も曖昧な俺が正気を取り戻すまでしばらくかかった。居間にある長火鉢の前で毛布にくるまり、俺は一人でぼうっとしている。どれだけ時間が経ったのかも定かでない。白狐さんは翔を部屋に運んで介抱し、光はそれらの怪我の具合に動揺しないよう自室にいるように言いつけられたらしかった。

 やがて静かな足音が近づいてくる。振り向くと、白狐さんが立っていた。彼もまた髪が乱れたまま憔悴している様子だったが、しっかりした眼差しからそれを取り繕う意志の強さも感じられた。


「皓輝くん、お湯が沸きましたのでお風呂に入って身体を温めてください」


 言われるまま、俺はふらふらと風呂場へと向かう。長く雨に当たったため、身体はずぶ濡れで冷え切っている。買ったばかりの服も泥だらけだった。

 執拗に肌に張り付く衣類を脱ぎ捨て、木造の風呂場に踏み入る。この家の西側に備え付けられた浴室は程よく狭く、暗い。


「……」


 木桶で湯を浴びた後、一気に檜の湯船へ肩まで浸かると自然とため息が吐き出された。高めに沸かされた湯の熱がじわじわ肌に染み込んでいく。

 手で掬った湯で顔を洗ってもとてもさっぱりした気分にはなれない。鱗がつくる手の硬さが今日は一層忌々しい。

 天候が悪いせいで、一カ所だけ空けられた窓からの光も乏しい。雨が秩序のないリズムで屋根を叩いていた。薄暗い風呂場で俺は無心で髪と身体を洗う。

 石鹸の白い泡が、傷に染みて痛かった。念のため白狐さんに診て貰ったが、幸いどこも深刻な怪我ではないとのことである。ただ一発顔を殴られたので、しばらく様子は見るようにと言われた。

 確かに、鏡を見ると見事な青痣が出来てしまっている。親指でなぞるとヒリヒリした。

 あれは一体何だったのだろう。俺は自分が理解できたことも、理解できなかったこともまとめて脳裏で反芻した。

 泡立った石鹸を握る手にぼんやり目を落とす。雷が落ちた瞬間に感じた強いエネルギーのようなもの。もしあれが彼らの呼ぶ“霊”なのだとすれば、俺は無意識に自分のスコノスを使ってしまっていたことになる。


 そう、無意識に──。

 暴走していたのは翔だけではなかったという訳か。


 ひどく気が滅入ってしまって、俺は考えるのをやめる。頭から湯を被って泡を洗い流すと、よろけながら古い風呂場を出た。

 居間に戻ると白狐さんと光がいた。いつもより薄暗く感じるのは雨戸が閉まっているからというだけではないようだ。畳の間は調度品が少ないのも手伝って閑散としていた。

 光は髪を乾かす白狐さんと並んで藤の寝椅子に腰掛け、新しく火を入れられた長火鉢に足を寄せている。俺の顔を見て何か言いたげだが、何かを弁えるよう黙っていた。ぱちりと赤い火が炭の中で爆ぜる。


「……翔は」


「大丈夫ですよ、今度こそ」


 そう答える白狐さんの顔は怖いくらいに青白かった。

 俺は彼の着物の袖口に目を向ける。白い肌に泥む包帯が左手首にさり気なく巻かれていた。何故白狐さんが怪我をしているのだろう? 疑問が湧くが、口にするには疲れすぎている。

 隣で心配そうな顔をしている光は、白狐さんに優しい眼差しを向けられても表情を晴らさない。白狐さん、横になっていた方がいいんじゃないですか。そんな言葉が口をつく。


「……平気です。夜になればきっと、全部元通りになりますから」


 意味ありげなことを言う白狐さんの向かいの椅子に腰を下ろし、首にかけた手拭いで髪を乾かす。間にある低い卓の上にはもう何も入っていない急須と茶碗が放置されていた。

 起き抜けにここで皆が茶を飲んでいたことが、遠い昔のようだ。俺は、躊躇いがちに口を開く。


「すみません……」


「どうしました?」


「いえ……俺のせいで、翔が」


 言い切る前に白狐さんは左目を伏せた。そしてくすんだ肘掛けに肘を置き、ゆったり左右に首を振る。乾きかかった白い髪の束が肩を零れた。


「責任を感じる必要はありませんよ。まあ確かに逃げて下さいとは言ったはずでしたが……」


 一度言葉を切って、続ける。


「翔がああなったのは、昨晩の僕が判断を誤ったせいですし、それにまさか皓輝くんがスコノスの力に同調してしまうとは予想もしていませんでした。あのとき気付なかったのは僕の不注意です」


 あのとき。俺は口の中で繰り返した。思い返してみれば、暴走した翔に遭遇するよりもずっと前から俺は少し変だったのだ。あのとき、身体の奥底から抗い難い衝動が湧き上がってきて、早く、早くと心が急いていた。

 わくわくとした高揚感に奪われた思考力。霊に同調するというのはああいうことかと嫌でも理解する。


「暴走する翔のスコノスに引き摺られた、というのもあるでしょうが、皓輝くんはきっと自然霊に反応していたのでしょうね。天気も悪かったですから」


「兄貴は、人間なんじゃなかったの?」


 率直すぎる疑問を口にする妹の顔を見られない。泣き出しそうだった。白狐さんが、確信を念押しするよう俺の顔を見た。気遣わしげな言い方がせめてもの救いだった。


「皓輝くんは……ネクロ・エグロなんですね。そうなんでしょう?」


「……はい」


 力なく頷く。光が息を呑んだような気配があった。薄暗い部屋が余計暗く見える。もう観念せざるを得なかった。一度否定したことを、俺は認めなければいけなかった。

 自分が人間ではないという事実を。


「昨日、まあ色々あって」


 自分がネクロ・エグロであることを知ったのだった。あまり多くを語りたい気分でもなく、俺はすっかり湿った手拭いを指先で弄ぶ。詳しくは話したくないという意思表示だ。

 白狐さんはずっと前から気付いていたのかそれ以上問うことはなかった。「色々あって」の部分は二人の想像に任せておくことにする。委細に話せば疲労と諸々にやられ、辛うじて保っている何かが決壊しそうだった。


「そうでしたか、やはり」


 ひとつ頷いて納得してみせる白狐さんに寄り添い、光は何かを考えている。俺は身を切られるようにして、この気まずい時間が過ぎるのを待った。

 自分が人間ではないと認めるのは簡単なことではなかった。受け入れたくない。気持ち悪い。どうして俺ばかりがいつも道を外し、光だけが正しいのだろう。


「皓輝くんのスコノスは、雷に反応しましたね」白狐さんは沈黙を埋めるよう、続ける。「雷の自然霊を操るネクロ・エグロはそう多くないんですよ。あれは瞬発的な力ですから、相性が良くなければ捉えることも出来ないのです」


「……そうですか」


 ぱち、また爆ぜた火鉢を気にする振りをする。何が何だか知らないが、その希少性は俺にとって何の価値もない。

 雷、それに伴う光や音。雨の水。自身の霊と親和性の高い素材の自然物が傍にあるほど、スコノスの力は発露しやすくなる。推理ですらない。風を操ることも出来るんだから、雷を操ることだって出来るよな、という単純な納得だった。

 俺はそんなことどうでも良かった。例え白狐さんが、次に俺の容姿の“異様さ”を指摘しながらネクロ・エグロの特徴と繋げてみたとしても、俺は同じ感想を抱いただろう。今更コンプレックスが解消されるとも、自分自身を受け入れることが出来るとも思えなかった。

 今は、もっと話さなくてはならない大事なことがある。


「翔は──翔の“あれ”は、何なんですか」


「……皓輝くん、あの子のスコノスを見たのですか?」


 俺は曖昧に首を振って問いかけに答える。

 俺が見たのは翔の身体を乗っ取った仮初めの姿。少なくとも先程の対峙において、その本来の姿を見ることは出来なかった。しかしその異常さは嫌と言うほど見せつけられた。

 翔の目を通じて見えた、スコノスの眼光。あれはこの世の全てに向けた純然たる悪意だった。あれの語った言葉を信じるなら獣性もまた翔自身である。しかし、程度、状態、どれを取っても先程目にしたものが普通から逸脱していることくらい、俺でも理解できた。


「スコノスの多くは獣の姿をしていると言いましたよね」


 白狐さんがおもむろに口を開く。


「翔に宿っているスコノスは少々、珍しい“かたち”をしているのです。ごく稀な条件下で変化してしまった、人の似姿をしたスコノスなのです」


「人? つまり、人のような形をしたスコノスということですか?」


 俺の問いに、彼は瞬きで肯定した。


「スコノスとは、風のように希薄で、宿主以外に知覚出来ないほど微弱なものから、強力な存在感を持つ怪物のようなものまで、個体によって様々あります」


 雨が屋根や窓にぶつかる固い音がした。俺と光はただ黙っている。冷たく、重苦しい空気が部屋に満ちていた。


「人型スコノスは、他の多くのスコノスに比べて群を抜いて危険な存在です。人の言葉を真似、思考や感情を持ち、しかしどうあっても戦いの本能からは逃れられない。あまりに強すぎて、宿主の制御下に置き切れないのです」




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