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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第六話 春雷
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 力の限り突き飛ばされた。雨の降りしきる音の中に俺の咳き込む声が混ざる。水溜まりに突っ込んでしまったスニーカーが見事に浸水するが、気にする余裕はなかった。

 ぎしっと翔の口元が軋む音。昨晩奴隷商人を葬り去ったあのときとよく似た顔だった。


 ──なるほど、こいつが翔のスコノスらしい。


 明るい場所で見るその姿は尚のこと異様な雰囲気に包まれており、「スコノスに乗っ取られる」というのはこういう事かと思い知った。普段見慣れている顔だからこそ、異様に青く光る目が底なしの湖のように薄ら寒気を誘う。


「お前は、翔のスコノスだな」俺は念押しをする。翔の姿をしているのに、奇妙な気分だった。スコノスというのは他人と会話したりするのだろうか?


「昨夜、廊下で俺の脚を掴んだのもお前だろう?」


 爛々と光る青い目が不自然に浮いている。話が通じる気配がまるでしなかった。俺が不吉に感じたのは、その目の輝きの中にある、どす黒く澱んだ何かだった。憎しみ。それも、あらゆる方位に向けられた、憎悪。

 確かに顔は笑っているが、その奥底には誰かを蹴落とし、踏み躙り、虐げたいという欲求が川底の泥のように横たわっている。俺はようやく昨夜の翔を恐ろしく思った感情の形をやっと理解した。そんな醜悪なものが翔の中にあるということが、信じ難かったのだ。


「俺か、翔か。お兄さんは、根本的に間違っている」


 スコノスは笑いながらこちらを指差した。「()()()()()

 思わず眉を顰める。スコノスの声には、人の神経を逆撫でする何かがあった。

 ──スコノスは宿主の獣性であり、別の人格という捉え方こそすれ、別人という考え方は誤りなのだ。目の前でにやけているのは普段の翔からはおよそかけ離れた表情だが、確かにこの異様さも翔の一部なのだろう。

 翔のスコノスは、人を食ったように笑った。


「どうして俺が、お兄さんにこんな話をしたのか分かるか?」


 俺は黙って首を横に振る。同時に、何となく感じていたことを頭で捉え直す。このスコノスは女なのではないか。声も口調も男のもののようだが、お兄さんという気安い呼び名にはそうした女の自覚的な甘えのようなものが薄っすら感じられた。


「お兄さん、面白そうだからさぁ」


 戸惑う俺を前に、スコノスは突然高笑いをし始めた。相手は狂人なのだから、まともに取り合うのは得策ではないかも知れない。相手のペースに飲まれないよう、口を噤む。


 突如としてあらゆるものが地上から浮かび上がるような強い衝撃があった。雷光が閃き、辺りが白く染む。轟音の中に、スコノスの笑い声が微かに混じる。どこか俺を馬鹿にしているようだった。

 滲んだ視界の向こう、翔のスコノスが動き出すのがゆっくり見えた。姿形はいつもの翔だった。俺は自分の胸を腕で阻む。咄嗟にそうしなければ、胸を素手で貫かれていたかもしれない。

 目の前を血が飛び散った。手首の皮を抉られたのを感じた。痛みは感じない。風に煽られてふらつく俺の体が疼き出す。恐怖とは違う震えが背筋に走った。

 風が湧き起こっている。翔のスコノスの力が作用しているのだろう。空間が沸騰しているようだった。じりじりと後退しながら、俺は顔面に降りかかる雨を手で遮り目を細めた。

 強い波動を感じる。殺すか、殺されるか。困惑を伴った思考は徐々に遠のき、その二つだけがこの場を支配していた。空腹を満たすように、人を殺す。それはスコノスにとって何ら不自然なことではない。


 指先を血の色にしたスコノスと目が合う。その瞬間に外れていた何かがぴたりと噛み合うような感覚があった。俺は立ち上がる。手首から流れる血が雨水と混ざって薄くなる。

 スコノスの裸足の足が水溜まりを蹴った。銀色の水飛沫が上がる頃にはもう目の前にいる。俺は身体を捻って、その手を払い除けるよう横に蹴る。笑いながら足を掴まれる。咄嗟に体勢を崩しながら、もう片方の足で抵抗する。濡れた地面を横向きに転がり、逃れる。僅か数秒。何もかもが鮮明に見えた。雨に濡れた樹々、激しい風の動き、そして翔のスコノスの尋常でない速さ。

 生憎、身体が勝手に動くようなことはなかった。俺にあったのは、視界が晴れ晴れとしてよく見えるという場違いな高ぶりだけだった。上空で轟く雷が、普段の俺を奪っている。


 ──そのときの俺が「スコノスに乗っ取られる」というのに限りなく近い状態になっていたことに、翔のスコノスは気付いていただろうか。


 素手で掴まれるだけで切り刻まれかねない。どういう理屈かは分からないが、翔のスコノスにはそういう力があるようだった。彼らは破壊衝動の体現だ。故にこいつも翔の体を乗っ取ってまで積極的に、そして出来る限り残虐な方法で人を殺そうとするのだろう。昨晩のように。

 天を走る稲妻が攻撃的な白光を飛び散らせ、途端俺の背筋に何かが駆け上がった。干乾びた身体の隅々にまで水が広がり、生き返った心地になる。水を得た魚のように、胸がすっとして清々しい。


 勝てる。何の根拠もなかったが、俺はそう確信した。行動不能にしてしまえばいい。翔の身体を動けなくすればスコノスも動けなくなる。

 轟音を鼓膜に叩き付けられると同時に俺は飛び出した。急激に距離を詰めると、素早く反応を示した相手は軽く手を構えて身体をずらす。隙のない動き。怪我をしているとは思えない──丸腰で飛び込んで、勝ち目はあるだろうか。

 右肩を引いて振り下ろされる拳を掻い潜った俺は、その胸ぐらを引っ掴んで体勢を崩させる。勢い任せに頸根を殴りつけようとしたが、寸前に翔の感触が風のようにするりと消え去った。


「!?」


 電光石火の速さで頭突きを食らい、衝撃も痛みも遅れてやってきた。方向を失い、俺は仰け反るよう地面に倒れていた。真正面から直撃したらしい。泥水が音を立てて跳ね飛ぶ。

 顎のあたりが激痛に軋んで息が出来ない。起き上がることもままならない俺を、スコノスは待ってはくれなかった。


 殺される。ぞわりとしたものが全身を駆けた。暴風が吹き荒れ、地面に張った水を上空へと捲き散らした。スコノスの息遣いが近い。そう感じた瞬間、俺は無我の境地で体を半回転させその踝に拳を叩き付ける。力を込めた一撃は確かな手応えを返し、スコノスは泥水の中へ派手に倒れ込んだ。

 俺のどこにこんな力があったのか。呆然としながら、俺もくらりと目を回して地面に崩れた。頭を殴られたのはまずかったかもしれない。平衡感覚を狂わされて、手をつく地面すら揺れて感じる。這うように身を起こした俺の目の端に、一瞬だけ光が映る。無我夢中で横に転がれば、直後、俺のすぐ耳元の土に突き刺さった風が汚い泥水を跳ね上げた。

 高笑いが狂ったように響いた。翔の姿をしたスコノスが引き摺る片足をものともせず飛び掛かってくる。爛々と光る目が宙にあった。獲物を射貫く眼光だった。

 それが俺の誤算だった。翔の肉体を行動不能にさえすれば良いと思っていた。人ならざるスコノスに、そんな論理的な判断能力はないのだ。


 取っ組み合いをする訳にはいかない。掴まれた瞬間に細切れにされてしまうかもしれない。俺に何ができるのか。瞬きの間に、様々な思考が脳裏を過る。そこに一片の理性も挟まれていなかった。

 全てが真っ白な光に呑まれる。一点の曇りもない白熱の閃光。何も見えない、聞こえない。背中を、いや全身を血液ではないエネルギーが駆け巡る。


「──……」


 スコノスの手の辺りに、指先が触れた。すぐ傍に雷が落ちた。地面が大きく揺れ、意識ごと吹き飛ぶような衝撃だった。

 目を瞬かせる。視界が戻ってくる。何が起こったのか分からなかった。気付けば俺は地面に手をついて、土砂降りに濡れていた。

 目線を転じる。翔の姿をしたものが離れた位置に倒れていた。


「あ……」


 焦点の合わない目が、俺のいる方に向けられた。体を起こそうと踏ん張るその手が震えている。──これはスコノスか? 翔か? どっちだ?

 胸を押さえた呼吸が不自然に速くなっている。酸素不足で上下する肩。青い目は虚ろで光がなく、正常でないことは一目で分かった。吹き荒れる風が雨粒を容赦なく叩き付け、それが翔から理性的なものを奪っているように見えた。


 俺は近づけない。自分が何をしたのか、理解しようとした。雷雲はまだ頭上にあって音を轟かせている。先程雷が落ちた、その瞬間に翔のスコノスの手に触れたように思えた。掌を見る。目立った傷も痕跡もない。だが確かに、ここに何か不可解な力が発生したのだ。

 翔を助け起こさねばならなかった。少なくとも俺の理性的な部分はそう考えようとしていた。しかし、震撼としたものが全身を駆け巡り、身動きが取れない。高揚感はもうなかった。貴様は人間ではない、と告げた三光鳥の言葉が脳裏に繰り返された。


 身体から力が抜けて、その場に蹲る。額が水に浸かる。冷たい絶望感の底へ沈んでゆくような感覚だった。雨の音も、現実の手応えも遠のいてゆく。俺は翔の安否を確かめることすら出来ず、白狐さんが傘を手に走ってやって来るまでそのまま地面に倒れ伏していた。




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