Ⅲ
「一緒にあそぼう」
誰かが耳元で密やかに笑った。女の声だった。それは粘着質な調子で繰り返す。「お兄さん、俺とあそぼう」と。
一体何者か──。浅い睡眠に浸りながら、考える。そのときの曖昧な自我は、夢の水面から顔を浮かせ、息継ぎしている状態に近かった。
女と言えばこの家には光しかいない。しかし、この卑しく笑う声が己の妹のものであるとは考えたくなかった。それは妙に大人びて、掠れ、悪意あるからかいと嘲笑に満ちていた。
女は身を乗り出す。息遣いが近くなった。
「俺はお兄さんが一体何なのか知っているよ。ねえ、仲良くしようよ」
胸が圧迫され、呼吸が苦しい。思考が遠く、朦朧とする。確かにすぐ側に人の気配を感じるのだが、それが果たして現実のものか判断が付かない。手足の力が萎え、俺は何とも応えられなかった。
待っているよ、と相手はそう言い残した。ぺたぺたと、やがて裸足で床を踏む足音が遠ざかっていくのを、聴覚の端で捉えたのを最後に、俺の記憶は再び夢の世界へと千々になっていった。
***
何かが天井を叩く騒々しい音で俺は目を覚ました。部屋の中は暗い。まだ夜なのだろうか。
開き切らない目を擦って力の入らない体を動かす。音は絶えず部屋に響き、寝起きの神経を苛立たせた。這って壁際まで行った俺は、身体を起こして障子窓を開けてみた。そして音の正体を見て納得する。
硝子の向こうにあるいつもの緑の風景は、昨日とは打って変わって叩きつけるような雨にしっとり濡れていた。透明な水の跡を残す硝子窓、梢の陰から窺える空には雲が立ち込め、地上は鬱々とした灰色の光に満たされている。
今は何時だろう。
手探りで自分の腕時計を見つけて顔を近づけると既に昼を過ぎた頃だった。俺は慌てて着替える。
昨日買ったばかりの服に袖を通して襟元まである留め具をつける。古着特有のどこか懐かしい匂いがした。袖の内側が少し擦り切れている。
洗顔を済ませ、居間へと向かう。白狐さんと光が同時に振り返った。
「おや、皓輝くん。おはようございます。もうお昼ですよ」
「おはようございます……」
長火鉢のある居間は暖かかった。四角い鉢の中に埋まった炭が赤く燃え、上に乗った薬缶の中でしゅんしゅんと湯が沸いている。
淹れたての棗茶の香りが寝起きの鼻を穏やかに刺激した。俺は虫のように火の傍に寄っては藤椅子に座る。
炭火の温もりが心地よくて欠伸をしていると、白狐さんが笑いながら立ち上がった。「昼餉にしましょう」と言ったその背中は奥にある厨房に消えていく。
残された俺と光は気まずくなる。目を合わせなくても、互いを意識し合っている空気の感触があった。雨粒が屋根を叩く音が絶え間なく聞こえる。
話さなくては、と口を開くが、あと一歩のところで声が出てこない。簡単な言葉さえ喉元に引っかかる。何度か開閉を繰り返した後、俺は諦めた。
また今度にしよう。今でなくとも、話せるタイミングはいくらでもあるはずだ。そう、時間だけなら余すほどあるのだ。
光は俺をちらりと見たきり何も言わなかった。俺とは別の長椅子に腰掛け、手元の綺麗な表紙の本を捲っている。丁寧に梳いた髪を二つに結わえ、刺繍のあしらわれた着物を纏い、もし呼吸をしていなかったなら、生きている人だとは思えなかった。
俺に声を掛けてこないとは珍しい。そのつんと唇を尖らせた横顔を盗み見してから、俺は目を逸らす。
程なくして昼餉の準備を調えた白狐さんがやって来て、俺たちは食卓に移った。食欲をそそられる匂いと共に運ばれた漆塗りの盆は三つだけで、翔の分はない。まだ目が覚めないらしい。
「疲れているようだったので寝かせています」
肩を竦めた白狐さんが両手を合わせる。俺も光もそれに倣い、箸を取って食事に手を付けた。汁物に口を付けてようやく自分の腹が空だったことに気付き、無心で口を動かす。旺盛な食欲を発揮する俺を、白狐さんはにこにこと眺めていた。
俺に気を遣ってくれたのか今日の昼餉はいつもより量が多めのようだ。白狐さん手製の豆乳餅──いわゆる日本で言うところの豆腐──は甘くて美味い。干し椎茸の辛味噌炒めは豚肉が少し入り、食べ応えがある。今日の主食は粥ではなく、もち米を蒸した野菜の炊き込みご飯だ。
「昨夜は大変でしたね。帰り道で襲撃されるとは、運が悪い。この山岳は滅多に人は足を踏み入れないんですけど」
器用に箸で豆腐を掬った白狐さんが微笑む。ああ、と俺はどこか浮ついた声を漏らした。
昨日は怒濤の一日だった。奴隷狩りはそのひとつに過ぎない。俺は口に入れていたおかずを飲み込んでから話し始めた。
「実は昨日、街中で七星に捕まってしまって、それで帰りがあんなに遅くなったんです」
「え、七星に?」
白狐さんは瞠目する。それは七星という隠密隊の存在を何故知っているのか、という驚きも含まれているようだ。
俺は事の経緯を白狐さんに話す。突然捕まって気絶させられたこと、目が覚めたら牢屋の中だったこと。
「それで、どうやら俺にそっくりな誰かと見間違えをされたらしく……」
「それはそれは。大変でしたね」
黙って話を聞いていた光が口を挟む。
「兄貴とそっくりな誰かって、誰なんだろう。悪い人なのかな」
さあな、と俺は肩を竦める。写真の技術もなければ指紋認証もDNA鑑定もないこの文明。人の判別というのは結構曖昧なのかも知れない。もし顔のみが似ていたのなら、そういう話で終わっただろう。
しかし、名前も同じというのは単なる偶然で済むだろうか。俺は胸に小さな棘のような引っかかりを覚えていた。
名というのも勿論この世界の言語で発音されるものだから、本当に同じなのかどうかも実際のところ分からない。何だかもやっとする話ではある。
「……そういえば、七星ってなあに?」
光が小首を傾げて問う。話題に行き詰まりを感じたらしい。白狐さんがにこりと笑って説明を始めた。
「七星というのは孑宸皇国の皇帝、すなわち当今皇上に仕える禁軍の一部隊です。戦争に出て戦う軍人というよりは、表沙汰に出来ない国内のいざこざを処分する隠密隊と言えばいいでしょうか」
「へえ」
光が頷くのを横目に俺も相槌を漏らした。「如何にも怪しげだ」という呟きは独り言のつもりだった。
「あはは、それは偏見ですよ」白狐さんはおかしそうに声を上げる。「彼らも真面目に仕事をしているだけなので、大目に見てやって下さい。現皇帝の立場を支えるには、そういった裏方も必要なのです」
「それは……強烈な皮肉のようにも聞こえますね」表の立場だけでは維持できないと言っているようなものだ。
白狐さんが意味ありげに瞳を煌めかせた。そうとも言えますね、と口元を緩める彼は、そうやって受ける揶揄に愛着があるようだった。俺にはよく分からないが、きっと朝廷という政治の中枢も一枚岩ではないのだから、ひと纏めに捉えるのは難しいのかも知れない。
ふと光が訊ねる。「禁軍っていうのは、何?」
「当今皇上の私軍です。どんなに偉い貴族であっても、自分の軍を持つことは禁じられています。それが許されているのは皇帝陛下だけなのです」
白狐さんは文字通り、子どもに分かりやすく説明する教師のようだった。
だから、皇帝はこの国の頂点に君臨している。武装した軍人ほど権力を支える強い力はない。それは常に歴史が証明している。
俺は箸を置いて首を捻った。やはり腑に落ちない。
「どうして皇帝に仕える大層な立場の隠密隊が、あんな辺鄙な邑にいたんでしょう?」
「それ、僕も気になっていました」
白狐さんが棗茶を啜る。
俺と翔が訪れた邑は、お世辞にも都会とは言い難く、差し障りのないどこにでもある田舎町といった風貌だった。民家の向こうには茫漠とした水田が広がり、人々は素朴な日々の糧を紡いでいる。
そんな牧歌的ですらある田園風景に、秘密警察のような隠密隊が介入する余地はあるのだろうか。
「皓輝くんは昨日初めて山から下りたのですから、彼らが最初から皓輝くんに目をつけていたとは考えにくいでしょう。であれば、何か用事があって訪れていたのでしょうね。わざわざ七星を派遣するほどの任務が。今となっては知る術もありませんが」
難しい顔をする白狐さんに、俺はくす、とひとつ笑いを零した。
「“仙人”にも分からないことはあるんですね」
「おや、皓輝くん。どこでそれを?」
「翔から聞きました。白狐さんは百歳だって」向かい合う光は驚いたように目を丸くしている。
本当なんですか? と念を押せば、世捨て人の主は、さあどうでしょう、とはぐらかした。仙人の本心は窺い知れない。
「ネクロ・エグロは年を取るのが遅いっていうのは、本当なんですね」
「ええ、そうですよ。僕らから言わせてみれば、人間の方が年を取るのが早すぎるように見えます」ちらり、と彼の見やった先には光がいる。もしかすると既に出会った日にでも、彼らの中で年齢の差異についての知見は共有されていたのかもしれない。
「確かに人間に比べれば、我々は長命でしょう。更にネクロ・エグロは人によって成長や老いの速度は若干異なります。運悪く短い命を終える人も勿論います」
「運悪く?」事故などを想定した俺に、白狐さんは何か言いたげに口籠もり、そうして思い出したかのようにゆるりと立ち上がった。
「さて、そろそろ片付けましょう」
僕は、翔を起こしてきます。そう付け加えた彼が空の皿の重ねるのを、俺と光が同時に遮る。家事手伝いなら難しくない。盆を受け取り、昼餉を済ませた食卓を片付ける。
あまりにも俺たちの動きが同時だったので、白狐さんは口元を押さえて笑いを堪えている。俺は光と視線を合わせず片手で盆を支え、席を立った。
翔を起こすのは白狐さんに任せ、俺たちは奥の厨に食器を片づけに行く。
居間の奥にある旧式の調理場は明かりがなくて、相変わらず薄暗い。戸の付いた食器棚には年季の入った食器や調理器具が整然と仕舞われ、使い込まれて煤けた白い釜戸が設置してある。几帳面な白狐さんらしく、台所は小奇麗に片付けられていた。
俺と光は一段低くなった土間の卓に食器を重ねて置いた。光が足元にある大きな鉢に蹴躓き、溜められていた井戸水がこぼれる。
「うわ、馬鹿」
「ごめん」
妹をひと睨みした後、俺は深い鉢から水を汲んで盥を満たした。そして汚れた食器を次々盥に突っ込み、その前にしゃがみ込む。
光はどこかへ行けと振り向かずに追い払うと、無言で足音だけが遠ざかっていった。俺は海綿を泡立たせ、皿を洗い始める。
「あ、光ちゃん……」
軒下から雨水が滴り落ちる音を聞きながら泡を流していると、不意に調理場の入り口から白狐さんの声がした。心なしか狼狽を取り繕ったような不自然な声音だ。
珍しい、白狐さんが取り乱すなんて。二人の会話に耳を欹てる。
「あの、翔を見ませんでしたか?」
「どうかしたの?」
たっぷり間を置いた後、白狐さんが小さな声で落とした。
「……翔がいなくなりました」




