Ⅰ
「わ~、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、じゃないです……」
帰りの遅い俺たちを心配し、白狐さんは戸口の前に立って待っていたらしい。
俺が翔を背負ってよろよろ歩いてきたのを見て、驚いたように駆け寄って来る。そして、ぐったり気絶している翔を俺の背から降ろしてくれた。
重さから解放された途端腰骨の感覚が消える。足場の悪い山道を乗り越えた膝ががたがた笑っていた。
「何だか、色々あったみたいですね?」
「はい……でもまず、こいつの治療をお願いしたいです」
俺にはどうにも出来ないから。と息を切らせば、白狐さんは毅然と頷いて浅く呼吸している翔の身体をいとも軽々と担ぎ上げた。あんな細い体のどこにそんな力があるのだろう。
俺は食材や衣料などの麻袋の荷が全てあることを確認しながら、その様子を眺める。
「とにかく、中へ。おっと、おかえりなさい」
思い出したように優しく笑って俺の頭をぽんと撫でた白狐さんは、担ぎ上げた翔を玄関から中に運び込んでいく。
一瞬何が起こったのか分からず立ち尽くしてしまった俺は、ただいまですと辛うじて呟いた。
何故自分がこんなに照れているのかくたくたに疲弊した頭では考えることも出来ず、ただ“帰った”という安心感で表情が緩んだ。
尽きかけていた松明の火を消し、二人分の荷物を持って俺も家に入っていく。
疲れた。あまりにも疲れた。翔と荷物を抱えて数キロの暗い山道を歩いてきたというのもあるが、それ以上にいつまで経っても家に着かない不安と焦りで始終緊張しっ放しだったのだ。帰って来られて本当に良かった──。
荷を置き、自室に運び込まれた翔を追って廊下を歩いていると、光とすれ違う。あの三光鳥との会話を思い出してはいつも以上に露骨に顔を背けた俺を見て、光は首を傾げた。
「おかえり、兄貴。遅かったね」
「……」
「血、付いてる……怪我したの?」
言われるまま自分の身なりを見ると、松明のベタつく煤けとともに確かにあちこちに血の跡がある。しかしこれも全て翔の血だろう。もし俺のだとしても、せいぜい木の枝か何かで引っ掛けた掠り傷程度だ。
大丈夫かとしつこく迫って来る光を適当にあしらって、翔の寝起きする部屋へ向かう。
翔は部屋の中央に敷かれた布団に寝かされていた。上半身の服は肌蹴られ、辛うじて出血の止まった翔の生傷が覗いている。
畳張りの床には包帯やら軟膏の入った薬壺といった治療道具が散乱しており、白狐さんはいない。凝った装飾の竹の照明具が枕元に置かれ、弱々しい呼吸を繰り返す翔の横顔を照らしている。
疲弊した体がこれ以上の労働を拒否し、大きく息をついた俺は畳の上に崩れ落ちた。
さすがに自分よりもしっかりした体格の翔を背負い、更に荷物も抱えて上り下りをしてきた膝と腰が過労に軋んでいる。明日は筋肉痛必至だ。
まあ、あんな危険な状況に陥ったにもかかわらず結果として筋肉痛程度で済んだことを幸運だと思うべきかもしれない。それよりも翔の負傷の方が深刻なのだから。
眠っている翔は血色が悪く、肌は幽鬼のように青白い。反対に傷周りの皮膚は発疹が出ていて朱色に染まり、凍傷に蝕まれていた。
医学の知識に乏しい俺でも、早急な治療が必要なことくらいは分かる。凍傷が進行すると皮膚そのものが壊死しかねない。
怪我をした翔と一緒に帰路を進んだ俺が痛感したのは、主を殺されたスコノスの恐ろしさだった。奴隷商人との死闘から時間も経ち距離も離れたというのに、氷のスコノスの力は翔の中で生き続けた。「宿主が殺されて怒っている」というあの言葉は本当だったらしい。
初めは何でもないように振る舞っていた翔もだんだん苦痛を誤魔化せなくなり、遂に「眠い」と言ったきり一歩も進めなくなってしまった。不気味な雑木林の中で一人になってしまった俺の気持ちを考えてみて欲しい。
俺には霊を読む力もなければ山を歩くことに慣れている訳でもないのだ。完全に遭難である。
朝が来るまで下手に動かず、その場に留まるという選択肢もあったが、動けなくなった翔が心配だったし、何よりいつ奴隷商人が来るかもしれない恐怖に怯えながら夜を越すなど俺に出来るはずもなかった。
奴隷商人だけではない。森には野生動物や悪霊もいるだろう。夜行性の肉食動物、はたまた得体の知れない魑魅魍魎から翔を抱えて逃げるのはあまりにも無謀だ。
それなら少しでも進んで家に帰れる可能性にかけた方がいいと、俺は半ば自暴自棄で翔を背負って歩き出すという暴挙に出たのだった。
今にして思えば無謀の度合いは同じくらいだったかもしれないが、無事に帰ることが出来たので無問題だろう。
狭い獣道ながらもある程度は視認可能だった山道のお陰か。危機的状況に追い詰められて、俺の中の野生の勘が奇跡的な冴えをみせたのかもしれない。
「よっと」
帰宅するまでの過酷な道のりを思い出し物思いに耽っていると、開きっ放しだった襖から白狐さんが入って来た。その手には湯気を立てている片手鍋と数枚の手拭いがある。
治療に使用する湯を沸かして来たらしい。
俺は黙って場所を譲り、白狐さんが翔の布団の傍に膝をつくのを見ていた。目を細めて脇腹の傷を覗き込んだ白狐さんは、ちらりと俺に視線を寄越す。
「……ふむ、ただの切り傷じゃありませんね。水……いや、氷のスコノスですか?」
「はい」
俺は頷いた。スコノスに浸食された凍傷の進行具合が気がかりだ。軽く揺さぶってみても、翔は目を覚まさない。
翔が俺の背中で意識を失ってしまった後、翔が助からなかったらどうしようという思いが幾度となく脳裏を過った。手拭いを湯に浸して手早く絞っている白狐さんに、思わず「大丈夫ですか?」なんて訊いてしまう。
「大丈夫ですよ。怪我の方は」
にこ、と白狐さんは微笑む。そして軽く水気を残した手拭いを翔の傷に当て始めた。まるで怪我以外に懸念すべき何かがあるかのような言い方だった。
治療を手伝おうかと申し出たがやんわり断られてしまった。手持ち無沙汰な俺は部屋に戻る気分にもなれず、ただじっと白狐さんが翔に治療を施す様子を見守る。
「……奴隷狩りに?」
集中している彼を憚って黙っていると、白狐さんは視線を翔に向けたまま訪ねてきた。俺は頷いて、かさかさに乾いた声で道中の出来事を簡潔に説明する。
奴隷狩りと思しき賊に襲われたこと、翔が彼らを惨殺したこと、そして傷を負ったせいで氷のスコノスに蝕まれたこと。
順を追って話している内に、俺もようやく頭の中を整理することが出来た。白狐さんは手も休めず時折相槌を打ちながら耳を傾ける。そして説明が終わると、「ふーむ」なんて声を漏らした。
「なるほど。それは大変でしたね。とりあえず皓輝くんは無事で何よりです」
お陰様で、と応える自身の声は自虐的だ。
どんな状況であれ、己の身を己で守れないというのは歯がゆい。奴隷狩りに襲撃されたときも、立ち向かうことは出来なくとも逃げることは出来たはずだ。何もせずに腰を抜かしていた自分が情けないし、次に危険な目に遭った際どうすべきか焦りも感じる。
白狐さんは眉を下げて微笑んだ。
「気に病むことはありませんよ。今は翔を背負ってでも無事に帰って来られた自分を褒めてあげるべきです。よく頑張りましたね」
ぽんぽんと頭を撫でられ、俺は困惑する。まるで子どものような扱いだ。
いや、彼は仙人レベルの長生きらしいが、それにしたって俺にも年相応の恥というものはある。顔を仰け反らせ、さり気なく白狐さんの白くて優しい手から逃れる。
「それにしても驚いたでしょう」
白狐さんのさり気ない一言に、何故だかどきりとした。家に着いてひと段落した心の底にあるものを見透かされたようだった。俺は目線だけで問い返した。
彼はゆっくり翔に目を向ける。
「翔、強かったでしょう」
それは問いかけではなく確信だった。俺はちょっと間を置いて頷く。
白狐さんの白い睫毛が照明具の光を弾いた。その眼差しに、何かを懸念しているような、とてつもない不吉を恐れている医者のような翳りがあるので、俺も身構えてしまう。白狐さんは、言葉を選んでいるようだった。
「この世は、陰と陽という二つの要素が均衡を保って成り立っているのですが」
「はあ」
「ええ、少なくとも僕たちはそう信じているのですが──皇国民は体調を悪くしたり、病気になったりするのも体内における陰陽の拮抗が崩れたのだと考えます。ですから医者は、その症状に合わせて陰を強めたり陽を強めたりする療法や薬によって病を治すのです」
俺は口を噤み、目を覚まさない翔の横顔を眺める。何故彼がそんな話をしたのか、その意図を考えていた。
「つまり」慎重に言葉を紡ぐ。「翔の中の何かしらの均衡が崩れている、と。そういう訳ですか」
「翔にはよくあることです。分かりやすく言えば、”理”と”獣”の拮抗が」
白狐さん曰く、この国の人々は物事を二元論に捉える。陰と陽──地と天、女と男、獣と理。何事も二つの物事がバランスを取り合って成立していると考える。理とはすなわち理性、獣とはすなわち獣性のことだろう。
俺は首を捻る。理性はともかく、獣性と言われて具体的にぴんとくるものがない。
「スコノスですよ」白狐さんはこともなげに言う。「あれらはただの精霊などではありません。多くのスコノスが何故獣の姿をしているのかと言えば、一説によれば、それは僕たちの心に宿る獣性と結びついているからなのです」
分かったような分からないような。俺は呻くように相槌を打つ。ネクロ・エグロにとって、スコノスとはどんな存在なのだろう。想像が出来ない。
「理性とスコノスは対抗関係なんですか?」
「対抗というのは、恐らく正しくありません。ただしまあ、今回の場合はそうかも知れませんが」
世捨て人の主は曖昧な言い方をした。何事もバランスが大切なのだ。どちらが善でどちらが悪か、そういった区別はない。天学の世界観は勧善懲悪よりもむしろ、すべてが渾然一体となった多様性を備えている。そして恐らく、左右よりも上下を重んじる。
「もしネクロ・エグロの中で獣性が強まった場合、どうなるんですか?」
「獣に成ります」白狐さんの口調は相変わらず素っ気なく、それはどこか深刻さを誤魔化している風だった。「獣──すなわち、人間の獣性と結びついたスコノスが目を覚まし、主の行動を妨害し始めます」
「具体的には」
「暴走します。まあ、色々と」
その先を話したがらない彼の居たたまれなさを察し、俺は口を閉ざす。かと思えば、白狐さんは片方だけの目をこちらに向けた。「皓輝くんも見たでしょう」
肯定も否定も出来ない。そのどちらも、先延ばしにしたい気持ちだった。白狐さんの目の奥に流れる血液の色が、生き物のように透けていた。
「ネクロ・エグロのことが恐ろしくなりましたか?」




