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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第五話 本性
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 それは、俺が初めて間近で見るネクロ・エグロ同士の戦いだった。


 左手側から迫るのは、奴隷商人。なまじ体格がいいために、怒涛の勢いでこちらに向かう姿は猛獣のようだ。対する翔は槍を軽く構えてその正面に立っていた。その口元には余裕の笑みすら浮かんでいる。

 恐怖で頭がおかしくなったのではなかろうか、と疑いたくなる。

 男が両刃を振り翳すのと、翔が腕を横に振り抜くのは同時だった。一閃、鎌鼬のような穂先が叩きつけられる。血飛沫がぱっと散った。後方へよろめいた男が荒々しい呼気を漏らす。

 しかし、それだけで決するほど軟でなかったらしい。奴隷商人はその体躯からは想像もつかない鋭敏さで翔の追い打ちを叩き落とし、間髪入れずその腹に乱暴な蹴りを入れる。翔が地面に転がった。


 暗い森に、白い粉が舞い散る。執拗な男の刃とやや逃げるような翔の刃が交差し、激しくぶつかり合うたびに何か目に見えない力の衝突があった。これがネクロ・エグロ。スコノスという霊を使役する者たちの戦いなのだと、俺は恐怖で体が動かない。ただ腹這いのまま戦いの行方を、動体視力の許す範囲で見守っていた。

 隙の出来た翔の背中めがけて、背後の男が斬りかかる。刃が弧を描いた。ぎりぎりで避け切れず再び体勢を崩した翔が、真っ白い息を吐く。いや、それだけではない。一帯の草木も何やら白いものに覆われ、翔の動きを鈍らせている。


 いきなり、翔は素早く体を捩って何かから逃れた。それが何なのか俺には視えない。ただ翔は次々と空を裂く男の刃の他に、透明な冷気と戦っていた。

 不意に砕け散る、硬い音。翔の槍の穂先が空を薙いだ瞬間、白く氷結した空気が悲鳴を上げた。男が、まるで自身が攻撃されたかのように数歩よろめいた。

 俺は、翔がそのまま踏み込んで留めを刺すのだろうと思った。だからひょいと何かに呼ばれるよう頭を持ち上げた翔の姿に動揺した。その動きがひどく緩慢に見えた。右腕を引く。槍の穂先が暗闇の上を向いた。その目が見つめる先は、俺の頭上だった。


 思わず身体を縮める。翔が槍を投げる。悲鳴が上がる。暗闇を切り裂くように。


 撓んでいた太い枝が大きく弛み、どさりと重たい音が地面に響く。その黒いものは俺のほんの数メートル先の笹藪に墜落した。

 ばらばらと折れた小枝や葉がその落下物の上に降る。それは丁度一人の人のような大きさで、翔の槍の穂先が胸の辺りに突き立てられていた。頭が真っ白になる。別の奴隷商人が樹上に潜んでいたという事実と、それを仕留めた翔の的確な技術が、頭の中を不均一に占めた。

 折れた笹の隙間から垣間見えたその顔は、目を見開き恐ろしい表情のまま硬直している。その武骨な指先が微かに痙攣していた。


 し、死んで──。

 俺の脳がその先を考えることはなかった。翔はすぐさま地上にいた方の男へと身を翻した。槍を投げてからほんの一、二秒の出来事である。


「行くぞ雑魚!」


 翔の高笑いが響き渡る。傷を負ったとも、丸腰だとも思えない動作だった。

 振り下ろされた男の両刃剣は翔を紙一重で捕えることなく、その切っ先が地面を掠る。目にも留まらぬ速さで翔の脚が高く、男の腕を蹴り上げた。剣が宙を飛ぶ。

 男が拳を握る。翔が指先を立てて構える。二人が動く度に白い粉が舞い、風が唸った。俺が目で追えたのはほんの一部だけだった。手首を掴まれた翔が瞬時に叩き落とし、首目掛けて下ろされた手刀を男が仰け反って躱す。演舞のような的確さで、互角に振るわれる素手が闇の中で幾度も交差する。

 しかしその緊迫が崩れるのも、ほんの一瞬の出来事だった。

 先程の目に見えない“冷気”が翔の足首を捉える。ぴしりとヒビの入るような音とともに、白く凍りつく。好機とばかりに男が翔の懐に飛び込んだ刹那──咄嗟に出た翔の膝蹴りが男の腹に叩き込まれた。


「甘い」


 開かれた右手が、男の顔面を掴む。そのまま地面に叩き込んだ勢いで、最後の抵抗をして暴れた男の脚だけが見えた。掠れるような断末魔が上がり、途中で途切れた。その瞬間に、勝負は決した。


「……」


 ゆっくりと、翔が立ち上がる。髪の毛の隙間から横顔が見える。返事がないことを知りながら、何かを問い掛けているような、可笑しみを含んだ表情だった。その右手はどす黒く染まっている。

 仰向けに倒れた男の膝が重力に従って横に倒れた。糸の切れた操り人形のようだった。

 呆気に取られ、俺はその影を見つめる。あまりに一瞬の形勢逆転だった。恐ろしいほどの静けさと暗闇が戻ってくる。


 そう、当然のように、負けた方は死ぬのだ。


 震えながら首を伸ばし、つい死体を覗き込んだ俺はすぐ後悔した。翔に顔面を掴まれた男は、目から上の輪郭を失っていた。代わりに血とも脳ともつかない赤黒い何かが土の地面に沁み込んでいる。

 周囲を漂っていた冷気も、いつの間にか消え失せていた。まるで男の命そのものに呼応しているように。

 顔から血が引いてゆくのを感じる。胃の底が疼くような感覚があった。それを自覚するよりも先に必死に飲み下して、顔を上げる。

 目の前に佇む翔は血塗れの手を握ったり開いたりした後、やがて疲れたように息を吐き、着物の裾で無造作に拭った。生々しい血の跡が染みになった。

 そしてようやく思い出したよう、その顔は俺のいる草薮に向けられる。そこにはもうあの背筋が凍るような狂気はなく、代わりにどこか夢を見ているような、朧げな表情が漂っていた。


「皓輝、そこにいるの……?」


「あ、あ」


 辛うじて頷く。焦点の合わない双眸。そうか、目が見えていないのか、と俺は思い出した。俺が取り落とし、未だ消えず地面で燃え続ける松明だけがここにある光源だ。きっとあれだけでは不十分だろう。

 重たい体に鞭を打って松明に手を伸ばしながら、俺は不意に恐るべきことに気付く。

 もしや翔は、ほとんど視覚がない状態で奴らを相手にしていたのでは──。


「大丈夫? 怪我は?」


「な、ない。平気だ」


 慌てて返事をした。翔の面持ちが安堵に緩む。「良かった」と息を吐くその顔はほとんどいつもの翔で、俺も少しずつ普段の思考力を取り戻していった。


「悪霊に襲われるより遥かにマシだったかな」


 そんなことを漏らしながら、翔は二人分の死体の荷物を爪先で順番に引っ繰り返す。俺は口元を押さえて顔を背ける。本物の血の匂いに頭がぐらぐらした。


「皓輝? 何してるの?」


「……気分が悪い……」


「ああ、そう。無理そうなら吐いてもいいよ」


「おえっ」


 そう言われた途端、俺はその場で嘔吐した。場所や人の目などを気にする余裕はない。びしゃびしゃという水音。血の匂いと吐物の悪臭に眩暈がする。

 胃の中のものを吐き戻すという不快な行為を何度かに渡って繰り返すと、胸にわだかまっていた気持ち悪さが引いていった。喉が焼けるように痛むが、幾分ましになったようだ。地面に手を付いて呼吸を整える。

 翔が心配そうに近寄って来た。


「大丈夫か?」


「だい、じょうぶ」


 俺は嘘をつく。これ以上迷惑をかけるのは御免だった。というより、何も考えたくなかった。翔が散らばっていた自身の荷から何かを拾い上げ、俺に差し出す。


「これで口でもゆすぐといい」


「ありがとう……」


 新しい竹筒を受け取って、注意深く口をつけた。一口含んで、静かに吐き出す。冷たいお茶の味が、粘った酸味を拭い取ってくれた。もう一口竹筒を傾けてから翔に返す。

 まだ心臓が早鐘のように脈打っていた。

 神隠しされて以来、俺はずっと馬鹿げた演劇に巻き込まれたような境遇に不服を唱えていたが、今この瞬間ばかりは全部が芝居であってくれと心から思った。だが新鮮な血の匂いも何もかもが本物で、思考回路がまともに働かない。気を抜けば視界が霞みそうだ。

 翔は俺の顔色が多少良くなったことを認めると、手早く来た道を戻り、散乱した食材を拾い集めて一つの荷物にまとめた。ふらふら立ち上がって手伝おうとする。

 そこでようやく俺は、翔も怪我を負っていることを思い出した。

 松明の明かりのもとで見ると、泥や切り傷に顔は汚れ、腕と脇腹と背中の服がすっぱり切れて痛々しい生傷が見え隠れしている。赤く浮き出た筋からぽたぽた血が流れ、翔の着物を赤茶に染めていた。なまじ今日の服が白かっただけに、その血痕が一際目立った。


「翔、怪我は」


 大丈夫か? そう訊くと、翔は初めて自分が怪我をしていることに気付いたような顔をした。「ああ……」なんてどこか気のない返事をして、自身の背と脇腹を覗き込む。

 衣服をめくれば、予想以上に深く刻まれた生傷が露わになった。止めどなく流れる血液を服の袖で払拭した翔が顔を顰める。


「……氷の霊かな。痺れている」


 一瞬にして草木が白く凍り付いた光景が甦り、俺は納得する。やはりあれは冷気だったらしい。

 俺は男の死体を避け、翔の背後を覗き込んだ。辺りは真っ白な霜で覆われ、ここ一帯だけやけに気温が低い。刃物のように鋭くなった草木は氷の柱のようで、その幾つかに翔の血が生々しく飛び散っていた。

 恐る恐る、確かめる。


「これは、スコノスの力なのか?」


「ああ、そうだよ」翔は奴隷商人の死体へと顎をしゃくった。「こいつのスコノス」


 ネクロ・エグロに宿っているという、影のような精霊。俺には視えなかったが、確かにこの奴隷商人にも一匹宿っていたようだ。翔は首を捻る。


「ううん、まだ少し力が残っている。宿主を殺したから、スコノスも一緒に消滅するはずなんだけど」


「消滅してないのか?」


「虫の息ってところかな。でもいずれ消えるさ。宿主がいないとスコノスも生きていけないから」


 そう言って翔は自分の服の裾を破き、手早く傷に巻いていく。何でもないような顔をしているが、その指先が震えていることを俺は見逃さない。

 大きな切り傷を中心に、皮膚が不自然に赤く色付いている。消えかけのスコノスがどういう力を翔に加えているのか、翔の身体に凍瘡が起こっているらしい。


「宿主が殺されて怒っているんだ」


 囁くような声で翔は言った。その視線は腹部を血に染めた男の死体の傍へと向けられている。どうやらそこに“いる”らしい。目に見えない俺でも、そこに漂う復讐の怨念じみた気配は感じた。或いは気のせいか。


「早くここから離れた方がいい」


 俺たちはすぐに出発した。様々な出来事が目の前で起こり未だにショックから立ち直れたとは言えないが、進まない訳にはいかない。後ろを振り返ると、もう動かなくなった奴隷商人たちの死骸が草叢に転がっている。

 彼らがむくりと起き上がって追い掛けて来る恐怖映像が過るが、彼らが動き出すことは永遠になかった。


「待ち伏せされていたんだろうか?」


 俺は不安に顔を曇らせる。先程の奴隷商人は、地上にいたのとは別に樹の上にも潜んで獲物を狙っていた。もしあのとき頭上から襲われていたらと考えてみて、俺は身震いする。


「どうだろう。樹から俺たちの痕跡を探り当てたのかもしれない。だとすると、他にも奴隷狩りがいないとも限らないよな」


 しばらくこの話題は続いたが、より暗闇への不安が募るだけだった。

 足場の悪い山道を進むにつれ、目に見えて翔の歩く速度が落ちている。肩を上下させ、きつそうに呼吸をしていた。時折氷に抉られた傷を気にする素振りをしている。とにかく今は早く帰ることだけを考えなければ。

 焦る気持ちを抑え、負傷した翔の歩幅に合わせる。あとどれくらいで家に着くのだろう。こちらの方向で本当に間違いないのか? もし次何かに襲われるような事態になったら、翔を連れて逃げ切れるか──?


 不安を抱えながら、俺は翔の背を押し、白狐さんの待つ家目指して斜面を下っていった。



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