Ⅱ
広大な水田を渡る冷ややかな風が、頬を撫でる。黒い水面がさざめく音が足元から聞こえた。人には理解出来ない言葉でひそひそ会話しているようだ。
やがて途切れた水田の端から山の斜面をよじ登り、俺と翔は山道へ入って行く。
曲がりくねった夜の山道は、昼間のそれとは大分表情が違っていた。陽光を浴びて生き生きと春の気を放っていた植物は深い闇の中に沈黙し、時折木立が揺れるに止まっている。
進む先は鬱蒼と暗い。無造作に腕を伸ばす梢が星明りを遮り、闇を深くしていた。前方は底の見えない暗闇。風通しも悪い。何か得体の知れないものが息衝いているような錯覚すら覚える。
「随分、暗いな」
重苦しさに耐え兼ね、俺はわざと声の調子を軽くして翔に話しかけた。山に入ってから、明らかに翔の表情が澱んでいる。
俺たちの頼みは、翔の持つ松明一本だけ。パチパチと燃える松脂臭い炎が、この闇深い夜の山の中ではひどく弱々しく心細く思える。
「翔、良ければその松明、俺に渡して欲しいんだが」
「む、無理。これがないと、俺、何も見えない」
控えめに頼んだのを、嫌にきっぱりと断られる。
今先頭を歩いているのは俺だから、俺が照明を持つのが筋だろう。多少夜目が利くとはいえ、後ろからの光ではどうも心許ない。しかし翔は鳥目、夜盲症なのだという。絶対に手放したくないと言うので仕方なく、俺は乏しい光を頼りに下草を掻き分けるように進むほかない。
「せめて行くべき方向はきちんと教えてくれ」
俺はぼやく。笹の群生する山道に頼りなく佇む翔は、煤けた松明の柄を握りしめ、遠くの暗がりを見つめていた。確かにその目は微妙に焦点が合っていない。
「ちゃんと帰り道は分かるんだろうな?」
「多分」
不安だ。とても。眉根を寄せると、翔は慌てたように手を振る。
「大丈夫! どこにいても方角が分かるのが俺の特技だから」
「どういう特技なんだ」
曰く、翔は暗闇の中にいても東西南北の位置が本能的に分かるらしい。理屈は本人も分かっていないようだが、地球の磁場を頼りに行き先を定める渡り鳥のようなものなのかもしれない。
「それに、山の中なら霊の気配を辿ることも出来るよ。ほら」
翔は傍らの樹の幹に手を置いてみせた。スコノスの力を通じ、樹の中の霊から様々な情報や痕跡が読めるのだそうだ。ただし鮮明な映像には遠く、ぼやけたイメージとして捉えているらしい。
「時間が経ったり雨が降ると消えちゃうけど、今朝俺たちが通った痕跡程度ならまだ残っているはず」
未だに霊やスコノスの気配を感知することが難しい俺としては半信半疑だが、翔の言う通りに足を進めることにした。
樹の霊と交信するというのは一体どんな感覚なのだろう──。好奇心から翔の真似をしてみたが、どんなに木肌に掌を翳しても何かを感じることはなかった。
霊というのはいわゆる“精気”である。万物を形成する神気だと言ってもいい。だから自然霊は目に見えるものではないし、人に悪さをすることもない。
「……でも悪い霊もいる。悪霊とか」
悪霊とは、死者の無念や、特定の場に残った負の感情が霊気を取り込んで形になったものだという。肉体がないのでひどく不安定だが、思念のみで夜を徘徊するその姿は見る者に恐怖と病と死を与える。
俺はため息をつきたくなる。今更幽霊で驚くような状況ではないが、改めて説明を聞くのも嫌な気分だ。
ちなみに霊は山や森、水辺などに自然と集まる性質がある。俺たちは今、悪霊に遭遇する確率の高い場所にいるということだ。山道が深くなるにつれ、翔はますます神妙な面持ちをして、暗闇に目を配っている。
「つまり、お化けが怖い訳か」
可愛いところもあるんだな、と揶揄いを込めたつもりの言葉に、「悪霊を恐れるのは当然だろ」と翔は少しも笑うことなく言う。
「随分前に俺がうっかり山で悪霊を拾ったまま家に帰って、しばらく憑りつかれたときがあってね。あのときは酷かった。白狐さんにも怒られたし」
「実体験があるのかよ」
「あれ以来、夜に出歩くのは控えていたんだけど」
大きく息を吸う翔は、自分を落ち着かせようとしているのが目に見えた。その冷静な眼差しは、いつどこから襲われても良いよう身構えている野生動物のようで、得体の知れない何かがこの暗闇に潜んでいるのではないかという俺の原始的な疑心暗鬼とは何か性質が違う。それを頼もしく思うべきか不気味に思うべきか判断がつかない。
坂になった山道を登っていると、だんだんと息が上がって苦しくなってきた。
松明一本で暗闇を進むというただそれだけのことが、こんなにも神経を追い詰めるものなのかと実感する。歩けど歩けど、後にも先にも同じような鬱屈な景色が続いていた。
本当に家に辿り着けるのかという恐怖がちらりと脳裏を過る。
時折低い鳥類の声が木立の奥から響き、翔がびくりと振り向いた。霊を読むために足を止める以外、俺たちは進み続ける。
膝程まで伸びている灌木や藪に引っ掛かり、幾度も躓いた。耳に届くのは、自分たちが草を踏み分ける音と煩わしい喘鳴のみ。
「ん?」
突然翔が足を止めた。数歩先に進んでしまった俺は、松明の明かりが遠ざかったことを不審に思い振り返る。
見ると翔は樹の幹に手を翳し、頭上をじっと見上げていた。随分と太い立派な樹木だ。そびえ立つ枝先は闇に泥んでいる。
「どうした?」
訊ねると、翔はこちらを向かずに呟いた。「少し前に、誰かがここを通っている──」
「それは、つまり……」
その先は続かなかった。気付けば目と鼻の先に地面が迫っていた。翔の左手が俺の背を押さえつけていた。ぶつかる、と目を瞑った瞬間、今度は身体が半ば浮き上がった。何が起こっているのかまるで追いつかない。巻き上がった土埃の粒のひとつひとつを炎が照らす。背中から藪に突っ込んで倒れた俺は、翔から蹴り飛ばされたのだとやっと理解した。
「な──」
口を開くと砂っぽい味がした。顔のすぐ傍の樹木の表面から白い湯気のようなものが漂っている。冷たい。見る間に、樹は内側から氷に侵されたよう凍り付く。
暗闇から、こちらに目掛けて真っ白な光の結晶が飛んでくる。音を立ててぶつかった途端、樹や地面が凍る。素早く躱す翔は踊っているようだった。見惚れるような躍動感と、縄が解けてばらばらに飛び散る青菜や豆の袋がスローモーションに映った。
「──奴隷狩り」
その一言が膜の向こうにあるようくぐもって聞こえた。俺は指先ひとつ動かすことも出来ない。翔は速かった。荷物が地面に落ちるのも構わず、背に結わえていた長い棒を掴んだ。松明すらも宙を飛んでいた。瞬きする間に、翔が斜面の向こうへ消えていた。
後を追わなければ、と思った。細枝に身体を引っ掛けられ、苦労しながら藪から立ち上がって松明を拾う。笑えるほど手足ががくがく震えていた。
今目の前で起こったことを厳密に理解できていた訳ではない。故に、俺は翔の身のこなしの方が怖かった。とても人間の動きには見えなかった。
そうだ、俺は実感する。人間ではないのだ。ぞっと背筋が冷たくなる。踏み締めた地面から、霜が砕ける硬い音がした。
「翔──」
名前を呼ぶが、自分の声がきちんと喉から出ている実感がない。返事もない。苦労して笹薮を上り、下り坂に差し掛かる。暗い木立の中、真っ先に目に付いたのは翔の背ではなく、その先に立つ、血が通っていることを感じさせない、冷ややかな眼差しだった。
不衛生な身なり、剽悍な男の顔つきや雰囲気には見覚えがある。いや、そうでなくとも相手が誰なのか俺には分かる。奴隷商人だ。翔は、布を解いた槍を右手に構え、男と正面から対峙している。
加勢できると思った訳ではない。ただ、この状況に置いて逃げる素振りを一切見せない翔の姿が普段とは別人のように映った。翔を駆り立てる何か精神的な部分に歯止めを掛けなければと俺はその背後に駆け寄る。翔、と呼ぼうとする。
何の前触れもなく、俺は地面に突き飛ばされていた。受け身も取れず、背中と肩を木の根元に強打する。地面に投げ出された松明が、歪んだ視界の向こうで燃え盛った。何かが欲情するように。
「どけ」
振り返った翔の目はどこか関心薄そうで、焦点が合っていない。視覚はなくても音は聞こえるのだろう。そのぎらついた目に、身体が竦んで動けなくなる。今この人に突き飛ばされたのだと分かっても実感が湧かない。
突如として翔の周囲に吹き上がった風が上空へ渦を巻いた。髪が巻き上げられ、ぐしゃぐしゃになる。ざわざわと辺りの木々が騒ぎ出し、地上にあるものが全て浮き上がるようだった。奴隷商人の目の奥がざわついたのが、闇夜を通じて肌に感じた。
強烈な吐き気が込み上げる。まるで泥塊か何かを食道に流し込まれたかのように、空気の密度が濃い。以前翔が吹かせて見せたそよ風とは比較にならない。
これが“翔のスコノス”なのか。
敵を見据える翔の口から零れる声は不明瞭で、風に紛れて聞き取れない。ただ、どこか笑っているような、精神の均衡を失っている響きがあった。独り言なのか、誰かと会話しているのかも判然としない。
「掛かってこい、奴隷商人」
ひび割れた、翔らしき声の断片が届く。めくれ上がった前髪の間から一瞬だけ垣間見えた、血走った眼。背筋が凍るような笑みを顔中に浮かべた翔は、短槍を振りかざし、挑発をするように指をくいと折り曲げてみせた。




